敗北
私は家に帰ってからの方がドキドキしていた。違法行為を咎めるために警察が玄関ベルを押すかもしれないから。それもある。私の胸の高鳴りの大半は興奮だった。あの美しい蜜柑の絵がどういった風に見る人に捉えられているのだろうか。私の妄想は止まらなかった。
最初は違法に貼り付けられたポスターに怒りを覚えるのかもしれない。その目に映る色に、構図に気付いてしまえば怒りを覆いつくして私の感動が必ず伝わるのだと信じた。いや信じたわけではない。もし私の感動がそのまま他の人に伝播したならテーマパークのような人の海が出来るはずだ。波打つように人が潮流を成して私の絵に向かう。SNSで拡散されてきっと新幹線や飛行機を予約してでも人がやってくる。でも半日たった今も近所は静かだった。ただの春だ。
私は冷静になった。6年近く毎日座ったPCデスクで落ち着いた。モニターとキーボードの間のステージに立つ蜜柑を見つめて話しかけた。
「みんな見てくれるかな」
私から蜜柑に話しかけたことが初めてだった。私は驚いた。これまでの人生のすべてを示したいわば神に初めて質問をした。返答はない。神とはそういうものだ。蜜柑は示す。私は行動する。私は行動した。
指先でステージに置いた蜜柑に触れた。春の昼間の冷房を入れるほどでもない暖かい空気の中でも蜜柑の表面はひんやりとしていた。途端に思考がクリアになる。
私は怯えている。あの絵が誰にも見られていないこと。地権者である林が気付いて剥がして捨ててしまっていること。誰の心の内にも入らないこと。そんなふうに考えてしまう自分の努力の足りなさ。
私は座面の上で膝を折って抱えるように座り直した。少し小さくなりたかったから。抱えた膝から腕に熱が伝わる。ひじを掴む掌にも熱が伝わる。私の気持ちは臆病な自分に落ち込んでいる。だけど血は巡って暖かった。
私はまた行動した。靴を履いて玄関を出る。林の家へ向かう。
誰にも見られていなかった。それどころか攻撃を受けていた。私の蜜柑の絵はアスファルトに落ちていた。裏側だけが目に触れる状態だった。裏面に子供の靴の跡がいくつもついている。
私はそのままにして家に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます