手描き

印刷されて届いたものを開いてみて私は涙した。ショックだったモニターで見るものと届いたものは全く違っていた。調べてみると光とインクの表現はまったく違うそうで、デジタルのものを印刷する時にはそのための調整が必要になると言うのだ。


また長くて今度は金銭のかかる作業が始まった。印刷の知識を学びながら実際に印刷して出来を確認する。A2サイズは2750円。だいたい3日に1枚のペースで注文した。さすがに約3000円を破り捨ててしまうことはできなかった。一度見て丸めたままのポスターがうず高く積まれていく。


私はその作業の間に誘惑に負けた。超光沢紙という1.5倍も値段のする紙を試してみないわけにはいかなかった。ヴァンヌーボVGスノーホワイトという口に出したくなる紙も試してみずにはいられなかった。色々な紙を試してみて箔押し印刷を頼みそうになった時に手段が目的化していることに気付いてやめた。だけどその間にインクの色の仕上がりや紙の質感と仲良くなった。


いよいよインクの表現も納得いった。だけどそれでもやはりあのイメージを完璧に具現化できたとは言えなかった。蜜柑は私を認めてはいない。違う。


私はここまできてやっと体験を経ずに答えに気付いた。グリーンだった。オレンジは光沢紙の艶によって十分美しく表現されている。だけどグリーン。このグリーンはへたのところを表現しているのではない。もちろん蜜柑のへたも表現しているのだけど、このグリーンはもっと大きなものをあらわしているべきだ。例えば蜜柑の木の葉のグリーン。葉は蜜柑に栄養を集めるために光合成する。蜜柑が出来上がるまでにある道。それがグリーン。オレンジは完成。光沢紙の輝きを帯びてただ美しくあればいい。だけどグリーンはそうではない。雨風にされされて揺れる。長い雨に腐ったものも、水のない時期に乾いて落ちた葉もある。その脈に流れる水も栄養も長い時を循環し続けている。もしかしたらこのグリーンは単純な蜜柑の葉ではないのかもしれない。その木の植わった背景のグリーン。根元で腐って栄養になったグリーン。酸素・二酸化炭素・水循環の均衡の一部のグリーン。完成したオレンジに対して、そういう途上をあらわすグリーンなのかもしれない。


だとしたらまた学ばなければいけない。私はAmazonで筆と油絵具を注文した。そしてグリーンの塗り方を学んだ。完璧を表現したデジタルに対して、途上をあらわすグリーンは私の手で描かなければいけない。私の部屋は蜜柑の香りが影を潜めて絵具を溶かす油の古いケミカルな香りに染まってしまった。どの服にもグリーンの絵具の跡がついた。だけど幸せだった。もうすぐだ。あの憎い檸檬一派の撃退に近づいて、たった1人の蜜柑一派が勝利するのだ。


最初に20部ほど印刷した。まずはグリーンの表面を600番の細かい紙やすりで削って油絵具が乗るようにした。そして筆を下ろした。やはり練習に用いた油絵具に適した紙とは全く違った。だけどそれを見越して練習を重ねたのだ。イメージに向けて紙の抵抗をいなしたり力で制したりした。やはり決して一筋縄ではいかなかった。だけどパソコンのスペックが足りなかった時みたいな、光とインクの表現の違いを知らなかったみたいな根本から間違っていることはなかった。私の筆は決してすぐに正解を出さなくとも自分自身に満ちていた。


98枚描いた。そこにはやっと私の中のあのイメージがあった。美しかった。これなら人にも蜜柑のすばらしさが伝わるのだと思った。

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