第11話 傍観者

 下りの列車は帰省のピークが過ぎていてもかなり混み入っていた。鈍行二時間超の道である。出入り口付近の空いたスペースに体を寄せ、できるだけ人の邪魔にならないように気を付ける。首をねじりかろうじて見える窓の外には電車の振動に似た鱗雲が、空一面に伸びていた。誰もが一度は雲のようになって空を気ままに流されたいと思ったことがあるだろう。そう思いつつ、雲側から見た自分を意識してみる。瞳を閉じ、スーッと視点は電車の中から抜け出し、ドローンのように離れながら高度を増していく。窓から自分の石像のような顔が想像できる。黄色と青の派手な広告がビュンビュンと流れていく。昼の乾いた繁華街も通り過ぎていく。電車のすべての車両が想像の視界に収まろうとするまさにその時、彼ははっとなる。イメージは跳ね戻り、自分の呼吸音が聞こえた。


——俺は…もうでいたいのかもしれない。


ただひたすらに現実を見つめるもの。何をするでもなく何も求めないで、この目で見たものをただ言葉で表し、分析し、自己評価する。そういう受動的で厭世主義者な自身の正体にようやく気付く。いや、うすうす気づいていた、というよりなろうとしていたのかもしれない。志田は思考の始まり以来、自分にとっての幸せを追求してきた。その中で彼は厭世的になることで相対的に不幸を減らせると考えていた。しかしそれは、感情消失にもつながりうる極論めいた厨二くさい妄想だと自分でも考えていた。ちょっとした自己啓発のライフハックのつもりであった。それが今、彼の傍観と描写、表現という行為と接続し、自己の厭世的な姿がはっきりと視認できるようになってしまった。確かに笑うことは減ったかもしれない、幸福と快楽の関連が薄まったかもしれない、いつの間にか河川敷でサッカーをしている子供たちを見て、学校祭の様子を遠くから眺めて浄化されていたかもしれない。見る、眺める。それだけ。自らがこの世界で演者となって喜びや幸福感の源泉になることを確かに忘れてしまっていたのだ。だが、忘れていたのには理由があるだろう、きっと彼はもう演者としての自信を無くしているのだ。何をやってもうまくいかない…わけではない。そんなことは彼にも分かっている。彼には能力もあったし、ある程度才能もあった。何でもできたはずなんだ。だが自分で自分の期待をもう何年と超えていない。何をしても「それなり」で完結してしまう。想定内の自分がただ普通に生きているだけなのである。もう自分に飽きてしまったのである。自分を出発点として起こるすべてのことに楽しみを見出せない。退屈である。暇である。孤独である。何をしても満たされない!いや、本当はなのかもしれない。もういい!考えるな!考えるな…


 完璧追及の物語は他者からの承認を、尊敬を、愛を受けるための物語である。彼は奮闘し周囲をよく見て需要を満たす行動をとり続けたはずだ。ただその結果摩耗した。粘土球は削られた。美しい球であるかもしれない。完璧の玉かもしれない。しかしその玉はは冷ややかに彼の今の姿を映すであろう。「お前は退屈の人なのではないか」と……。そりゃあ、火薬など入っているはずもなかろう。


 


 動揺が彼の中に激しく巡る。もう外を見る余裕もない。電車の揺れは彼をさらに混乱させる。息が苦しい。空気を…空気を吸わなければ…背伸びをして少し上のほうを向く。シルバーの荷物置きが彼のゆがんだ顔と後方の人々の黒い頭部を映している。彼はもう恐ろしくて目を瞑った。瞑想である。何も考えたくはなかったが、考えずにはいられない状態にあった。


 


 意味もなく景色を見ることは彼の娯楽の一つであった。特に車や電車で流れていく一瞬の名前のない景色、偶然に見出す景色である。グランドキャニオン、グレイトバリアリーフ、富士山。偉大な自然が生み出した固有名詞的な景色に彼は惹かれない。それよりも道すがらにあるエノコログサの慎ましき豊穣との偶然の出会いに心を動かされるのである。しかしそれが今、彼の主体としての存在と完璧なるものの追及の否定の強力な根拠として提示されたのである。


 なるほど、首が座るのが早かったと母は僕に言ったことがある。なぜそうだったのかを問うた。母によれば私は周りの出来事や家族の姿を見ていたのである。よーく見ていた、なのである。もしそうであるならば僕にとって何かを成すというのは何なのか。僕は今まで何をしていたというのか!私は届くはずもない目的地へ手紙を強く、強く思いながら書き綴り続けた悲劇の阿呆ではないか……!そんなの無駄な努力ではないか…。くだらない。眉間による皴や力む下顎、小刻みに震える全身をよそに、ほかの乗客は恐ろしく静かで、電車のジョイント音が少ないと息遣いが目立つほどであった。そんな中で、記憶は高校時代を映し出すのである。

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