2-21 ラバーマン

「北さん」

「なんだ?」

「自分、考えたんですが、田之上家には一切、犯人と思われる物証がありませんでしたよね?」

「ああ、それも政男を疑う根拠の一つだ」

「身内の犯行?」

「ああ……」

「でも自分、例の不審者の写真を見て思ったんです」

「なにを?」

「あの顔、どう思います?」

「もったいつけるな、早く言え」

「はい、あの不審者はゴム製と思われる覆面をしていました。ちょっとこれを見てください」

 そう言って海渡がスマホで検索した全身ラバー男の写真を北守に見せる「頭を見て下さい。あの写真と同じですよね? これだったら、この格好だったら、証拠を落とさずに犯行が可能だと思いませんか?」

「は? マジか、こんな格好を楽しむ奴がいるのか?」

 北守が目を丸くする。

「はい。全身をラバーで包み、ローションを塗りたくって交わる……そういったサークルもいくつかあるみたいです」

「へえ、で、犯人はその不審者……ラバーマンてか?」

「はい。ラバーマンは例の痴漢冤罪者で、もう一度金を無心に来たが、断られて犯行に及んだ? どうでしょう?」

「弱いな」

「え? どうしてですか?」

「そんなに金に困っていたらなぜ、理央のアクセサリーを盗らない? あの家には他にも金目の物はあったろ?」

「まあそうですが……でも金庫の中に大金があったのかもしれません」

「どうだかな……」

「それより、海渡、そいつ。ラバーマンの冤罪事件は? わかったのか?」

「いえ……春菜さんからはそれ以上の事を聞いていないし……でも、ラバーマンが犯人なら、例の書かされたという念書を盗むはずですよね?」

「あたりくらいは、ついているのか?」

「まあぼちぼち……理央さんは神奈川県相模原市の出身で、中学は自転車、高校はバス通学でした。高校卒業後から結婚までは相模原の淵野辺駅から中山まで電車通勤していたので、事件はその頃、横浜線の車両で起きたと思われます」

「警察沙汰になったんだから、そんなのすぐわかるだろ」

「いやいや、北さん。お願いはしていますが、そんな昔の事、どこの署も真面目に調べてくれませんよ。時代が時代だけにデータベースには載っていませんし、そもそも冤罪なので、記録が消されてしまっていてもおかしくないですよ」

「駅は? 横浜線の管理局は?」

「古すぎてわからないって言われました」

「じゃあ、奥の手を使ったらどうだ?」

「奥の手?」

「お前、腐ってもキャリアだろ?」

「あっ! そうか梓川署長、あの人なら超顔が広い」


 それから四日後、海渡は階段を駆け上がり息も絶え絶えに言った「北さん、わかりました。理央は、理央さんは春菜さんに嘘をついていました」

「海渡か、そんなに興奮してどうした?」

「春菜さんの言った通り、一九九六年、平成八年の七月二十五日、十七時五十二分頃、横浜線下り、町田、小淵間において田之上理央さん、当時、桶川理央さん二十二歳は痴漢被害にあい、小淵駅にて犯人である高岩省吾たかいわしょうご。会社員、当時二十六歳を駅員に突き出していました」海渡が一気にメモを読み上げる。

「それで?」

「はい、高岩は、淵野辺警察署に連行されましたが、容疑を否認。供述調書には、先日、春菜さんが言ったのとほぼ同じ事が書かれていました『お婆さんに席を譲らなかった理央さんに席を譲るよう即したが、たぶんその事に腹を立てた報復行為で、むりやり手を掴まれて、騒がれた』と言っています」

「で、その後は? 理央が虚偽冤罪で謝罪したんじゃなかったのか?」

「いえ、理央さんも引きませんでした。高岩は一貫して無罪を主張し、裁判も辞さない構えでしたが、目撃者がいない以上、被害者が折れないかぎり、裁判をしても百%負けると言われ、三十万の和解金を払って示談しています」

「ずいぶん話がちがうな」

「はい。当時、高岩は新婚で、妊娠中の妻がいましたが、離婚、会社もクビになっています」

「おいおいおいそれって……」

「高岩さんが勤めていた会社は大手のソフトウェア開発会社で、懲戒解雇されていました」

「マジか……」

「はい、更に、これは当時、取り調べをした警察官の話なんですが」

「いたのか? で、覚えていたのか?」

「はい。すぐに思い出して語ってくれました。当時三十六歳の巡査部長だった岡安さんです」

「二十七年前だぞ?」

「はい。岡安さんはすでに引退していましたが、覚えていました。当時、横浜線と相鉄線では痴漢を装って金を巻き上げる女性が何人かいたそうです。そのうちの一人、無職、及川早苗、当時二十三歳を岡安さんが検挙しています。理央さんの痴漢事件から一年ほど後だったらしいですが、岡安さんは当時、生活安全課の刑事で、横浜線車内を巡回していました。彼はその時、車内を何度も何度も見回す若い女性に気が付き、マークしていたところ、いきなりその女が隣の男性の手を掴み、『痴漢!』と叫んだそうです」

「それが及川早苗」

「はい、そうです。その時、安岡さんは、一年前の桶川理央の痴漢事件を思い出したそうです。高岩省吾は最後まで否認を続けていたし、当時はそういった冤罪事件も起きていたので、もしやと思ったそうです」海渡は一息ついてから続けた。「それでなんとなく、取り調べの時『桶川理央って知っているか?』と聞いたそうです。そしたら及川早苗は『は? 理央がどうしたって? え? あいつも捕まったの?』て言ったらしいです」

「おいおい」

「はい。理央は常習でした。高岩さんはほぼ百%冤罪です。で、安岡さんは高岩さんに連絡しようとしたが、既に彼の行方はわからなかったそうです。安岡さんは彼の離婚した奥さんに会う為に、彼女の実家である神奈川県寒川市まで行きました。どうしても伝えたかったそうです。高岩さんは無実だったと。でも彼の元奥さんはアメリカ人と再婚の予定で、既にアイダホに引っ越した後だったそうです。そこでせめてもと、元奥さん宛てにアメリカまで手紙を送ったが、あて先不明の連絡をうけたそうです」

「……小説のような話だな……」

「はい。自分もびっくりして震えが止まりません」

「という事は……」

「はい……」


 その日、田之上夫婦殺害事件の重要参考人として、高岩省吾、五十三歳が全国手配された。


 高岩省吾は簡単に見つかった。彼は取り調べにも素直に応じた。

 二十七年前の痴漢において、田之上理央、当時の桶川理央の事は、殺したい程恨んでいたし、実際、殺そうと思っていたという。

 現在、高岩省吾は山梨県北杜市、八ヶ岳山麓の麓に小さな小屋を建て、一人で住んでいる。

 二十七年前、痴漢の犯人とされた彼は妻に離婚され、会社も解雇されてしまった。唯一母親だけは彼の無実を信じてくれていたが、事件から四か月後、持病である心臓病が悪化し、あっという間に逝ってしまった。省吾に兄弟はなく、もともと父親との仲は良くなかった為、事件から八か月を経った頃、彼は無一文で家を出た。

 以降、高岩省吾は日本全国を点々とし、一か所には定住しなかったが、六年前、昔、元妻と『いつか住もう』と約束していた八ヶ岳山麓に住む事を決意し、五十万円で土地を購入、それから一年がかりで、自力で小屋を建ててそこに住んでいる。仕事は長坂のスーパーに勤務。冬場は別荘地に薪を配達するアルバイトもしているという。

 省吾が理央を見たのは、八ヶ岳の別荘地だった。彼が薪を配達に行った時、対応したのは理央だった。間違いない! 桶川理央だ! 瞬時に彼はそう思った。当時、すでに二十四年という月日が経っていたが、間違えるはずはない。省吾は彼女の左手中指を確認した。そこには土星をかたどったタトゥーがあった。やっぱり桶川で間違いない。だが向こうは気づいていない。

 それから省吾は彼女を観察した。後もつけた。千葉県の自宅を特定し、家族構成も調べた。

省吾は復讐の機会をうかがったが、なかなかその時は訪れなかった。彼女が八ヶ岳の別荘に一人で来ることはあまりない。そこで省吾は千葉県蘇我の彼女の自宅の庭にたびたび忍び込み、様子をうかがった。あわよくばという考えでゴムの覆面もした。だが、ヤクザ風の男に気づかれてしまった。その後はしばらく大人しくしていたが、どうしても腹の虫が治まらず、再び千葉に行き、理央の前に姿を現し、脅した。

 それ以降も度々、理央の後をつけ狙った。殺してやろうと思っていた。でも、いざ実行に移そうとすると、あの女と一緒にいた娘の顔がちらつき、断念してしまう。そんな事が続き、結局、復讐は止めにした。


「供述調書をまとめると、こんな感じですかね」海渡が言った。

「アリバイも成立か……」

 北守が中指で眼鏡を押し上げる。

「はい。犯行の前日は早番で、スーパーを十七時に退社、翌二月二十八日も早番なので朝八時に出社確認がとれています。千葉市と北杜市じゃ二百キロ以上離れていますから、犯行は百%不可能です」

「まあでも……振り出しに戻っちまったが、高岩が犯人でなくてよかったな」

「はい。自分もそう思います」

「高岩は痴漢冤罪について何か言っていたか?」

「はい、当時、元奥さんのお腹の中にいた子が無事生まれていれば二十六歳になる。もし、自分の子がこの世にいるなら一目会いたいと言ったそうです」

「そりゃなんとかしてやりたいな……」

「はい、自分もそう思います」

「それにしても田之上は夫婦そろって……」

「はい、死人を悪く言いたくありませんが……」

「でも娘は慕っていたか……そういえば、春菜は養女だったな?」

「はい。十五歳の時、田之上夫婦にひきとられています。春菜さんはとても感謝していましたから、娘の事は可愛がっていたのでしょう」

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