同居人ができると生活習慣が良くなる
俺は、午後の執筆にとりかかる。
彩音ちゃんは、相変わらず読書を続けている。
時折俺のスペースに入っては、俺の本棚から何冊か持っていく。よっぽど本が気に入ったのだろうか。
今までに無かった趣味を見つけたのなら、俺としてもかなり嬉しい。
「彩音ちゃん、読書楽しい?」
ふっと聞いてみる。
「はい、とっても。世の中にこんなに楽しいものがあったのか、って感じです」
……ひえ……そんなにのめりこむものなのか。
「それは俺としても嬉しいよ」
「そうですか……こんなものをありがとうございます」
今までピアノに人生を捧げてきた少女が、初めて違う世界と出会ったら……あれか? 社畜がホワイト企業に入ったようなものか?
さて夕飯……頑張って作ってみるか。
スーパーでもらった肉じゃがのレシピカードを取り出す。
人参には皮むきが必須だ。まさかピーラーを使う日が来るとは……小学校の調理実習以来である。
……うん、何か剥き過ぎたような気もするが、いいや。
あっ、玉ねぎ……目が痛くなりそうだ。
……痛い。
……痛い。
「お兄さん?」
「……あ、大丈夫だよ」
彩音ちゃんが覗いて声をかけてくる。優しい。何とか切り終えた。
パックから肉を取り出して鍋に入れる。野菜を入れて炒める。
えっと……野菜の色が変わってきたら水とだしの素を入れて煮込む。
……と簡単に書くが、結構大変で疲れる。そして熱い。
シャツを脱ぎたいところだが、彩音ちゃんのいるところで上裸になるわけにはいかない。煮立ってきたら味付け……味見をしつつ確認する。
……薄いな……う~ん、もう少しか?
大学周りの味の濃い店の料理ばかり食べてたから、何か味覚が麻痺してしまったような気がする。やっぱし醤油入れすぎか……いやもう遅い。
「彩音ちゃん……ほら、和食を作ってみたよ……」
ご飯。肉じゃが。お吸い物の素に味噌を入れただけの味噌汁。彩音ちゃんの顔がパッと輝く。
「いただきます」
「いただきます」
……うん、久しぶりに自分でご飯炊いたけど、そこそこいい感じの出来。じゃが芋を一口。……やっぱし味が濃いかなあ。
「彩音ちゃん、どう?」
「いや……おいしいです」
お世辞なのか何なのか……うん、嬉しいからいいや。
むしろ、これくらいの方がおかずになっていいんじゃないか?
食後の洗い物をしながら考える。
彩音ちゃんとの共同生活は、俺に自炊をさせるにまでなってしまった。まだ二日目である。
正直言って、こんなことになるとは予想だにしてなかった。
彩音ちゃんは、俺の予想よりもずっと普通で、そして優しかった。いやほら、天才は変人が多いっていうし……
でも、先輩と一緒にいるときの彩音ちゃんは、どこにでもいる普通の兄妹だし、俺に慕ってくる姿は、幼い子のような可愛さ。
別に俺は幼女推しでもないし、普通の人が引いちゃうようなオタクではない。
それでも嬉しいし、一人っ子にとってはなおさらだ。
夏休みの間とはいえ、この生活を全力で楽しまないといけないな……
一人でだらだらする夏休みよりも、生活習慣も改善されそうだし、よっぽどいい。家事スキルも上がると思う。
洗い物が二人分になったが……
……風呂から上がり、執筆をさらに続ける。
俺としての今日一日は、執筆と料理で終わった。
別に何もない休日は一日執筆かゲームして過ごすんだけども、料理をするってのは明らかに新しい。まあ、彩音ちゃんと一緒にどこかに行く、というイベントもこれから生じてくるわけで。
何だか少女ゲームみたいである。ただし夏休み限定だけど。
マンネリ化していた俺の生活が、明らかにプラスの方向に変わろうとしている。
「お兄さん、寝ますね」
彩音ちゃんが仕切り越しに声をかける。俺は半分だけ電灯を消した。
共同生活三日目。
といっても、何か劇的な変化があるわけでもなく、俺は執筆に精を出し、彩音ちゃんはまた読書をしていた。
その時、玄関チャイムが鳴る。
何だこんな時間に……何の営業なんだ。
俺が玄関を開けると……
「先輩……」
「おう、どうだ楽しんでるか?」
先輩は、勝手知ったるかのように靴を脱ぎ、部屋に上がり込む。
「お兄ちゃん!」
気付いた彩音ちゃんがパッと飛び出してくる。
「彩音、元気にしてたか? 八潮があんなことや変なことしてないか?」
「大丈夫ですよ!」
「まあそれもそうか、こいつにそんな度胸はない」
さりげなく何言ってるんだこの先輩は。
「で、今はどんな感じですか?」
「相変わらず警察は捜索中。彩音の両親は、わめき疲れたのか一言もしゃべってないよ。今のところは、みんな普通の誘拐だと思い込んでいる」
「彩音ちゃんを外ヘ出しても、問題ないですかね」
「それはまだ何とも言えないなあ。新聞にも載っちゃったし」
「ほんとですか」
「ああ、地域面のトップだ……どうせここは新聞なんて取ってないだろうから、写真撮ってきたぞ」
先輩のスマホの画面を覗き込む。
『白昼堂々、天才少女誘拐』
そんな見出しをトップに、俺らが一芝居打った場所の写真、彩音ちゃんの顔写真などに合わせ、記事が細かく書かれている。
「ま、これくらいの騒ぎは想定内だけどな。むしろこれから、どんどん騒ぎが大きくなるはずだ。気を付けろよ」
「わかってます」
俺は真面目に答える。彩音ちゃんを預かった身として、責任を持って夏休みを乗り切らなければいけない。
「しかし、こんなに楽しい夏休みは初めてだなあ。案外、ここがばれるのも時間の問題……なんてことはないか」
「警察が誘拐だと信じてくれて良いですね」
「ああ。一応、俺の家にも捜査来たけどな。やっぱし八潮の家に上げさせて正解だったよ」
先輩の家は、彩音ちゃんも何度となく行っていた場所だから、疑われるのも仕方ないか。
「何にせよ、俺は彩音に、夏休みを満喫してほしいんだ。これは俺からのプレゼント」
ずっとピアノだけの環境で過ごしてきた少女に贈られた休暇か……彩音ちゃんにとっては、願ってもないご褒美なのかな。
「自分も、彩音ちゃんに、最高の環境をプレゼントしてあげたい。そのために頑張るから、これからもよろしく」
「はい、お二人ともありがとうございます」
彩音ちゃんは深々と頭を下げた。
「さて、現状報告も終わったところで、昼飯にするか」
先輩が左手に持った袋から、某牛丼チェーン店の牛丼が出てきた。
「ほら彩音。お前食べたことあるか?」
「覚えてないけど、おいしそう……いただきます」
彩音ちゃんは割り箸を割って、おいしそうに牛丼をほおばる。
「八潮にも。大盛で500円な」
「俺からは代金請求するんですか」
「当たり前だろ」
……当たり前か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます