第13話 お誘い

 高校は別々であった志田豪太と神保美奈だが、中学時代の集まりや早すぎる同窓会が中学を卒業後、何度か行われていたために、お互い高校生になっても交流があった。そこで互いの連絡先を交換し、幾度か勉強のことについても相談していた。数学的帰納法の説明や古典文法の語呂合わせ、英語長文の日本語訳の添削、元素記号や化学反応式、半反応式の暗記の困難さなど勉強をきっかけに他愛のない会話が繰り広げられていた。


 字面を通じても彼の脳裏に浮かぶ彼女の姿はやはり美しかった。それは暗闇の電車の窓とは比べられないほどにその身の穢れを払い、彼女の精神性までもが浄化されて彼の脳内で反響していた。彼女の打っている活字の一字一字に声が乗った。ポップな八分音符のようなきれいでかわいらしい声である。自分の言葉にも誠実さを乗せた。ここまで言葉を考えて送ることなど今までなかった。硬すぎず、軽すぎず。良い塩梅を丁寧に。がぎりなく明朝体が似合う言葉を。そしてその返信を待った。嬉しい返信が来た時、胸の痛みが素敵な魔法のように頬を持ち上げ、喜びを創り出した。彼女に会いたい。そう思った。そうしてとうとう彼はそれを恋と呼んだのである。


 高校三年生を迎える三月某日、右も左もわからぬことばかりであったが彼は彼女が休みである日を聞き、近所の公園に待ち合わせることを約束した。その前日、楽しみとも不安ともとれるような緊張感に彼は頭を支配されていた。成功の自信があるわけではない。だが何かしらの決意をもって取り付けたことは記憶している。緊張の靄が記憶を曖昧にしていた。しかし彼は未来のことは冷静に想像できていた。成功し、恥じらいながらも互いを思いあえる未来。もしくは失敗し、けれども関係がそこまで変わらない未来。また同じく失敗する上に何かしらによって確執が生まれ、二度とつながらない未来。想像できる以上はどの未来が来ても彼はよいと思っていた。それなのに暖房をつけた部屋の中でも彼は歯をカタカタ言わせながら浅く震えていた。


 その公園は列車公園と呼ばれており、公園に入るとすぐ目の前の中央にコンクリート造りの電車の模型が設置されていることに恐らく由来されている。電車は五号車に分かれていて小さな子供たちが中に入って楽しんだり、かくれんぼの時に隠れたりしやすそうなつくりである。そのほかにも、ブランコやシーソーといった定番の遊具から銀杏の胚珠を逆さまにしたような珍しい形の遊具もあり、それ以外の広い空間はドッジボールをするのにちょうどよい。小学生の時は週に二、三回ほど来ては友人らと遊んだことを思い出していた。生憎、しかしながら彼にとっては幸運にもその日は誰の姿もなかった。誰もいない公園の砂利は普段に増して冷たく灰色であり、カラフルな遊具やテーブル、椅子があるにもかかわらず、風化したように霞んで崩れそうであった。


 約束よりも十分ほど早く来ていたので彼女が来るのはまだ先である。思い出をめぐる徘徊を終えせっかくならと思い、ブランコに乗ってみた。久しぶりのブランコの浮遊感は多種多様なジェットコースターを知った今でも楽しい。昔ならその勢いで靴飛ばしもしていたが、流石に止めておいた。一人では楽しみを生み出せない。そのあとはベンチに座り、手持ち無沙汰にスマホを開いた。「もうついてる?」と三分前に彼女から連絡があった。返信をしようと、贈る言葉を考えるために顔を上げると彼女が小走り気味に向かってくるのが見えた。時刻は約束の四分前、三時二十六分であった。


 


「いいよ、全然走らなくても。」僕は「ごめん待った?」なる言葉が彼女の口から発せられることを憂慮し、言わせまいとして先にしゃべった。なんとなく気恥ずかしいのだ。


「ごめんね、待った?」しかし彼女は関係なしに判然と言った。


「いやまだ約束時間の前だから全く大丈夫。むしろ焦らせて申し訳ない。」


「こちらこそ大丈夫。それでこれから何するの?」


「そうね、少し話がしたくて。ここにいたら冷えるだろうから移動しようか。」改めて自分が今していることの不自然さと、流石に彼女も何が起きるのかわかっているだろうなという気持ちに違和感を覚えながらも一つの選択によって動かされた世界はもう止まることはない。近くにスタバがあるのでそこに移動した。


「実際にこうやって一対一で会うのは初めてだね。」


「そうだな。普通に結構緊張はしている。」


「あんまりそうは見えないけど、昔から意外に繊細なタイプだったからそうなのかもね。」


「そうか、意外に繊細だったか。」


「あれ、そうでもない?中学校の時とかさ、珍しく先生に怒られて、いつもは志田君よくしゃべる授業だったけど一時間中だんまりだったことあったから。それ以外にも特に部活で上手くいかなかった時はやっぱりすごく落ち込んでいたし、発表とかで少しでも間違えるととっても悔しそうにしていたの覚えてる?」


「いやまあ何となくは覚えてるけど、割と情けないところをよく覚えていらっしゃる。」


「それ以外のところはいつもすごかったから。逆にね。後期になるとあんまりなかったかな」


「神保さんはいつも優しくて強い人だったと思うよ。クラスのほとんどが一度は頼ってた印象がある。きっと醸し出す雰囲気が柔らかいからかな。それでいて間違っていると思ったことははっきりと言えるし。確かあの時も…」自分についての話題を避けながら少しずつ二人を近づけるように話した。その後も互いに緊張がほぐれてきて、かつての友人らの現状などを話し合いながら、笑いあった。言い難い幸福感を志田は感じていた。その気持ちの充足は想いの放出を確実に育てていった。


店を出た二人は近くにある大型ショッピングモールまで歩いた。道中で知り合いなどに会わないことを祈りながらいつもより少しゆっくり歩いた。穏やかな風に春が薫った。


ショッピングモール内には流石に多くの人がいて人目が気になったが、横を見ると彼女は気にせずに「少し内装変わったのかな」と言ったので、「奥のフードコートは相変わらずだけど確かに知らない間に変わってるな。入っていきなり時計屋とは何と豪胆な。」といつも通りの調子ができた。まだ兄妹という可能性もあるしな。などと意味のないことを考えた。


「どっか行きたいところはある?」


「そうだなー、うーん。」


「なければ全然無理に決める必要はないけど」


「えーと……そうだ!せっかくなら、洋服とか買おうかな。」


「なぬ」想定外な答えに思わず変なリアクションをしてしまった。いきなり女性の洋服選びは不意打ちにもほどがあった。男女二人のショッピングと考えれば意外にも普通のことなのだろうか。彼女の今日の逢瀬に対する意気込みが分からない。ただ純粋に服が欲しいのか、それとも僕に選んでほしいのか、想像すると気恥ずかしかった。いずれにしても多少狼狽した。


 そして言い終えてから間もなく彼女も僕のリアクションの意味に気づいたようで。


「あっ、その、ちがうのっ、特別な意味はなくて、ごめんなさい。やっぱりなしでお願いします。」その戸惑った表情はなんだか新鮮で可愛らしく、志田は思わず悪戯っぽく微笑んだ。


「神保さんも冗談言うんだね」結局二人はゲームセンターへ向かった。

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