俺とピアノ少女の夏
しぎ
本人の同意のもと行われる誘拐
7月21日、午前11時半。
俺は、全身真っ黒な服にサングラス、マスクという、誰が見ても不審者という格好で、自販機の影に隠れていた。
市役所やオフィスビル、総合病院などが並ぶこの通りは、二十四時間人通りが絶えない。パラパラと、ランチに繰り出す会社員の姿も見える。
建物の合間に数台並ぶ自販機の影で、俺は時計を何度も確認する。
中年の会社員の男が通りかかり、自販機で缶コーヒーを買っていく。
俺は右腕の腕時計をもう一度確認する。
11時35分。
道路に目を向けると、先輩の用意してくれた黒いワゴンのレンタカーが止まっている。迅速に仕事を終わらせるために、車のカギは開けてある。
……一回深呼吸する。
――俺は、大丈夫なのだろうか?
***
先輩から最初に話を聞いたのは、7月に入って最初のサークルの日だった。
「八潮、良いバイト……いや、頼みがあるんだが」
「はい?」
俺……
俺は某大学理工学部の2年生。四方八方山しかない、という田舎から出てきて、一人暮らし二年目である。
小遣い稼ぎにバイトをしつつ、文芸創作サークル、そして授業を時に切りつつ、それなりに楽しい大学生活を送っている。
「ぜひお前に頼みたいんだよ。サークル終わったら、ちょっと時間あるか」
「はあ、別に……」
サークル終わりに、俺は先輩に連れ込まれファミレスに来た。
「さて、そろそろ本題に入るか……」
食事が終わり、ドリンクバーのアイスコーヒーを飲み干すと、テーブルの向かいの先輩が真剣な顔つきになった。
平日の夜、大学に近いこのファミレスは俺たちのような学生でにぎわっている。
隣のテーブルから愉快な笑い声が聞こえる中、それらとは程遠い雰囲気で先輩は話し始めた。それもぐっとこちらに顔を近づけて、周りを警戒しているような小声で。
「ざっくり言うと、お前には誘拐をしてもらいたい」
……え?
「な、何を言って……」
俺の思わず出た大声を遮るように、先輩は俺の両肩に手を伸ばした。
「まあ聞いてくれ。誘拐といっても、身代金で一儲けとかするわけじゃないんだ。それに、誘拐してほしいのは……俺のいとこだよ」
……どうなってんだ。
先輩にいとこがいるというのはいつか聞いたことあったけど。
「夏休みの間中、俺のいとこを誘拐して、あいつに付き合ってもらいたい。それが俺からの頼みだ。謝礼は弾むよ」
「いやでも、誘拐って……犯罪じゃないですか。俺が警察に電話でもしたらどうするつもりなんですか」
「ああ、心配するな。俺もちゃんと法律を調べたわけじゃないけどさ……」
いったん先輩が言葉を切る。そして何か決心したかのように……
「誘拐される本人の同意のもと行われる誘拐は、罪にならないだろ?」
……確かにそうだとは思う……ってじゃあ……
「先輩のいとこは、誘拐してもらいたいってことですか?」
「そうだ、すでに話は何度もしてるんだ。計画もすべて立てている。お前が協力してくれれば成功だ」
罪に問われないのなら……いや待て待て。不明瞭な点が多すぎる。
「でも、何ですか誘拐してもらいたいって」
「うん、そこが一番重要なことなんだけど……やっぱ初めから話すべきかな。ちょっとタンマ」
先輩はそこで立ち、カラのコップを持ってドリンクバーに向かった。
俺は手元のアイスティーを飲みながら考える。
俺は今、金に余裕がない。試験も近くなってしばらく出費は減るだろうが、夏休み、地元に帰省する分の金を差し引くと、遊びに使える金はかなり少ない。
今のバイト先はイベントヘの人材派遣会社だけど、仕事がきついわりに給料がそうでもないし(手取りなのは利点だが)、いつ仕事が来るかわからず不規則なので、七月中でやめて、夏休みは違うところに行こうか、なんて思ってる。
だから、先輩が謝礼は弾むと言ってくれるのは嬉しいのだが……どう考えても仕事がおかしい。
「悪いな、お待たせ」
先輩が緑茶を持って戻ってきた。
「最初からこれ話しとくべきだったかな……お前、ずっとピアノやってたって言ってたよな」
「はい、そうですけど」
何でピアノ始めたか、もうよく覚えていない。
少なくとも小3の時にはもう弾いていた記憶がある。
あまり運動が得意でない俺にとって、小説執筆とピアノというのは、俺の公言できる趣味であった。
小中学校なんて各学年十人ぐらいしかいなかったから、何かの行事でピアノで伴奏するのが俺の仕事みたいになってた。今も実家にはピアノがある。
高校でも軽音楽部に入り、部の備品だったキーボードで、いろんな曲を弾いたものである。それこそクラシックからアニソンまで。
さすがに今のアパートにピアノは持ち込んでないが、動画サイトに上がってる上手い演奏を聴いて暇つぶししたり、身についた音楽知識は割とあちこちで役立っている。
……で、それが何か関係あるのか?
「なら、わかると思うんだ。……これが俺のいとこ」
先輩は、カバンの中から新聞記事の切り抜きを取り出した。
……!!
先輩が指し示した先には、一人の女の子の顔写真があった。俺もテレビで見たことがある顔が。
「やっぱし知ってたか。鍵海 彩音。実は俺の母さんの妹の娘なんだよ」
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