第20話 安藤栄人
いやあ、人助けとはどうしてこうも気持ちがよいのだろうか。駐車場からもと来た道を戻りながら思った。フェンスの網を指でなぞる。目を細めると夜道を照らす発色の強い黄色の街灯が紅花のように尖っては目の中に入り込んでくるようであった。どうしてみんなはやりたがらないのか。チャンスは日々の生活に散らばっているというのに。重い荷物を持ったお年寄りやうろうろしている外国人、泣いている子供などいくらでもある。彼らに手を差し伸べるだけでお互いに幸せになることができるのだ。情けは人の為ならず。俺はすぐにその正しい意味を理解できた。誰もがそれを理解できたならば、思いやりの連鎖が生まれたならば、世界は簡単に平和になるのに、と考えていた。幸せにすることで幸せになれるならば悲しい言葉なんて生まれることもないのに。だから出来るだけ人が喜んでくれるような行動をしたい。自分でいうのは憚られるけれど俺は本当にちゃんとした人間になった、と、思う。それもこれも、全部あいつのおかげなんだろうな、とも思う。そう、今、目の前に怪訝な顔つきで立っているこの青年、おれが憧れた男、志田豪太。
「おっす、豪太。遅かったんじゃない。」
「そうだな、油断してた。」
「俺は気づいてたよ、いたの。」
「別に尾行したつもりはないが。」
「神保さん、割と大変な目にあいそうだったんだけど聞いとく?」
「…いい、さっき二度の通話とお前がいるのを見て大体わかった。」
「そうか、でも俺じゃなくて豪太がいるべきだったんじゃないかと思ったよ。」
「そうかもな。でも俺はいなかった。何もできなかった。それだけだと思ってる。」
「…へー。じゃあさ、俺が、彼女、もらっちゃおっかな。」
これは賭けだった。いや荒療治というやつだ。思い切って言っては見たが、正直良い効果が得られるかは分からなかったので躊躇いが声に表れてしまった。ごーくんはそれを見逃さないだろう。思った通り、一度は鋭い目線をこちらへ向けたが、表情からも察せられてしまい、しぼんでいくように彼の目から力が抜けていった。
「ごーくんさ…変わっちまったよ。いや、変わってないとこもあるんだけど、なんて言うか、前まではもっと明るかったし元気だったでしょ。あっちの方がいいよ絶対。楽しいだろうし、その方が…」
「俺は変わっていない…」遮るように、俯きながら力強く彼は言った。流れる沈黙と排気ガスの混じった空気に、あの日とは対照的な悲しい世界を感じた。
おれは昔は、悪ガキだった。小さくて、弱くて、みっともなくて、愚かだった。はじめは自分に対して特に怒りも惨めさもなかった。しかしだんだんと理解してくる。弱肉強食の世界。自分の能力。前にいる奴ら。忘れてはいけない、後ろにいる奴ら。その頃は羊水に濡れてふやけた正義感が心を占めていた。だからいっぱい殴ったし、泣き喚いたし、反抗した。偉そうにしている奴らはみんな嫌いだった、みんな悪だった。悪を挫いた自分を愛す。結局はすべて自分のためにやっていたことだった。
そのせいで一度同じクラスの人を骨折させたことがあった。喧嘩をしていて、結果的には階段から突き落とす形になってしまったのだ。何のことで喧嘩していたかは思い出せない。今となっては大したことではないんだろうけど当時の自分にとってはとても大事だったんだろうと思う。
母と一緒にその子の家まで行って謝ったのを覚えている。うちと比べてかなり立派な家だった。玄関までのアプローチには綺麗に手入れされた芝が生えていた。丸みを帯びた石畳が蛇行しながら導いていた。経済的な差異を感じるような年ごろではなかったが、それに近いものを感じ取り、妬ましさがあった気がする。謝り続ける母を見るのは辛かった。母から謝ることを強制されるのは何ら苦ではなかったが、屈服したように頭を下げ続け、それを見下し続ける向こうの親たちの様子が何より俺を苛立たせた。もう一発入れ込んでやろうかと思ったほどだ。帰り道は母とは一言も交わさなかった。いろいろ考えてみて母をこんな目に合わせた自分自身に罪悪感が芽生えた。ただ、それでも俺の素行がよくなることはなかった。しかしそんな俺でもちゃんとした居場所があったのだ。それがごーくんのところであった。ごーくんとドッジボールをしている時間だけは全てを忘れられた。気持ちをボールに乗せながら投げると速く強く飛ぶし気分も爽快だった。しかもごーくんは「いやあ、いいボールだぁ」と受け止めた上で「俺のもくらえー」って言いながら全力で対等にやりあってくれるのだ。彼の方が全然強かったが負けても全くいやな気がしなかった。キャッチした時の胸の痛みが心の傷を塗り替えてくれた。居場所と感じていたのは自分だけではなく、彼と関わる皆が楽しそうにしていた。その輪は次第に大きくなり、ついには学年間も乗り越えた。彼は楽しさの天才だった。余りある楽しそうな顔は誰にでも分け隔てなく与えられた。しかし彼が人気になるにつれ、自分の存在が薄くなっていくように気がした。その頃から少しずつ勉強とか宿題をやろうとするようになったが、中途半端に終わった。
六年生になり、ごーくんと同じクラスになった。すごく嬉しかった。喜びのあまり母に報告したほどだ。母は喜ぶ姿を見て微笑んでくれた。幸せは周りに自然に伝播していくものなのだと、やはり彼から学んだ。しかしながら学校生活でのおれの態度は変わらなかった。宿題は忘れるわ、すぐ怒って喧嘩を始めるわ、相も変わらず生きづらかった。友達と呼べる人はほとんどいなかった。それでも近くに彼がいることは心の支えになったし、彼と一緒になって問題を起こした時は、怒られている最中にもなぜだか自信に満ち溢れていた。しかし不意に横を見ると、彼はとても悲しそうに、辛そうにしていたので、俺もその涙を見た時には胸が締め付けられるような想いをして、調子に乗った自分を責めた。 このままではいけない、ごーくんのそばにいれない。その気持ちは日に日に強くなっていった。
そして朝の日差しが額を濡らすような夏の日、一学期の最終日であった。その日は教師が提案した何とも大胆な荒療治を実行する日であった。夏休みを機にこれからおれが宿題をやってくるようになるかどうか、みんなのおれに対する信用をおれ自身がクラスのみんなに聞くという、なかなかどうして大仰な計らいをしたのだ。教師はよく生徒をみんなの前で発表させていたから、おれにさせたいことの要領は一応得ていた。しかし勿論最初は反対した。けれどこの教師は問題ばかり起こすこのおれのことをいつも怒ってくれたし、気にかけてくれていた、いい先生だった。昨日だって今日のこの博打について真剣に話してくれた。「必ずお前の変わるきっかけになる!」おれが変わりたいことは以前に面談で伝えていた。だから先生の言葉に免じて引き受けたのだ。加えて先生はみんなから好かれていた。生徒が使い終わった授業ノートを教室の後ろ側に積み重ね、「努力の塔」と命名し、生徒のモチベーションを高めるための工夫をしているのはよく理解していた。
俺は帰りの会の時間に手を挙げた。恐る恐る立ち上がった。一番前の席だったから後ろを振り向いた。後ろにそびえる塔に俺のノートはない。クラスの人たちが俺を少し見て、その後に友達のほうに向き直って何か言っている。教室が風の中の木々のようにざわめき始める。
僕はこれから宿題を忘れずにやってきます、信じてください。言うべき言葉を心の中で反芻する。怖くなってきた。半袖半ズボンの袖口から寒気が忍び寄ってきた。
「無理でしょ」「やってくるとは思わない」「できないと思う」「ごめん信用ならない」「変わらないと思う」
そんな言葉がすでに頭の中に渦巻いていた。きっと晒し者に挙げられるんだなと空想の中の被害妄想でもうすでに涙ぐんでいた。軽いパラノイアであったのかもしれない。先生が横で見守る中、おれは数十秒の間何も言えなかった。クラスのみんなは何かを察したのか静まり返って真剣なまなざしをおれに向けるようになった。実際、俺たちのクラスではこういう状況がしばしばがあったのだ。先生に指名されても発表が苦手だったり、答えが出てこなかったりして黙ってしまう生徒は多くいた。しかし先生はその生徒が言葉を発するまでじっと待っていた。流れ星を見逃さんとするような眼で生徒が輝く瞬間を待ち続けた。その日の授業の二時間分を使うときもあった。そのおかげか気持ちゆっくり整えることができた。気持ちを定めて息を吸い込んだ。そして目を見開いた…。すると、ごーくんと目が合い、彼が笑ったような気がした。そしてその瞬間、不思議なことが起こった。クラスのみんなが虹色の光の束になったのだ。それらがあちらこちらへと飛び回っている。と思ったら大きな球体が目の前に現れ、最後にはおれの目線の先に集約されて俺を包んで中へと浸透していった。おれは背中を押されたようにつんのめりそうな声を前に出した。
「いままで!宿題とか!ノートとか!やってなかったし、みんなにいっぱい迷惑かけてきた!ごめんなさい。でも、おれ変わるよ!変わりたいんだ!だから信じてください。僕を見ていてください!先生とも約束しました。みんなとも仲良くなりたいです。だからお願いします…」うるんだ視界に皆の顔は見えなかったが、一つの声がはっきりと聞こえた。
「栄人。二学期もドッジボール一緒にやりたいから強くなれよ。」
その声につられるかのように
「信じるよ」「その意気ならできるよ」「私も信じるよ」「俺も結構忘れるから一緒に頑張ろうぜ」方々から温かい声が聞こえた。
一人一人が曇りもなく答えていくれたのだ。それが本音か建前かなどはその時はどうでもよかった。間もなく涙があふれた。自分が信じられていること、見捨てられていないことが分かったのである。あの時の情景は記憶に鮮明に刻まれている。カーテンが柔らかな支子色を孕み、揺らめく凸凹は笑い泣くおれにぴったりだった。
「だから言ったろ、大丈夫だって。お前は絶対変われる。いつも言ってるだろ、教室は間違うところだって。」心なしか先生の右頬にあたる日が光って見えた。暖かいクラスに出会えてよかった。この世界が暖かいんだって信じられるようになった。そう思ってまた皆を見回すと涙が止まらなくておれは急いで上履きを脱いで、ランドセルを背負って走って帰ってしまったのだった。
彼らの言葉は今でも俺が落ち込んだ時に、俺に勇気をくれる。
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