この生活からは絶対に逃げちゃダメだ
「何時ごろに寝るの?」
「夜十時には寝ます。困りますか?」
「いや、別に」
……むしろ、俺もたまには規則正しくしてみるか?
……やっぱし落ち着かん。
何だろう。普段から読書はしているのだけども。
いつもと違う場所にいるだけで、こんなにも違うものなのか。
「……あの……」
「……はい?」
「何か……暇つぶしできるものありますか?」
「……本ならあるよ? 何か読みたい?」
「……面白いものなら、何でも」
……ああそうか、ずっとピアノしかなかったから、暇つぶしということをしたことがないのか。当然、ゲームの類は持ってない。
聞くと、スマホも持ってないという。最低限連絡用のメアドが登録されたガラケーしか持ってないらしい。
俺も正確には知らないが、今の女子中学生なら、スマホを持ってることは普通だろうし、好きなアイドルやドラマやアニメやマンガがあったり、それらに付随するグッズを持っててもおかしくない、というかそれが一つぐらいあるのが当たり前だろうに。
天才が天才たる所以は、いろんなものを犠牲にした結果なのだろうけど……いくらなんだってこれはどうなんだろう。
俺だって小説執筆は趣味だし好きだけど、24時間365日それだけしろとか言われたら全力で断る。何があっても断る。
「……これなんかどうかな、あげるから読んでみてよ」
俺は、昔買った古い文庫本を一冊本棚から取り出した。推理作家の短編集だけども、中学生でも二時間あれば全部読めるぐらいの難易度だろう。
「ありがとうございます」
俺が仕切りの下から本を差し出すと、彩音ちゃんの細い手がすっと伸びて受け取った。
俺がPCで執筆の続きを始めると、声が聞こえてきた。
「もう寝ますね、おやすみなさい」
俺は部屋の電気を消す。
「あ、いいですよ、まだ起きてるんでしょう?」
「いや、でも……」
「私は明るくても寝れるんで……多分ですけど」
「わかった、ありがとう」
俺は部屋の電灯を半分だけ消した。
俺はもう少し執筆をつづけることにした。
今頃先輩は帰宅しているだろうか。もう彩音ちゃんの家では大騒ぎになっていることだろう。
……しかし、今日は激動の一日だった。一人暮らしをして、こんなことになってしまうことを、一年前の俺が予想できただろうか。
正直言って、俺は人と話すのが得意じゃない。大学のラウンジで幅を利かせてる、周りの迷惑になる大声で騒いでるテニサーの髪染めた奴らのような能力は持ってない(奴らみたいに、板書を撮ったり試験の過去問を回収する能力しか持たないようなしょうもない奴でもないつもりだが)。
おまけに相手は普通の中学生ではない。良くも悪くも世間知らずな、(言い方は変だが)箱入り娘なのである。
そんな彩音ちゃんを、見かけ上誘拐し、これから一か月少し、一つ屋根の下でともに生活する……高い報酬の代償は、なかなかきつそうだ。
救いなのは、彩音ちゃんが俺にやさしくふるまってくれるのと、俺も多少はピアノや音楽の知識があるってところだろうか。
そんなのは、二人の間を埋めるのに、そして彩音ちゃんにとっていい影響を及ぼすのか?
……わからない。ただ、引き受けてしまった以上、この仕事はやり通さなければいけない。俺には、逃げることは許されてないのである。
ブルルルル
目を開けると、スマホが振動していた。
……やばい、まさかの寝落ちをかましていた。
昨夜は結局、執筆しながら睡魔に負けていたらしい。 スマホを見ると、朝の八時。
仕切りの向こうの窓から、日光が差し込んでいる。
……ん、窓が開いてるということは、彩音ちゃんは……?と思ったとき、その彩音ちゃんの声がした。
「……あ、おはようございます」
「おはよう……彩音ちゃんはもう起きてたのかな」
「はい、六時にぴったり、目が覚めちゃって……習慣は怖いですね……」
「それは……」
体に染みついたものは、たとえ環境が変わっても……ということか。
「でも、なんか昨日は、すごくよく眠れました。こう……リラックスできたというか……気が楽です」
まあ、それはそうだろうな。学校の寮みたいな管理生活から、堕落した大学生の生活だからな。
「まあ、今まで寝れなかった分までしっかり寝て……いや、夜更かししてもいいし……健康にも気を付けてな」
「はい」
しかし休日に八時起きとなると、俺にとっては結構早起きの部類に入るのだが……え、お前にも中学生のころがあっただろって? ……それは言ってはいけない。
メールをチェックする。先輩からだった。
『予定通り、車をレンタカー屋の前に置いて、昨日の23時ぐらいに家に戻ってきた。彩音が誘拐されたことはもう家族は知ってて、もう両親涙でボロボロ。警察にも連絡してたらしくて、今日から捜索を始めるらしい。警察はとりあえず身代金目的の誘拐だと思ってるみたいだ。一応彩音を外に出すときは、できるだけ顔を見せない方がいいかもしれない。じゃあ、彩音をよろしく頼む』
ほっと胸をなでおろす。何とかうまく進んでいるみたいだ。
返信を考える。
『おはようございます。計画上手くいっているようで何よりです。彩音ちゃんは家でしっかりしています』
……そうだ、せっかくだから。
「彩音ちゃん、先輩からメール来てるよ、読む?」
「あ、はい!」
仕切りの向こうから出てきた彩音ちゃんに、スマホの画面を見せる。
「……あ、ありがとうございます……」
「返事書く?」
「……え、え、いいんですか?」
すごい喜びっぷり。
「うん、その方が先輩も喜ぶだろうし」
俺はスマホをメールの返信画面にして彩音ちゃんに渡す。
「ありがとうございます! えっと……」
スマホを渡された彩音ちゃんは、慣れてなさそうな手つきで文字を打ち込んでいく。
「あ、すいません、触るの初めてなので……」
「いいよいいよ」
俺は冷蔵庫に行って、コンビニのサンドイッチを二つ取ってくる。俺のコップと彩音ちゃんのコップに麦茶を注ぐ。
「朝ごはん……こんなものだけどいいかな」
「ありがとうございます、大丈夫ですよ」
俺は床に二人分のサンドイッチと麦茶を置く。
俺の分を開け、卵サンドを右手でつかんで口に運ぶ。
俺にとっては普段の朝飯だが、彩音ちゃんにとっては……?
「あ、これで……」
彩音ちゃんがスマホを返してきた。
『お兄ちゃんヘ。私のためにこんなことをしてくれて、本当に感謝しています。八潮お兄さんの家もとても居心地が良くて、まるで天国のようです。ありがとう。彩音』
……天国、ねえ……
「はっ、私、なんてことを……」
彩音ちゃんの顔がぱっと赤くなる。
「いやいや、うれしい限りだよ……じゃあ、先輩に送るね」
彩音ちゃんの打った文に、俺の文を付けて送信ボタンを押す。彩音ちゃんは、サンドイッチを食べ始めていた。
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