4. 兄弟げんかと巣立ち

 日没の頃。クラヴィスは寮の自室でぼんやり、外を眺めていた。

 そろそろサフィラは帰宅した頃だろうか。そうぼんやり物思いに耽っていると、来客の知らせが届く。

 玄関へ向かうと、立派な体格をした赤髪の青年が立っていた。サフィラの六歳下の弟であるアルスだ。ひょい、とクラヴィスは片眉をあげる。


「いつも『お兄ちゃんに近寄るな』とやかましいのに、わざわざそちらから来るとは。珍しいな」


 大人げないクラヴィスの言葉に「俺だって、あんたなんか頼りたくないけど」とアルスが噛みつく。だけど、と少し勢いを落として言った。


「こんな時間になっても、兄さんが帰ってこないんです」


 す、とクラヴィスの目が細められる。

 アルスはもう十八歳だ。ここでは立派な成人として扱われる年齢であり、放っておいたところでなんら道義的な問題はない。


 ここで二人が問題にしているのは、アルスが放っておかれていることではなかった。


「あんなにか弱い兄さんに何かあったら……」

「あんなにかわいいサフィラに、何かあったら……!」


 むくつけき男二人が、(それぞれ恋愛と家族愛において)愛しい一人の危機のために結託する。


「すぐに外出許可をもらってくる」


 クラヴィスは慌てて手続きに向かった。監督者であるノドゥスに経緯を説明すると、彼は厳格な表情をますます厳しくする。


「愛の危機か。聞き捨てならん」


 ノドゥスは極度のロマンス狂いだった。クラヴィスはあっさり外出許可を手に入れ、ノドゥスを叱りつける同僚たちの声を背中に走り出す。

 アルスのもとへ戻り、外出許可証を見せた。


「外出許可は降りた、すぐ出よう。サフィラの行き先に心当たりは」

「職場くらいしかないです。俺が夕飯を作る日は、絶対側にいてくれる約束なのに帰ってこないなんて……何かあったとしか……」


 なお、サフィラがそんな約束をした事実はない。単にサフィラが毎度律儀に帰っているだけである。


 こうして、クラヴィスとアルスは島を巡った。

 あちこち駆けずり回る。どうしても見つからない。

 とっぷり夜も更けてから、二人は顔を見合わせた。


「……すれ違ったか?」

「そうかもしれません」


 仕方なくウォルプタース兄弟の小さな家に戻ると、そこには明かりがついていた。あっと声をあげて、二人は家の扉へ駆け寄る。


「兄さん!」


 アルスが扉を勢いよく開けると、そこには冷えた料理をかき込む、泥で汚れたサフィラの姿があった。


「あれ。おかえり、アルス」


 呑気に言うサフィラに、アルスは肩を怒らせた。低くどすのきいた声で、恨み言を述べる。


「遅くなるなら遅くなるって言って。俺、ご飯作って待ってたのに。それから最初に泥を落として、綺麗にして入って」

「ご、ごめん。悪かった。後で片づけとく」


 サフィラは頭をかきつつ、「よいしょ」と椅子から降りる。


「じゃあ、僕は片付けをして、今から研究所に戻るから。あっちに泊まることになるかも」

「えっ、兄さん。聞いてないよ、そんなこと」


 あっけに取られるアルスをよそに、クラヴィスがサフィラの腕を掴む。


「何があった」


 サフィラは、二人を見つめた。その青い瞳がすう、と細められ、ちいさな口元が震える。

 抑えきれない怯えと、隠しきれない興奮。どこか艶かしい彼に、クラヴィスの心臓がどくどくと跳ねた。


「創世の蛇が目覚めるときが、すぐそこまで来ているんだ。確信した。絶対に来る」


 突拍子もないことを言い出したサフィラに、クラヴィスもアルスも目を丸くする。


「どういうことだ」


 戸惑う二人の前で、サフィラは同じところをぐるぐる歩き始めた。落ち着きのない様子で手も動かしている。


「日の出時刻と日没時刻、潮の満ち引きを研究所に行って確認した。例年、これらのあたいは誤差の範囲内でしか変わらないはずだ」


 取り憑かれたように続けた。その目は忙しなく動き、興奮状態であることがうかがえる。


「これらが有意な差を見せていた、間違いない。これはシーサーペントが来るからだ」


 歩き回るサフィラに、アルスは怯えたように一歩下がる。対してクラヴィスは一歩踏み出し、サフィラを抱きしめた。

 ひ、と一瞬しゃっくりのような声を出して、サフィラが止まる。


「怖いのか」


 その問いかけにややあって、サフィラは彼の背中に腕を回した。恐る恐る縋り付くように、彼のシャツの布地を掴む。


「ううん」


 幼い声で否定するサフィラの背中を、クラヴィスはそっと叩いた。


「いやいや。兄さん、そんなのありえないって。何言ってるんだよ」


 アルスが諭すように言う。首を横に振り、「兄さん」と改めてサフィラを呼んだ。


「俺、国費留学生の試験に受かったんだ。ちょうど今日帰ってきたら、通知が来てた」


 え、とサフィラは弾かれたようにアルスを見上げる。アルスは、大きく息を吸った。


「この国を出よう。俺たち兄弟二人、新しい土地でやり直そうよ。兄さんの教養があれば、あっちでも職はあるだろうし」

「ちょっと待って、その話は全然聞いてない。なんでいきなり僕に黙って、そんな大事なことを決めるんだ」


 突然始まった兄弟の修羅場に、クラヴィスはそっとサフィラを離した。


「ずっと兄さんに助けられて、育てられてきた。今度は、俺が兄さんを助けるんだ。もう伝承に囚われないで、自由に生きてほしい」

「アルス、お前そんなことを」


 彼の言葉に、サフィラの瞳が大きく揺れる。クラヴィスはその強張った手を強く握った。


「サフィラ」


 青い瞳が、クラヴィスを捉える。

 サフィラは、大きな深呼吸を数回繰り返した。ややあってからクラヴィスの手を離し、六歳下の弟を真っ直ぐ見上げる。「アルス」と呼べば、彼は唇を笑みの形に歪めて、得意げに頷いた。


「……大きく、なったね」


 さまざまな思いを噛み砕いて、サフィラは弟へと微笑む。


「そうだよ。兄さんを守れるくらい、強くなった」


 その少しだけ上擦った声に、くしゃりとサフィラは笑った。


「じゃあ、もうお前に保護者の僕は必要ない。……お前も、僕に縛られることは、ないんだよ」

「にい、さん」


 アルスが呆然とサフィラを呼ぶ。クラヴィスは見かねて、額を手で押さえながら二人を見やった。


「落ち着け。お前たちは、一旦お互いに距離を置くべきだ」


 サフィラは唇を噛み、「一人で留学へ行きなさい」としっかりした口調で言う。


「兄さん」


 途方に暮れた様子のアルスに、サフィラは厳しい表情をつくる。


「いい加減にしなさい。お前も僕も、離れるときが来たんだ」


 その言葉に耐えかねたように、アルスが家を飛び出す。サフィラはそれを追いかけなかった。


「……よかったのか?」


 静かに尋ねるクラヴィスに、「うん」と鼻を啜りながらサフィラは言う。


「僕たち兄弟は、二人ぼっちだからって、お互いを頼りにしすぎだった。……そろそろお互い独立するのに、いい頃合いだよ」


 どこか言い訳がましいその声色に、クラヴィスはそっと寄り添った。サフィラの背中をさすって、額に口付ける。


「がんばったな」


 堰を切ったように、サフィラの瞳に涙があふれる。クラヴィスは彼を抱きしめながら、一つ一つ積み重ねるように考えた。


(サフィラは、これまでアルスがいるから、ここで定職について働いてきた)


 幼かった頃を思い出す。泣き虫で、弱くて、家族からも見捨てられていたクラヴィスを助けてくれた、優しいサフィラ。

 島を手放してからすぐ、事故で両親が亡くなっても、弟のために働いてきたサフィラ。地道な積み上げで、下働きから研究員にまでなった。

 その強い背中に、ずっと恋をしている。彼が俯かなければいけない理由なんて、どこにもない。


(両親が亡くなってからずっと、アルスだけが、サフィラがテストゥードーにとどまるためのいかりだった。本当はずっと、海に出たかったはずだ)


 背中をさすってやると、細くて薄い肩が揺れる。今はもう、クラヴィスよりもずっと小さい。

 彼はきっと、ちょっとしたきっかけで、二度と手の届かないところへ行ってしまう気がしている。


(今、サフィラは何にも縛られていない。俺のことなんか、枷にも思ってないんだろうな)


 自嘲気味に笑いながらも、クラヴィスはサフィラの頬に伝う涙を唇で拭ってやった。


(かわいいサフィラ。海が好きなサフィー、俺の唯一の友達で、好きなひと。絶対ひとりになんかさせない)


 サフィラの顔を見れば、真っ赤に泣き腫らしていた。

 そして瞳には、頑固な光がある。


「……明日の朝一で、議会に直接行って、進言してくる」


 うん、とクラヴィスは頷いた。そしてサフィラの頬に口付ける。何度も、何度も。


「なに、いきなり」


 戸惑うサフィラを、クラヴィスはひたと見つめた。大きな手がサフィラの頬を撫で、その輪郭を確かめる。


「俺は、絶対にお前を信じている。お前はいつも正しい」

「……そんな優しい嘘、つかないでよ」


 でも、ありがとう。へにゃりと笑うサフィラが愛しくて、クラヴィスもちいさく笑った。二人は無言で寄り添い続け、気づけば床で眠っていた。


 そしていつも通り、朝がやってくる。サフィラが目を覚ましたとき、クラヴィスの姿はもうなかった。

 アルスは早朝に、泣き腫らした顔で帰ってきた。ゆっくりと扉の開く音に、サフィラは身体を起こす。

 図体ばかり大きいサフィラの弟は、「兄さん」と情けない声でサフィラを呼んだ。そのまま屈んで、兄の顔を覗き込む。


「……俺のことが、嫌いになった?」

「まさか」


 サフィラは軋む身体を起こした。アルスは少しかがんで、そうしてサフィラは彼の額に口付ける。


「大いなるテストゥードーよ、始祖の蛇から生まれた泳ぐ太陽よ。汝が光り輝く限り、我らにとこしえの恵みあらん」


 またか、と言わんばかりにアルスの顔が歪んだ。サフィラは穏やかな面持ちで、彼を抱きしめる。


「行きなさい。お前の人生は、お前だけのものだ」

「いってらっしゃい、じゃないんだね」


 それには沈黙を返して、サフィラはただ一人の家族を抱きしめていた。アルスは、うん、と頷いて、サフィラを抱きしめる。


「じゃあ俺、いってきます。……元気で、怪我も病気もしないで」

「うん。じゃあ僕、行くね。元気で。健やかでいてね」


 アルスは議会へと向かうサフィラを見送った。しばらく天井を見つめてから、アルスはまた、自分のために歩き出した。

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