瓏ノ国ノ逸話

@sakimi

序章

 その目が、こちらを凝視していると察していても、自分は彼と目を合わせることが出来なかった。逃げ出したい。なのに痛いほどの鼓動が、この体をこの場に縫い止める。体を巡る血が熱くて仕方が無い。顔も熱い。無様にも泣きたくなる。

 …どうして。

 口を開けば呻きながら、そんな風に言っただろうか。歯を食いしばる。どうして、も何も無いだろう。目の前のこれが結果だ。そして、変えることの出来ない現実でもある。

 だから、目を逸らしているのか、自分は。

 彼を見ないでいる理由。現実というものに目を凝らすことをせずに、ただ立ち竦んで。…なんて、愚かなのだろう。己の愚かさに、つい嗤い出したくなってくるくらいだ。

 本当に嗤いそうになって、それを抑えるために肩が揺れた。そこで少し緊張がほぐれる。後ずさる。

 音がした。

 何かを踏んでしまったようだ。頭が碌に働いてくれていない。思わずしゃがみこんで、それらに手を伸ばす。

 木で出来た箱、だ。あまり大きくも深くも無い。そして、蓋と…恐らくその中に入っていた、これ、は。

「……!」

 誰かが誰かを呼ぶ声に、はっとする。そして、その声に小さく応える彼の方を…見て、しまった。

 目が、合う。

「っ!」

 手にしていた箱と蓋をそのまま握りしめて、体を起こす。走り出す。ようやく逃げ出せた事に安堵して…安堵したことに自分で傷付いた。逃げておいて、何を。だけど、振り返ることは出来なかった。

 一瞬だけ見たあの目が脳裏に焼き付いていて。怖くて。

 再び見てしまったら、自分がどうなるか分からなかったから。



 そうして、どのくらいの時間が経ったのだろう。彼は、再びこの目の前に現れた。再び、はあった。

 彼はこちらをその目に映して。そして、ただ視線を逸らした。それだけだった。

 こちらのことを見て留めた筈なのに、認めたのか、は分からなかった。自分も、以前のように怖くは無かった。

 …ただ、分かった。自分がどうなるか、では無く自分はどうしたいか、だ。それが分かったのだ。

 立ち竦んでいることは出来ない。やるべきことをやらなくては。


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