こんな生活は嫌だ


 鍵海かぎうみ 彩音あやね

 中学二年生にして、すでに海外の有名なコンクールで、並み居る大人を抑えて何度も優勝している天才ピアノ少女である。

 俺が初めて知ったのは、動画付きのネット記事だったか。これは十代にできる演奏じゃないと、俺も素人ながら鳥肌が立ってしまったのを覚えている。

 その後、メディアが本格的に『天才』の名を冠して追いかけだすと、その知名度は瞬く間に広まっていく。


 二、三年前、何かの音楽番組に出てたのを見た記憶がある。

 見た目はごくごく普通の女子だけど、ピアノの前に座ると、俺なんかが一生かかってもできないような超絶技巧を平然と弾いてのけて、共演者を驚かせていた。

 最近じゃあCDを出したみたいな話も聞く。今じゃ少しでもクラシックに興味ある人なら、絶対顔と名前を覚えているような有名人である。



 そんな子が、先輩のいとこ……?

「周りが騒ぐといやだから、親戚以外には言ってないんだよね。お前も、誰にも言わないでくれ」

 俺は大きく首を縦に振る。


「でさ、なんだか夢のない話だけど……」


 音楽好きの両親(先輩の母の妹)の影響で、鍵海さんは三歳の時にはもうピアノを弾いていたという。父が趣味でずっと弾いていたんだとか。

 ピアノが大好きだった鍵海さんに先見の明を見た両親は、鍵海さんに徹底的にピアノをやらせよう、と考え、小学校に入れるとすぐ教室に鍵海さんを通わせた。

 下校してそのまま教室ヘ行き、家に帰っても、夕食と風呂の時以外は、寝るまでピアノを弾かせたという。

 鍵海さん自身も、大好きなピアノが生活の中に浸透するのは、ごく普通のことだと考え、ひたすら弾き込んでいった。

 才能にも恵まれた鍵海さんは、みるみるうちに上手くなる。

 学校にいるときと、三食、風呂、寝ているとき以外はずっとピアノの前。365日それが続く。

上達する鍵海さんに、両親は賛辞を惜しまず、さらにピアノを練習させる。だからもっと鍵海さんは上手くなる。ひたすらその繰り返し。

 そうしてコンクールに出ては優勝をかっさらい、周りが『天才』と騒ぎ出した小4のころから、そんなピアノ漬け生活の代償が出てきたという。



 学校と自宅とピアノ教室を往復するだけだった鍵海さんには、周りの子供たちの当たり前が、無かったのである。

 友達がいない。外で遅くまで遊んで汗を流すとか、門限を破って親に叱られるとか、コンビニで買い食いしたりとか、そういう経験がない。

 そもそも他人と話さない。同級生からピアノの能力を褒められたとしても、返す言葉が思いつかない。

 教室の中では、明らかに浮いた存在であった。



「でも、コンクールとか、テレビ出てた時は、普通に話してたと思いますが」

「あれは台本通りにしゃべるよう練習させられてるの。あれもピアニストとして必要なスキルだとか」



 そしてそのうち、鍵海さんは気付いた。自分はピアノを弾かされていると。

 両親は、自分をピアノが上手い、としか言ってくれない。いや、ピアノの先生もピアノつながりで知り合った人も、周りで騒ぎ立てるマスコミも。自分を、ピアノでしか見てくれていない。

 実際、自分があるコンクール前に高熱を出したときの、母の最初の言葉は何だったか?

「これじゃコンクールに出れないじゃない! ちゃんと体調管理しなきゃ! 大丈夫? 今病院に電話するからね?」

 そう、両親は自分がコンクールに出れるかどうかが心配なのだ。自分が心配なのではない。

 自分はピアノを弾くのが大好きだ。三度の飯より好きだ。24時間弾いてられる自信もある。それは確かだ。

 でも、他人のために弾かされるのは好きじゃない。スキルアップにはなっても、楽しくない。弾きたい曲を、弾きたいときに、弾きたいだけ弾きたい。

 ……そう考えてみると、最近弾きたい曲を弾いてない。ピアノの先生から勧められた曲を、コンクールのために弾いてるだけだ。


 ……こんな生活いやだ!

 周りの子はどうだ? 中学生ともなれば、行動範囲も広がる。一緒に映画を見に行ったり、服を買いに行ったり、わけもなく川べりでたわいない話をずっとしたり……

 それって、絶対楽しくないか? うん、そうに違いない!



「……とすると、誘拐ってのは、要は家出ですか」

「そうだな。誘拐されたことにすれば、彩音は怒られないだろう?」

「確かにそうですね。……で、先輩がそれに協力すると」

「昔からの仲だからな……特に彩音にとっては」


 先輩と鍵海さんは、共に一人っ子だったこともあって、実の兄妹のように感じあっているらしい。

 特に鍵海さんにとって、先輩は唯一本音を打ち明けられる存在であり、心のよりどころになっているとか。

 先輩が大学に入り、鍵海さんの家から歩ける範囲のところで一人暮らしを始めた三年前からは、鍵海さんが下校やピアノ教室ヘの行き帰りに先輩の家ヘこっそり寄り道したりと、さらに親密な状態になっているようだ。

 鍵海さんから家出したいという意思を初めて聞いたのは、先月初めだという。

 初めは驚いていた先輩だが、鍵海さんの事情は前から知っていたこともあり、「なら全面的に協力する」と決意。そして二人で計画を綿密に練り上げたとのこと。



「……なるほど、事情はよく分かりました……で、何でその計画に俺が必要なんですか」

「というと?」

「鍵海さんは普通に登下校や、ピアノ教室ヘ行き来してるんでしょう? だったら平然と家を出て、そのまま先輩の家にかくまっちゃえばいいじゃないですか」

「それじゃだめなんだ。家出したんじゃなくて、完全に第三者の手で誘拐されたってことにしないと、あの両親は納得しないし……それに、いとこの俺の家だったら両親とか警察とかが調べに来るかもしれないが、無関係のお前の家なら安心だろ?」


 まあごもっともだ……ん?


「ちょっと待ってください、今『お前の家なら安心』って言いましたよね? 俺の家に鍵海さんを預ける気ですか?」

「大丈夫だろ、お前の家行ったことあるからわかるけど、部屋そこそこ広いし、風呂もちゃんとしてるし」

「いや、そういう問題じゃ……」

「俺もできる限り行ってやるから心配するな」

「だから……」

「ああ、彩音の分の食費とかはこっちで出すから平気。それに……小説のネタにはいいだろう?」


 うっ……そこを突かれると痛い。 

「それに、そういう気苦労も含めて、報酬は弾むよ。期間は彩音の夏休みの間だ……家にずっといるのが嫌なら、彩音を外ヘ連れ出していって構わない。いや、むしろ彩音に外の世界を見せてやってほしい」

 先輩……サークルで見せる表情の、何倍も真剣である。


 そして、夏の間鍵海さんと一緒に……いや待て、こんなんで心を動かされて……


「……具体的に、いくらもらえますか?」

「そうだな……」

 先輩はカバンからメモ用紙とシャーペンを出す。紙の上に数字がいくつも書かれていく。



「……これぐらいでどうだ?」

「……わかりました、やります」

 ……お金の力には勝てなかった。


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