公開
いよいよ蜜柑一派の拡大の時がきたのだった。しかし6年間家に籠って蜜柑を表現していた私にはどうしていいのかわからなかった。手元にある1枚の完璧な蜜柑の絵を誰にどう見せればいいのだろうか。
私は美術館のような場所にこの絵が飾られているところを想像したがそれはなんだかむずかゆかった。美術館に置くのは梶井基次郎っぽい。違和感を頼りに考えてみると蜜柑がそんな場所にあるべきではないと思い至った。個人制作作家がレンタルできる展示スペースはそんな心持はずいぶん抑えられるのだけどこのA2サイズ1枚を飾り人を呼ぶことを考えると難しいと思った。
果たしてこの蜜柑の絵に相応しい場所はどこだろうか。自宅のアパートから出てしばらく歩いたいつもバイトに行く途中の民家の塀が相応しい。この蜜柑の絵を仕上げるまでに唯一世間とのつながりを保ったバイト先。私は食べたこともないくせに数万個のハンバーガーを美味しいものだとして売った。その過程もこの蜜柑の絵の一部なのだと感じた。そしてそのくだらないハンバーガーを食べた近所の人こそ私が本当に美味しいと思う蜜柑の絵を見て真の美味しさに気付くべきだ。
強力な両面テープを蜜柑の絵の裏に貼り付け準備をした。心が躍る。
深夜に貼り付けに行く。警察を呼ばれたら厄介だから闇夜に隠れた。この家の人は林というそうだ。6年間前を通って初めて知った。表札に一礼する。
薄い黄色のコンクリートブロック塀の表面はでこぼこしていたが剥離紙をとった両面テープの厚みと弾力が密着して見事にくっついた。
私は道の反対側の田中の家の方に移動した。念のため田中の表札にも一礼する。春だった。それでも深夜の空気はひんやりしていた。蜜柑の保存にはちょうど良い気温だ。距離を置いて見たA2の蜜柑の絵は雲に隠れた月の光に照らされていただけなのだけど私の人生のなによりも明るかった。私は目を閉じた。下着まで全部脱ぐことはできないので仕方なく、いつも蜜柑を食べる時の儀式を形だけ反復して目を閉じた時に浮かぶ蜜柑を思い起こした。それからゆっくり目を開けるとやはり現実にその姿が存在している。私は歓喜の声をあげた。春の心地の良い空気は私の声を伝えた結果、田中の窓が開く音がしたから私は走って逃げた。
走るのなんて何年振りだろうか。心臓は破裂しそうで、肺から口の中にかけてぜんぶ血の味がした。それでも春の空気は心地よかった。ここは私の世界だ。生まれて初めてそう思った。
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