第8話 悲劇

神保美奈は帰省の準備をしていた。地元を離れてから実に四か月振りに家族と再会する。加えて先に帰っていた友人や地元に残っていた友人から遊びの誘いを受けていたのでしばらく滞在し夏を満喫しようと考えていた。


 前日のニュースで今日は雨が次第にひどくなるとあったので神保は朝早く家を出た。霧雨が降る中ビニール傘を差し、駅までの道を歩いていくと歩道橋の下でお年寄りの方が道路のほうをじっと見つめていた。不思議に思い、話しかけた。


「どうかされました?」


「…大事なものを落としてしまいましてね。」想像以上に判然とした応答であった。声にまだ若さが残っていた。歩道橋の上から何か落としてしまったのだろうか。雨で滑ってしまったことも考えられる。車の通りは多くないが道路に入って取りに行くのは少し不安なのだろう。


「どこら辺に落としましたか。私取りに行きます。」


「いや、いいのよ。もういないわ。」もういない?


「何を落とされたのですか?携帯電話とか手帳とかですか?」


「子供だよ。」


「・・・!」


唐突すぎて言葉が出なかった。だんだん激しくなる雨が救いになった。しかし視界は暗くなった。話しかけたことを少し後悔したが、思考を切り替えた。私がこれから生きていく世界は楽しいことばかりではなく、向き合っていかなければならない現実が大いにある。理解しないでは何も判断ができない。


「優しさで話しかけたのだろうけど、驚いたかい。私は、殺人者だよ。もう五十年も前の話だがね。お嬢さんは学生さんかな。良ければ私を駅まで案内してくれないかね。」私が断れないことを分かったうえで言っているようであった。


「分かりました。行きましょう。」お年寄りを誘導し、隣をゆっくり歩いた。


「そんな緊張しなくていいのよ。」


「はい。」


「ちょうど今日みたいな雨の日だったわ。傘をさして。まだ小さな子どもを背に駅へ向かっていたの。昔は安全性とかそこまで厳しくなかったからね諸々。柵も低いし、おんぶ紐も各家庭のお手製だったりしたものね。傘をさしてこの歩道橋を渡っていた時にね、後ろからたくさんの子供たちが走ってきたのです。ピチャピチャと足音がしましてね、鬼ごっこをしていたのかしらね。まあどちらにしましても私はあまり気を留めていなくてですね、ですがお子さんが一人私に突進してきたの。そうしたら私は足元が悪かったのでよろめいてしまいましてとっさに柵に寄りかかりました。そして柵が歪みました。突然の恐怖でした。すると背中に軽さを感じたの。後はもう、何でしょうね、動いて緩んだのでしょうか、居心地が悪くなったのでしょうか、それとも皮肉にも…あの子は車のおもちゃを見せると喜んだものですから…自分から出たのですかね。母の背から飛び出して。とっさに手を出した時にはもう遅かった...。あの子が傘くらいゆっくりと落ちていればあるいは掴めていたのでしょうね...。」


 話しかける勇気が出なかった。昔の話とはいえその生々しさに息をのんだ。こんな言い方はおかしいのかもしれないが本当の悲劇だと感じた。フィクションとして悲劇が創作される理由となるような悲劇。なんだか涙が出そうだった。微かな星を思い浮かべ、彼女は何とか口に出した。


「あなたはその後どうなったのですか。」


「私はあの事故で多くの者を巻き込んでいました。私の家族だけでなく突進した少年、歩道橋を作った県、あの子を轢いた車。その誰もが責任を負いたくなかった。少しでも加害の重荷を持とうとはしなかったわ。当然私は彼らにそれを分け与える権利などないの。直接には私の過失ですから。けどどこかでやさしい世界を信じてもいたの。どこかしらからくる助けの手を前提とした心持をしていた...。今までの人生、何とかなってきたことが多かったのでね。けれどみんな逃げてしまった。ごみを一か所に集めてきれいさっぱり忘れて彼らの世界を繕った。現実を私とともに消したのよ。いい?最も人間が醜くなるのは責任から逃げる時だと思うわ。向き合うべき現実に、苦しみに、向き合わず、仕方がないだの、功利主義だのを理由に責任を少数に、一人に、弱いものに擦り付ける。その時のやつらの心情を一言一句解説したいくらいだわ。並べて恥じるだろうよ。保身、諦め、見て見ぬふり。一切合切が非英雄的だわ。かつて主人公を夢見た少年少女は生きる中で笑えるほどに姑息で模範的な脇役となったわけです。勿論、私含めですよ。あの場で主人公だったのはあの子だけだったと思います。でも分からない。だとすると結局私は彼が主人公でいてほしいのか、傍観者になってでも生きていたほしかったのか。駄目ね。自分事はやっぱり特別扱いしちゃうわ。落ちていく彼が見た走馬灯はどんなものだったんでしょうね。アスファルトの上に滲む彼の血はまるで描き殴ったクレヨンみたいだったわ。でももうあの子の顔もおぼろげになってしまった。」


「写真とかはないのですか。」


「ええ、ありませんよ。」


「生まれた時に撮ったりしないのですか。」


「あなたにももうわかるんじゃないかしら。要は写真だって現実じゃないのよ。あれは剝製とか標本とかそんなものじゃないかしら。無いものをあるように見せかける幻想よ。思い出したくないと言えばウソにはなるけどももういないということにしかならないわ。分かって?」


 しばらく無言のまま歩いていった。いろんな考えが神保の中に廻った。できるだけ自分事のように考えた。気持ちが少しまとまったところで駅が見えてきた。おばあさんをエレベーターまで案内し、彼女をエレベーターに乗せた。扉が閉まりかけるその時、神保は言った。


「私は、向き合います!苦しいことに、あなたの悲しみを忘れません!お話しできて、とても良かったです!」深い傷を負った心に適切な言葉を神保ははっきりとは分からない。しかし相手を想った本当の気持ちを言うべきだと今思った。しゃべりだすと言いたいことがたくさんあったが彼女は上昇していってしまった。深くお辞儀をした彼女に驚いたような顔を浮かべていたおばあさんも最後には母のような優しい笑顔をしていたように見えた。神保美奈もまたその顔を見て表情が少し緩んだ。


 時間にして十数分の出来事だったが、神保にはどっと疲労感があった。嵐のような出会いだった。自分がこれから帰省するということを忘れそうになった。上であったら少し気まずいなとも思いつつ、自分が先ほど言った言葉を思い出す。向き合う、忘れない。理解のある人になりたいな。そうか。だから私は…。…なりたいものが見えた気がする。私は彼女のような加害者と言われてしまう人々を支えられるような人になりたい。スマホを確認すると電車の出発までもう五分とない、傘をたたみ、颯爽と改札を通る。ロングスカートが風を含んで揺らめく。帰省の楽しみを再び膨らませて電車に乗り込んだ。



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