第4話 太陽
当時、志田豪太のことを知らない者は学年にほとんどいなかった。それは神保も例外ではなくそのクラス内での影響力や先生からの信頼、学級委員としての活躍は友人づてで伝わっていた。そんな彼とは中学三年生の時に同じクラスになった。同じ「し」で始まる苗字だが、席は前に篠原さんや白井さんがいたため案外遠く、友達も多い彼とは話す機会はしばらくなかった。
しかしそれ以前、二年生の時のある日の放課後、神保は少し長引いた委員会の仕事が終わり、帰ろうとしていた。体育館の脇を通る道から東門へ出ようとしていた。眩しい夕日が体育館の脇道を照らし、道しるべのようであった。中から聞こえるバスケ部の声は溌剌としていた。しかし体育館の屋根の軒下の影になっているところに人がいた。志田豪太である。俯きながら左拳を体育館の壁にか弱く叩きつけていた。気が付くと神保は話しかけていた。
「どうしたの?」迷子に話しかけるような声であった。
「あっ、神保さん…。参ったなあ。目にゴミが入ったことにしてくれないかな。」彼は驚き慌てた様子で振り向いて目を拭った。
「何か辛いことがあったの?というかその手…。」
「なあに、心配など無用さ。ただ僕の悪い癖が出ただけだよ。誰かを傷つけるとすぐ言い訳がましく自分のことを痛めつけるんだ。本当にみっともないよ。でもこの殴打は自分への殴打でもありつつ皆への殴打でもある。ひどい話だけどね。どうしてかいつも加害者になってしまう。傷つける側になってしまう。逆に僕の前ではみんな簡単に被害者になる。弱者となって人々の同情と支持を得る。どうしてすぐ敗北するんだ彼らは。なぜ強くあろうとしないんだ。」
そう言って彼は拳を緩めて壁をそっと撫でた。影の中の血は黒く濡れていた。持っていたティッシュでその血を抑え、保健室に連れて行こうとしたが「大丈夫、大丈夫、ごめんね。ありがとう。」そう言って彼は足早に去ってしまった。
後日聞いた話だと彼は部活中にデッドボールで部員を怪我させてしまったらしい。大きな怪我ではなく、彼の部活の仲間も誰一人として彼を責めてはいないようだった。真偽は定かではないが、正直なところあの日の彼の反応とはかなりの温度差のある小さな事故であった。実際のところ彼も次の日廊下で見たところ、いつも通りの愉快で人望のある姿を見せていた。しかしあの日見た黒い血は神保の記憶に強くこびりついていた。
***
始めてちゃんと話したのは確かあの日だが、志田にとってはそれからのことの方が大いに重要であった。なまじ普段は見せない部分を吐露してしまった志田は三年時に同じクラスになり、席替えの結果隣になった神保に対して何らかの意識をせずにはいられなかった。夕日に照らされながらやさしい笑顔で話しかけるあの日の彼女は象徴的であったのだ。
「よろしくね!」と隣に座る彼女は言った。愛玩動物のようなその瞳と声。艶やかでまっすぐな髪。温和で甘い空気が鼻腔を通り頭から突き抜けるような感じがした。彼女は想像以上に僕の心を動かしていた。
隣の席になると様々な彼女の姿が見えてくる。よくしゃべるわけではないが、話しかけるといつも楽しそうに応答し、話題を広げ、ノリまで理解してくれるためこちらまで嬉しくなる。また勉学にも長けており多くの友人から教えを請われ、困ったように、しかしながら嬉しそうに笑っていた表情は印象的であった。そして何よりも純粋であった。無知であるわけでも、厭なこと避けているわけでもなく、ただ真摯に自分の善意を信じているようであった。何が悪で何が善か。それら定義の前提としてある、善へ向かうという動きとしての善。彼女の思いやりや行動、信じる物事は決して止まることを知らない。それ故に彼女の心は澱むことなく清流である。僕の中にあった表裏一体としての善悪に新たな観念が加わった。動的な善、そして静的な悪。善悪を固有物としてみる場合それは人々の見え方や感じ取り方によっていかようにも変化する。しかし動と静ならばそこには確固たる認識の差異がある。どれだけよいと思っても否定され、どれだけ外道な人間でも愛される。そんな揺れ動く善悪を一刀両断するように彼女の清き川の流れ、生き方は僕に希望を与えた。その優しいにもかかわらず力強い想いに僕は惹かれていた。
しかし、世俗的なことに反したかった志田は神保に対する思いを「恋」や「愛」と呼ばず、新しい感覚にこう名前を付けた。_______________「信仰」と。
僕は夢を見ている。完璧を探す夢。失敗を繰り返す中で世界に憤りを感じた。どうして、どうしていつも、僕のしたことをそんなに責めるんだい。責められるんだい。迷惑をかけたからかい?理解できないからかい?そんなに怒らないでくれよ、簡単に否定しないでよ。ため息まじりのその目線を止めてくれよ。いつだってどうにかなってきたじゃないかよ。僕はいい子だよ、認めてくれてるんじゃないの。なんでなの。何が足りない。みんなは何が正解だというの。教えてよ。なあ、教えろよ…。そうかお前らは完璧以外許さないのか…わかったよ。
完璧を目標とした志田は今まで以上にあらゆることで優れていく。彼は三年の半ば頃に左腕を故障するまで投手として一点もとられることはなかった。一方でその恐ろしいほどの気迫は他の仲間たちには伝染せず、ついには県ベスト4どまりであった。さらには学校のテストにおいても一位以外とらなくなり、成績はオール5、修学旅行や文化祭での企画構想、合唱コンクールと体育祭の二冠など彼の存在感は学校内で一層強まったのであった。
この世の全ての人間が結局はなにか「完璧なるもの」を望み、希求し、期待してくる。だからこそ、はじけるような笑顔と神妙の笑みを僕は絶やさなかった。自分の中の混沌と、外にあふれる栄光を巧みに利用していった。僕はどこまでも強くありたかったし、それが僕の全てであるから。でも結局僕は、神保美奈に愛されたかっただけだったのかもしれない。
ある日の夏の教室。体育後の四時間目、社会の授業である。席が真ん中に近いからだろう、彼女に冷房がまっすぐ当たる。授業も半ばを過ぎて多くの人は暑さを忘れ、乳酸と適度な冷気に酔いどれ始めていた。しかし彼女は夏服の半袖から見えるその細くも柔らかそうな腕で自身を抱きしめる。この時には席はまた変わっており、教室の左後方に席を構える僕には冷気はあまり来ない。まだ少し汗ばむくらいだ。けれども僕は手を上げる。「先生!僕ちょっと寒いです!冷やしすぎでは。」横目で見ると、彼女が首を縦に大きく振っている。このような瞬間をただただ愛しく懐かしく思うのだ。
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