令和のストックホルム症候群

渡貫とゐち

非常事態だから


 ある休日の昼のこと。

 娘を送り出してから三時間後のことだった。

 昨日のドラマを見ていたら、ついついお昼を過ぎてしまった。昼食に手をつけていなかった……自分の分ならともかく、帰ってくる娘の分があるため、作らないわけにはいかない。いかないのだが……。


「あら、まだ帰ってこないのかしら」


 習い事が押しているのかもしれない。それとも友達と喋っていたら楽しくなって時間を忘れていたとか? それは仕方ない、と理解ある母であることが自慢だった。

 帰宅途中、寄り道のついでにどこかで食べてくるなら、メールで一言くらいほしかったけれど……。なので、母は自分からメールをしてみることにした。


「帰ってくるの? お昼は食べる?」と連絡をして、数分、数十分が経って……遂には三十分。さすがに遅過ぎるので電話をしてみた。しかし繋がらない。

 コール音が響くだけだった。

 このまま一生鳴っていそうな気がしたけど、設定通りにコール音はぷつんと切れた。


「どうしたのかしら」


 心配だが、すればするほど不意に娘は帰ってくるものだ。

 母が焦れば焦るほど、娘は「なに、どうしたの?」と、まるで他人事のように……。何度もそういうことがあったから、今日もそうだろうと思って昼食も作らずにドラマの続きを再生させて――――第三話の後半部分に差し掛かったところで、スマホに着信があった。娘からだ。


 今いいところなのに、とドラマを泣く泣く一時停止して、スマホに出る。

 相手は娘ではなかった。機械音声で、もちろん娘ではなくて…………誰?


『娘は預かった。返してほしければ指定した金額を準備しろ』

「……えっ、なに、だれ。……ははーん、なるほど誘拐犯ね。娘は無事なのよね?」


『ああ。声を聞かせてやろう――――どうだ、これで信用したか?』

「確かに娘の声だったわ。ところで、昼食はハンバーガーをあげてくれたの?」

『彼女の希望だったのだ』

「あら、ご迷惑をかけたわね。ありがとう」


 昼食の心配はいらなくなった。お腹を空かせて困っている、という年齢でもないだろうけど、事情を知っているのと知らないではやはり安心度が違う。誘拐されているが、昼食がきちんと取れているなら、ひとまずひとつの心配はこれで消化された。


「(それにしてもハンバーガーか……いいなあ)」

『おい。……あんた母親だろ? 娘が誘拐されて、どうしてそうも冷静なんだ。それとも遊びだと思っているか? こっちは本気だ。いいから三百万円、揃えて持ってこい。娘と交換だ』

「あ、はい。分かったわ」


『…………簡単に持ってこれそうだな……金額を上げるか?』

「待って。今のは間違いね。もう一度やらせてくれる? 実は、誘拐された、ってところから気に入らなかったのよ。……もう一度、娘は預かった、のセリフのところからお願い。ちゃんと驚くから」

『…………』

「自己満足なの。悪いわね」


 すると、電話の先から薄っすらとだが、「お母さんに付き合ってあげてよ。ごねると面倒なことになるよ?」と。誘拐された娘と誘拐犯の心の距離感が意外と近いようで母は安心した。恐怖に怯えて一言も発せない、よりはマシだ。誘拐されている時点でダメではあるのだけど……。


『分かった。じゃあ――』

「ええ、お願い」


『――娘は預かった。返してほしければ三百万円を用意しろ、娘と交換だ』


「えっ、娘をっ!? ちょっとあなたは一体誰なのよぉ!?!?」


 言い終えた後の、十秒ほどの沈黙。

 先に言葉を発したのは母親だった。


「満足の出来だわ。これで次に進める……ところでお金はどこに持っていけばいいの?」

『……指定の場所で受け渡しをする。構わないな?』

「その言い方だと、拒否権はあるってこと?」

『ない』

「じゃあ持ってこいでいいじゃない。どうして気遣ってくれるの?」


『言葉の綾だ。気遣ったつもりはない。いいから金を持って指定した場所へこい。いいな?』

「分かったわよ……でも、あ、待って」

『今度はなんだ』


「雨……。いえ、いくわよ? いくけどその前に……洗濯物だけ部屋に入れていいかしら?」

『……ちょっと待て、予報を見る……。おいおい、強めの雨が降るぞ……ゲリラ、って言うのもおかしいが、豪雨だ。やめとけ。一旦、時間を置く。夕方になれば雨雲も通り過ぎるらしいからそれからでも構わない……また連絡するから待っていろ』

「優しいのね」

『こっちも移動するんだ、雨の中はしんどい。ずらせるならずらした方がいいだろう』

「そう……なら、娘のことお願いね」

『任せておけ』


 その後、洗濯物を部屋へ入れた途端に豪雨がやってきた。昼間なのに真っ暗で、まるで夜かと思うような空だった。叩きつけるような強い雨粒が窓に当たっている。


「あの子たち、大丈夫かしら……」


 娘のスマホに、パンダのキャラが「だいじょうぶ?」と言っているスタンプを送ってみる。すると、娘なのか誘拐犯なのか分からないが、同じくパンダのキャラで「問題ない」とガッツポーズをしているスタンプが返ってきた。大丈夫そうだ。

 さすがに屋外にいるわけもないから、部屋にいるか車の中にいるか。雷に当たることはなさそうだから、そこは安心だ。


「すぐにやむとは思うけど……」


 まるで世界の終わりのような雷雨だった。




 ――天変地異だった。

 雷雨と大きな地震が合わされば、本当に地球が壊れたのかと錯覚してしまいそうになった。

 前兆なく、関東を襲った大きな地震。地震だけであれば、過去に起きた大震災ほどではないものの、豪雨と合わさったことで被害が膨れ上がった。

 幸い、火事はなかったものの、交通事故は多発。屋内へ人が集まっていたことで混乱が混乱を招き、狭い空間で人がもみくちゃになって、転倒や器物破損の事故が多発。騒ぎが大きくなってしまった。


 母は、強い揺れに転び、倒れてきた高い棚の下敷きになってしまって――――


 屋内で、さらに人混みでなくとも、強い地震による被害がひとりの主婦を襲ったのだった。



「――お母さんっ、大丈夫!?」


 娘が棚をどかしてくれた。腕の一部が痛いので、折れていなくてもひびくらいは入っているのかもしれない……。

 久しぶりに見た娘の顔に安心して、もう一度目を瞑りたくなるけれど、娘の両脇にいる見知らぬ男たちが気になって、眠ることはできなかった。

 彼らは……?


「あの、娘さんを、攫った……」

「あ。誘拐犯の……?」

「はい! N大学の、」


「バカ!! なんで大学名を言っちまうんだよ!! 俺たち誘拐犯なんだからな!?」


 しまった、と細身の青年が口を塞いだが、もう遅い。それに、変装もしていないラフな格好だ。中学生の娘と並んでいると、ちょっと歳の離れたお兄さんにしか見えなかった。

 彼らが誘拐を……? まあ、若さゆえに理由は色々とあるだろう。


「……ありがとう」

「え? 誘拐した、ことですか……?」

「違うわよ。誘拐はもちろんダメだけど……地震の時、娘の傍にいてくれて」


 もしも、と考えてしまう。

 地震発生時、娘がひとりだったら。ひとりで行動して、連鎖する事故に巻き込まれてしまっていたら。そう考えるとゾッとする。

 だから彼らふたりが責任を持って娘を守ってくれたことには、感謝しかなかった。ゆえに、ありがとう、だ。


「……任せてください、と言いましたから」

「律儀な誘拐犯さんねえ」


 う、と痛がる母。大きな棚に下敷きになったことで体の端々が痛むのだった。

 青年ふたりが顔を見合い、うんと頷き、母の体を支える。


「まずはベッドで、横に」

「救急車はたぶん無理っすね。今はあちこちで混乱してますから……俺たちにできることをしますよ」

「ち、知識はあるの……?」

「まあ、それなりには。スポーツ関係で医学も少し齧っていますので。だから安心してください。完治は無理ですけど専門的な応急処置ならできますから」


「……お願いするわ……いたた……」

「お母さん……大丈夫?」

「そうね、死ぬことはないわ」


 不安がる娘は、きびきびと動く青年の姿を見て不安がさっぱりと消えたようだ。

 手際の良さ、手元の技術、母とのコミュニケーション。その全てが、この非常時でありながらも一切、彼らに戸惑った様子はなかった。

 淡々と作業を進めていき、母は安静に、ベッドの上で横になる。


「快適だったわ……痛みも和らいできたかも……」

「それは錯覚だと思いますけど」

「いいのよ。気持ちの問題でしょ?」


 青年たちのお手伝いをしていた娘は、離れたところから目をキラキラと輝かせている。

 ちょっと手伝っていたりもしたので、もしかしたらこういう仕事に憧れたのかもしれない。


 それとも青年のどちらかがカッコよく見えて……、歳の差以上に誘拐犯と攫われた少女という大元の関係性が気になるけど、今やもうない設定のようなものだった。


「あの子、どうしたのかしら……」


「憧れてくれた……? だとしたら、医療か? それとも救護活動に興味を持ってくれたなら、未来の優秀な人材になってくれるかもしれないな」


 始まりこそ異端だったが。

 娘の将来を決定づけたふたりには、文句と同じくらいには、感謝もしなければいけない。

 実際、娘は数年後、医学を学びたいと勉強熱心になるのだから。


 そして同時に、学費で出費もかさんでいき、結果的に三百万円ほどが出ていくことになる。


 ……本来なら出ていかなかったお金だったけれど……これがあの青年たちのせいならば。


 ……誘拐されていないけど、お金は払ったことになるのだろうか?



「たった三百万円? あの子のためなら五百万でも一千万でも出してあげるわよ」




 …了

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