仕事
私は暗い部屋で1人。
そうしていたかった。
結局私はバイトをしている。蜜柑を買わなければいけないし、住むところも必要だから。だけど6年間休むことなく続けた蜜柑の具体化は手につかなかった。
私は生まれて初めて仕事をしていた。蜜柑のためでもなく自分のためでもなく働いている。文句を言う人が嫌いだ。自分の選択した仕事に後から文句を言う人がよくわからなかった。雇用契約と実際が違ったならどこかにいけばいい。だけど文句を言う人ほど長居する。どこに行っても文句を言うだけだ。だってあの人達は何もしたくないだけだから。私も今、そうだった。だからわかる。何故ハンバーガーを売っているのだろう。なぜ誰かのシフトの尻拭いをしなければいけないのだろう。蜜柑との蜜月を失った私にはわかってしまった。
でも私は文句を言えない。文句が嫌いだから。あと言う人がいなかった。私は暗い部屋でも、明るい店内でも1人。
バイト着から着替え終わってスタッフ用の重たい扉をくぐろうとすると珍しく私に声をかける人がいた。
「斎藤さん、おかえりですか?」
わかりきったことを聞く。
「はい」
「雨ですし傘2本あるのでよかったらどうぞ」
扉の向こうはしっかりと雨が降っていた。
ありがとうございます、と言って私は差し出された傘を受け取ると開いて歩き出そうとした。
「あともしよかったら」
私は傘をくれたのだからまた何か良いことがあるのではないかと振り返った。
「今からご飯いきませんか?」
良いことなのだろうかわからなかった。
屋敷は「駅のそばにカレー屋が出来て配っていた割引券が今日までだったから」とか言い訳がましいことを言っていてダサかった。そういえばこいつは2年前にバイトに入った時も自己紹介で大学名を言う時にだけ声の調子を変えて振りかぶっていてダサかった。偏差値は高いのに見栄の下でしか息ができない精神性をしているのだろう。屋敷というなんだかお金持ちそうな苗字で振りかぶればいいのに。掴みとしてもおもしろい。
最新のインドの料理屋は昔と違ってインドのカウントダウンTVみたいなヒットランキングが流れている。私はインド神話を思わせるような独特な雰囲気が好きだった。だけどなぜだか40人くらいで踊るミュージックビデオが10位~1位までずっと続いている様を見ているとだんだん好きになった。400人くらいが踊っているところを見た。
屋敷とは何か話した。それよりインドカレーはどこのお店も同じ味だということを確認していた。ナンもインドカレーも好きだ。どのお店でも大体同じ味のカレーが食べられる。どちらかと言えばナンの方がお店に個性がある。甘さ、パリパリなのかふっくらしているのか。言語化したらそれくらいだけどその2つの違いだけで全然違う。
「最近なんだか元気がなかったからご飯ご一緒できてよかったです」
ナンを千切りながら屋敷は言った。とてもダサい。
「最近色々あったので」
「斎藤さんって6年うちのお店で働いてらっしゃいますよね。良くないかもしれないのですが他の人から芸術活動されていて正社員の話も断ったって聞いたんです」
屋敷は饒舌だった。インドカレーだけは美味しい。
「俺もうすぐ就活なんです。でもあんまり自分がなくて斎藤さんみたいな人の話聞きたいんです。良い大学出ても仕事で悪いことしたり、奥さんと離婚して親権争ってるとか…大きな声じゃ言えませんが薬とか…学生に酒おごってそんな話をしてくるんです。そんなOBめっちゃ見てて。でも俺はたぶんそういう人に似ているんです。だから今日呼び止めてしまいました」
屋敷はダサい。理由なんて知らない。
「屋敷はダサいね。理由なんてどうでもいいよ」
充分に気を遣ったのに屋敷は傷ついた。口を開けたまま今まで目を合わせられなかった私の顔を凝視する。
「気にしすぎじゃない?」
私は屋敷の表情をまずどうにかしようと千切ったナンを身を乗り出し、手を伸ばして屋敷の口に押し込んだ。屋敷はナンを咀嚼するために口を閉じた。だけど何も言わなかったから続けた。
「そういうOBは悩んでないよ。屋敷は悩んで私を呼び留めてるじゃん。じゃあもう違うよ。それでいいんじゃない」
屋敷はナンを咀嚼する度に目を潤ませた。屋敷はたぶん私の言葉に感動した。めんどうだから言っただけなのに。この時に私はひらめいた。この状態の人間になら蜜柑のすばらしさを刷り込めるのではないだろうか。バイト先の同僚というリスクはあるがリターンに目が眩んで私は止まらなかった。
「今日私の家においでよ。全部教えてあげる」
屋敷に会計を払わせてから店を出る。雨は強まっていた。屋敷は自分の傘が2本もあるのに自分の手元の傘を広げると私に入るように促した。結局屋敷の肩に身を寄せる形になった。私はセックスのことが頭をよぎった。まだ人と交わったことがない。屋敷は確かアメフト部だ。体もでかい。梶井基次郎はモテなかったが童貞ではなかった。私は今回以外にも何度か誘われたことがある。モテて処女だ。モテて経験済みになる。勝てるかもしれない。その先に良い表現があるのかもしれないと思った。
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