第15話 リアクション

 わたしはその時、困惑していた。気持ちの整理がつく前にたくさんのことを話されてしまったからだ。しかし彼の震えた声はあの体育館裏で話した日のことを思い出させた。話した内容が全部分かったわけではない。でもところどころ聞こえた。幸せなのに苦しんでいる自分が許せないようであった。私としてはその思考は意味のないことであると思った。きっと誰だってうまくいかないことがあって辛い思いをすることはある。でも私はいつも立ち直る時、結局は頭と心なのだと感じる。感情には原因がある。悲しみや怒りには道筋がある。導線を繋ぎ変えるように私はいやなことが感情とつながらないようにしている。私はやっぱり楽しい方が好きだし、楽しい方が正しくなれる。けれど、彼がそんなことも分からずに苦しんでいるとは思えない。これまでの色んな関わりで私は彼を信頼している。彼は確かに傷つきやすいがそれは弱さではなくそれだけの負荷に彼が襲われているということなのだ。だからこそ言葉を探す。心の絆創膏を探す。しかし言葉は見つからない。彼の負の思考に追い付けない。


 いつも私たちの先を行き、時には失敗しながらも安心させようと少し強がった声や姿勢、表情。子供と大人を巧みに使い分けて、学校の不調和な人間関係をいつだって彼は明るく楽しいものに変えてくれた、あの輝かしい日々を思い出す。言葉を探す中で彼が普段から相手にしていたものの途方もなさを感じ取った。相手の求めるものを提供し続ける。それは紛れもなく尊敬に値するものであった。今、彼の見せたこの弱みを、きっと先生に怒られたときも、発表で失敗した時も感じていたのだろう。私には何も見えていなかった。改めて想像すると、それはとても恐ろしいものであるが、世界一といってもいいくらい殊勝なことである。彼は夢のような大理石の塔をどこまでも高く建造するが、少しでも傷がつくと、その傷一帯、それ以上を涙ながらにすべて自分の手で大破壊してしまっているのである。胸が痛くなるような生き方だ。何が彼をそこまでにしたのか話を聞いても理解はできなかった。でも改めて彼が自分の遥か先にいる人間であると実感した。「彼を理解したい」「彼に寄り添いたい」どういう感情なのか分からないが中学時代の彼の笑みも、今、信頼を表し告白したこの涙も私にとってとても大切であるように感じた。だからこそ、ごめんなさい。今はまだ私は志田君を受け止めることはできない。でもあなたはあなたが思うよりもきっと強い人だから。だから今はごめんね、これは分かるはずもないささやかな想いの言葉。笑っちゃうでしょう。


「志田君ならきっと大丈夫だよ。『博士の愛した数式』読んでみたらいいかもよ?」


いつかまた会える時、私はあなたを受け止めたい。


 


 この数か月後、志田豪太は母を亡くすのであった。

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