第9話 芸術と花火
体を動かす機会のあまりない志田は土日には散歩に出かけるのが日課となっているが、その日はちょっとした試みで美術館に行くことにした。絵画や芸術に詳しいわけではないが、彼のもう一つの習慣となっている詩的な世界の見方が本物の美術を目にしたときにどういう反応を起こすのか以前から興味があったのである。
東京国立近代美術館は近現代の日本美術を中心に絵画、彫刻、工芸、版画など多岐にわたるジャンルの作品を収蔵している。定期的に行われる企画展では特定のテーマやアーティストに焦点を当てた展示が行われる。近くに皇居もあり自然豊かな景色の中に現れるモダンで機能的なデザインの建物も特徴である。その日も、四階から一階にかけて、16世紀あたりから現代まで時代が進んでいくような展示になっており、志田は時代に逆行する形で一階の現代アートから鑑賞を始めた。頭に雄牛の頭部の骨を被った少年のブロンズ像やアリの巣を模したようなアルミ製の小さな建造物、ボウリングのピンのような体の輪郭を持った女性の裸体画などがあった。それ以外にも壊れたカメラやタイヤ、電球等を用いたジャンクアートと呼ばれるものも印象的であった。現代アートは世間的には理解が得られないことも多いと聞く。アバンギャルドの宿命ともいえるだろう。しかし結果から言えば彼にとっては一階が最も興味深い作品がそろっていたように感じられた。もちろん簡単に理解できたなどとは言わないし、理解するしない以前の問題である作品も多々ある。二階や三階に見られた宗教画や着物、屏風絵も美しかった。ただ一階で何より感じたのは美術館という場所の異質さである。鑑賞する人は様々で、夫婦やカップルもいればスーツを着たおじさんやノートをとっているマニアのような人、すべてを横目で見ている若者、見ているようで何も見ていない子供などがいる。それでも空間は静かで厳かな感じさえある。人々は暗黙のルールに従い、そこにあるすべてが芸術として価値のあるものなのだという目を向ける。後ろ手を組み何かを読み取ろうと隅々まで観察するのだ。きっとそこには何もなくてもいいのかもしれない。そう、作品は人が見出すものなのである。作品は我々の発想や想像力の手掛かりとして機能する誘因に過ぎないのである。
彼らは今何を思ってこの作品を見ているのだろうか。大きな一枚絵の抽象画をみる人々を後ろから観察しながら強く感じた。僕と同じように絵画自体にそこまで詳しくない人も多いと感じる。そんな中で彼らが鑑定の目のようにその視線を光らせ、本物に出会ったというような恍惚を表情いっぱいに見せているのはいささか衒学的ではないかと僕は思う。しかし、であれば彼らの演技力、表現力には感嘆すべきものがあり、それもまた芸術なのではなかろうか。そして彼らのそのアピールは周囲の人々に伝染し、一人また一人と、衒学的な人間を増やしていく。芸術家は彼らのこの様子を嗤うだろうか。否、きっと嗤わないだろう。この人々が何か作品から感じて、その身体や精神までもに影響を与えるまさに芸「術」を食らい、アーティストにとっての理想的な姿を体現している様子に感動の涙さえ流すのではなかろうか。だとしたら僕は考えを改めなければならない。先ほどは作品を鑑賞する者がその作品を利用する形で自らの中に芸術を見出すように思ったが、今この眼前に繰り広げられている、鑑賞者の音なき精神の狂喜乱舞を見ると、これこそ芸術家の求める芸術、その神髄であるのではないかと思い至った。そしてまた世間の理解の遠くなる所以を感じ、僕たちが手のひらの上で踊らされていたことに気づき、畏怖とともに武者震いがした。僕は外に出て天然水のペットボトルを一気に飲み干した。気味の悪い夢の中にいるようだった。しかしこの劇物のような世界に、進むべき未来の可能性の種子を見たような気もした。
芸術に侵された頭で志田は帰りの電車に乗る。外はもう暗い。人の少ない一号車の席に座る。頭を上げると窓に自分が写っていた。丸かったり角ばったりとしているその顔は、綺麗とは言えないが一体としてはバランスが取れている。素朴というよりかは派手さがある。若さのおかげだろうか。鼻筋はすっと通っており、目が綺麗だとはよく言われた。暗闇による反射では細かい肌の様子や髭などはよく見えず、加工が施されているようである。しかし、自らの頬に触れ、顎までをなぞると、所々で不快なすべり止めに当たり、改めて井沼の話を思い出し、何のためとは言わないが、多少身なりを整えなければならないと感じた。窓から自分の像を追いやると、その先に暖かい光を放つ家々やマンションがよく見える。それらが絶え間なく目の前に現れては過ぎ去っていく。あの光一つ一つにそれぞれ人生があり、本人にとってのかけがえのない一度きりのドラマがあるのだ。しかしそれは他者から見れば景色の中に何の意味もなく紛れ込む意識外のどうでもよいものなのである。そう思うとポジティブには、失敗を恐れずに好きなように生きていく動機にもなるが、ネガティブには、自らが何においても意味を残すことができない根拠として受け止められる。僕なら後者で受け止める。 後者ありきの前者の考え方だからである。
電車から降り、駅から徒歩で家に帰る。すると「ぼん、ぼん、ぼぼぼぼん、ばちばちばちちち」と花火の音が聞こえた。なんとなく山場に近そうな音であったので、彼は少し高台へ行き、その様子を見ようとした。案外近くでやっていたようで、人も多い。想定通りちょうど山場を迎え、開けた空を見上げると、惜しみない開花の連打音とともにその黄金色の花束に志田は心を打たれた。枝垂れの花火が視界いっぱいに広がり、その大きさに吸い込まれ、包み込まれそうになり、思わず後ずさりしてしまった。
「ぼんぼぼぼぼぼんぼぼぼぼんぼぼぼぼぼん…………………どおーーうん!!」
魂を震わすような音。歓声が上がる。重なる花火は何か幾何学的な美しさもそのうちに秘めているようであった。しかしながらそんな盛況も高揚の時も終わりを迎えるのだ。だが花火はその散り様美しく、人間のように醜悪な死に体をさらすことなく山場後の煙に栄光の輝きを残像させながら、人々の記憶に感動を残していくのである。自然と拍手が巻き起こる。まったく…これがみなの望む完璧なのではないか。いいなあ、やっぱり、いいなあ…。言語化をためらう感動の嵐、それは感服と子供じみた嫉妬である。しかしそんな中でもその脳の一部は分析を始める。迫力、散り様、感動、記憶。彼の脳内にはやはりある可能性が胎動していた。平穏な永遠では成しえない人生の昂奮が花火にはある。あとはよい機会さえあれば。そうして自分がいつもと同じ結論を得ていることに気づいて落胆する。機会さえあれば…。その時が来れば…。奮起するだけしてそのエネルギーが十全に発揮されたことは今まで志田にはない。彼はいつだって結末だけを夢想しているのだ。丁度生み出されたエネルギーはそのエネルギーにふさわしいような結末をもたらす妥当な未来を描く。過度な期待や大成ではなく、自分の現状を見た上での可能な予測になるよう器用な彼の意識は調整されてもいるのである。しかしいくら待てども何も起きはしない。過程が丸々切り取られているのだから当然である。その過程を人は努力と呼ぶのだろう。努力とは汗+涙のn乗=笑顔の物語という等式の名である。あまりに美しきその存在に彼は時折言葉を聞いただけで瞳を潤ますほどである。だから彼は自分が努力をしたことがないと思っている。これは嫌味でもなんでもなく、過程と結末ありきの美しき努力というものに自らは当てはまらないという単純な推理である。
花火によってつけられた導火線は努力にはつながらず、涙も汗も要さない思考の複雑運動の中へと入っていき、最後にはくだらない論理に始末されるのである。溜息を吐き、夜空に浮かぶ中途半端に太った月を見上げながら帰っていった。蝉の音だけがけたたましく耳に響いた。
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