先輩を本気で殴った


 それから数週間、先輩による計画を心に秘めながら、俺は過ごした。試験は……まあ、落第しない程度の成績は取れたと信じている。

 必要なものは、全て先輩が用意してくれた。逃走用の車、俺の顔を見られないためのサングラスやマスクなど。

 当日は、先輩が鍵海さんの誕生日プレゼントを一緒に選びに行くという名目で、一学期の終業式を終えた鍵海さんと先輩が待ち合わせし、予定の場所に向かう手筈になっている。

 そして、俺が誘拐して、車で遠くヘ逃げる。

 警察が出てくるころには、鍵海さんはすでに俺の家、という計画だ。


 その決行の日が、今日7月21日なのである。計画通りの動きができるよう、何度も練習した。



 しかし、いざ本番となると、体が震える。もう一度、深呼吸する。

 見かけ上は、鍵海さんが誘拐されたように見せなければいけない。

 しかも、できるだけ多くの人が見てる場所で行い、鍵海さんの両親に誘拐を信じ込ませなければいけない。

 その意味で、この大通りが決行場所なのである。腕時計は、11時40分を示す。

 そろそろかな……俺は、自販機の影から歩道の先を覗く。



 ……いた!

 赤と茶色の派手なチェックシャツに身を包んだ先輩が見える。ということは……


 先輩の隣、談笑しながらこちらに歩いてくるのが、鍵海さんだ。実際にこの目で見るのは初めてである。

 新聞記事やテレビで見たのと同じ顔。見た目は、本当にごくごく普通の女子で、天才ピアノ少女なんてことは、言われても信じられないであろう。

 うん、ここから見ると、先輩と鍵海さんは本当に兄妹のようだ。周りの人も、特に鍵海さんに気づく様子はなくすれ違っていく。

 二人の姿がだんだん大きくなる。

 自分と逃走用の車の、ちょうど真ん中にあるマンホールを先輩が踏んだら、決行の合図だ。俺は、高まる鼓動を抑え、先輩の動きを見つめる。

 落ち着け、落ち着け、落ち着け……



 先輩の体が、俺のすぐ前に来る。



 先輩の右足が、マンホールのその真上に、落ちた。



 俺は自販機の影から飛び出し、駆け出す。

 その勢いのまま、先輩の左頬に、渾身の右ストレート……を浴びせるふり。

 あ……マジで当たっちゃった?……まあ仕方ない。


 先輩がよろめいてる間に、左手を鍵海さんの首に後ろから回し、がっとこちらに引き寄せる。同時に、右手で服の内ポケットから、真っ黒なモデルガンを取り出し、先輩に銃口を向ける。こちらを向いた先輩の、迫真のおびえる演技。

 そのまま一回りし、周囲の人々を牽制する。

 このモデルガンも先輩から渡されたものだ。先輩はどこで手に入れたのか教えてくれなかったが。

 心配ではあったが、一般の人をだますにはこれでも十分なようだ。

「おい、後ろに黒いワゴンが止まっているだろう。乗れ」

 マスク越しに響く声。先輩にため口なんて、一生無い機会だろう。

「えっ……」

「早く!」

 その声とともに、俺はモデルガンを突き出す。

 先輩は、演技しながら、そのまま後ずさりする。

「鍵は開いている。中に入れ」

 先輩が背中を向き、ワゴンのドアを開け、中に入る。

「よしよし……そのままだ」

 俺は先輩にモデルガンを向けながら、左手で鍵海さんを半ば引きずり、車に乗り込む。俺は助手席に座り、膝の上に鍵海さんを乗せ、ドアを閉める。



バタン



 ドアが閉まったと同時に、運転席の先輩が車のニンジンを点けた。俺は、窓からモデルガンを外に向けて威嚇し続ける。

 そのうちに、車は走り出した。

 すぐ次の角を左に曲がり、一方通行の狭い路地ヘ入っていく。先輩が考えた、この時間帯に混んでいない裏道だという。

 今更ながら言っておくと、俺は運転できないが、先輩はちゃんと大学一年の時に免許を取っている。



 鍵海さんが、運転席と助手席の隙間から、後部座席ヘ体を滑り込ませると、ようやく心臓の鼓動が収まった。

「……はあ……」

「お疲れ。お前、すっごい汗だな……まあ当たり前か」

「先輩……本気で殴っちゃってすいません」

「気にすることないよ。お前の協力がなければ、この計画はなかったんだしな。ありがとう」

「いえ、そんな……」

「あ、えっと……ありがとうございます」

 ふっと、後部座席の鍵海さんから声が聞こえた。

「私のために、こんなことを……なんと申し上げたらいいのか……」

「大丈夫ですよ……というより、初めましてですね」


「あ、そうですね……初めまして、鍵海 彩音です」

「初めまして、八潮 啓也です」

 ……こうしてみると、ますます普通の女子だなあ。

 制服姿の彼女は、俺の中学の時の知り合いの女子と、外見面では何ら違いはない。

「彩音、緊張するなよ。八潮は、これからお前を責任もって預かってくれるんだ。もっと気さくにやっていいんだ」

「でも……」

「頑張れ彩音。八潮を友達だと思ってみろよ。友達、欲しかったんだろ?」

「そうですよ、年は離れてますが、仲良くしましょう」

「八潮も固くなってるぞ、妹ができたぐらいの気持ちで行けよ。敬語使わなくていいから」

「先輩、そんなんで……」

「いいんだよ。彩音のためだ。……もっとも、親しみすぎて、同居中に間違いがあっちゃ困るが」

「ちょっと先輩!」

「冗談だよ、お前を信頼してる。彩音のために、頑張ってやってくれ」

先輩が熱い……本当に、鍵海さんのことを考えているんだなと、ひしひしと伝わる。

「すごいです、先輩……」

「ん? どうした?」

「……いや、何でもないです」

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