妹(仮)とお出かけをする
車は裏道から、いつの間にか高速道路に乗り、海沿いの工業地帯に入っていた。
午後一時を過ぎ、どこを向いても工場という湾岸地帯の中に、申し訳程度に作られた小さな公園に、車は止まった。
「よし、大丈夫だ……誰もいない」
先輩があたりを注意深く確認した後で、俺ら三人は車から降りた。
「ふう……こんなに長く運転したのは初めてだ……」
「あの……」
「おっと忘れてた、言われた通り、着替え持ってきたぞ」
この不審者スタイルのままでは暑いし、とにかく外を出歩けない。
そこで、先輩に頼んで、あらかじめ俺の分の着替えを車に積んでもらったのだ。
「それと、彩音の分もあるぞ」
「ありがと」
ああそうか、鍵海さんもずっと制服のわけにはいかないか……
「じゃあ、彩音は車の中で着替えだ。狭いけどすまんな」
「俺は……?」
「お前は外でいいだろ」
えっ……まあ、どうせ先輩しか見てないしいいか。
私服姿の鍵海さんは、制服の時とはまた違った印象だった。
「いいだろ」
「えっ、何がです?」
「とぼけんなよ、ずっと彩音に見とれてたくせに」
「……そうですかね」
「……お前、彩音のコンクールのドレス姿、見たことあるか?」
「まあ、何回か写真で」
鍵海さんは、コンクールでは決まって白いドレスだ。あれが真っ黒なピアノとよく映えているのである。
「……実はあれ、両親に着させられてるんだよ」
「……本人は望んでない、ってことですか?」
「そんなところだ。彩音は、飾らずにピアノを弾きたいんだよ。その方が弾きやすいし、心がこもるって言うんだ。でも両親が……」
「そうなんですか……」
まさにそれこそ、やらされてる演奏だ。
「だから、夏休みの間は、彩音にオシャレでいてほしいんだよ。頼む」
「よくわかりました」
午後二時。
「よし、じゃあそろそろここを出るか」
先輩が車に乗り込む。
ここで先輩とは別れ、俺と鍵海さんはバスと電車を乗り継いで俺の家に戻る。
先輩は近くの倉庫群に車を隠し、事前に買っておいたコンビニ弁当で夕方をしのぎ、深夜に近くにある、車を借りたレンタカー店の前に車を置く。そのあと、さも誘拐犯から逃げてきたかのように帰宅する予定だ。
「じゃあこれから、彩音をよろしくな」
先輩は車のエンジンをかけ、来た道を戻っていった。
「……じゃあ、行きますか」
「はい」
ここヘ来るときに確認したバス停まで歩く。時刻表通りにバスは来た。
平日の閑散とした午後。湾岸の埋め立て地を走ることもあってか、乗客は俺たちのほかに高齢の男性が一人だけだった。
鍵海さんは、周りを物珍しそうに見ている。そういえば、前に先輩に聞いたっけ。
「直接俺の家まで車で行った方が、いいんじゃないんですか? 万が一、鍵海さんを知ってる人とかがいたら……」
「いや、あの車がお前の家まで行ったことがばれる方が、はるかに確率が高く、そして危ない。お前の家は、俺や彩音の家から決して遠くはないからな。それともう一つ……」
「何です?」
「彩音に、お出かけ気分を味合わせてやりたいんだ」
「はい?」
「言ったろ? 彩音は家と学校とピアノ教室を往復するだけの生活だって。あいつ、公共交通機関を基本的に使ってないんだよ……コンクールヘは両親が車で送迎してたし。路線バスとか、下手したら乗ったことないんじゃないかな」
……確かに、さっき乗る時も降車用ドアから乗りそうになってたからなあ。
「鍵海さん」
「は、はい、何でしょう」
「そ、その……楽しいですか?」
……って、何聞いてるんだ、俺は。
「はい、とっても楽しいです」
隣に座る鍵海さんがほほ笑む。窓から入る日光で、とてもまぶしい。
なんかこう……本当に、普通の女子なのだ、鍵海さんは。
決して特別な人なんかじゃない。いや、確かにピアノに関しては特別な人なのかもしれないけど、だからって自分の生き方を固定されるのは、どう考えても不条理だ。
これをずっと見てきた先輩の思いは、何だったのだろうか……
バスは徐々に住宅街に入り、乗客も増えてきた。
鍵海さんは周りに顔を見られないようにと、うつむき寝たふりをする。
一時間ぐらい乗っていたのだろうか。終点の駅に着いた時には、もう午後三時を過ぎていた。
ここでも鍵海さんは、周りに興味津々だ。
駅前広場の噴水をスマホで写真撮ったり、券売機の上にある運賃表に見とれたり……まるで田舎から旅行しに来たみたいだ。
俺も修学旅行で東京に行ったときは、あちこちが珍しいものばかりで、スマホで写真撮りまくったのを覚えている。
今の鍵海さんにとっては、見るものすべてが新しいものなのか……
さらに一時間ほど電車に揺られる。
俺の家は駅から近いといっても、着いた時にはすでに午後四時半だった。
いかにも下宿といった感じの、鉄筋造りの二階建てアパート。201号室が俺の家だ。鍵を開け、玄関で靴を脱ぐ。
「とりあえず、座ってください」
新しく買ったクッションに、鍵海さんを座らせる。
玄関を開けると、六畳ぐらいの部屋が一つ。正面に窓。あとは、簡単な台所と、風呂、トイレ。これが、俺の家のすべてだ。
田舎の家に比べると狭いが、慣れると大丈夫になってきて、今では悠々自適な居城になっている。といっても、鍵海さんを預かることになって、大掃除したが。
そして今は、段ボール箱がいくつか積んである。
鍵海さんの服や生活必需品を、少しずつ鍵海さんの家から運び出し、俺の家で預かったのだ。
「えっと……改めまして、よろしくお願いします」
「いえ……こちらこそ」
なぜかもう一度あいさつ。……何を話せばいいのだ?
「あ……いいですか」
と思ったら、鍵海さんの方から口火を切った。
「そんなによそよそしくしなくて大丈夫です。私のことは彩音、と呼んでください。敬語もいらないですよ」
「……でも……」
「むしろそうしてください。……お兄さんとは、他人でいたくないんです」
「お兄さん……って、そんな……」
「お兄ちゃんから言われたんです。ぜひそう呼んでやれって」
お兄ちゃん……先輩と本当に兄妹みたいだ。
……しかし、そんなに簡単に心を許していいのだろうか?
……いやでも、本人が望んでいるのなら、そしてそれが、彼女に新しい世界を見せるなら……俺は、いくらでも協力してやる。
「わかった、彩音ちゃん。少しの間だけど、よろしくね」
俺がそういうと、彩音ちゃんの顔がぱあっと明るくなった。まるで精気がみなぎったかのように。
「よろしくお願いします!」
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