第3話 神保美奈

神保美奈は教室の中央前方に静かに座して教授の講義に聞き入っていた。日本国憲法の授業である。男女平等や社会参画について、フランスのクオータ制、アメリカのアファーマティブアクション。海外の事例と比較することで自国の法の在り方がよく見える。仕方ないとあきらめてしまうような事情も法の一工夫で一気に変わる。しかしその結果逆差別というような問題も取り上げられ、まさに法は、この世界は、天秤のように極めて繊細な調和を欲している。とても興味深い話。でも周りを見回すと寝ている人もちらほら。隣同士とささやきあい笑いあう人もちらほら。私が彼らに気を止める必要はないし、いろいろ事情もあるだろう。彼らを見ると少し教授が気の毒に思う。だけど教授もまた本来、自分の研究や仕事を優先したいのだろう。つまり大学の授業は消極性の綱引きのようなもの。私はそんな彼らの間に着席している。両端からの引き合いを受ける私はみるみる膨張し、何か大きなものになって最後には割れる。ちょっと怖いけど面白い想像をし、表情が緩んだ。時計を見ると残り五分だった。最後にまた気を引き締め講義を聞く。重要個所をノートに記入した。今日もまた一つ学んだことを実感する。家に帰ったらちゃんと見返そう。そうして講義は終わり、静かにノートを閉じて黒のトートバックにしまう。一斉に教室内が騒がしくなる。こんなにも皆がしゃべっているのにどうしてか私はこの音に落ち着きを覚える。耳に伝わる音の振動がリラックス効果のある波長を創り出しているのかなあ、と考えていると後ろから足音が近づいてきて、私の手を取って言った。


「ねえねえ、ごはん行こう。」


「この後授業ある?もしないなら最近できた近くのあの良さげなお店に行こうよ。」


大学に入ってできた友達の瑠実とリンリーだった。瑠実は大学の近くに住んでいるからここらの地理に詳しく、リンリーは中国人の留学生であった。けれども彼女は昔日本に数年住んでいたらしく日本語はペラペラだった。彼女らと出会ったのは入学式の時で、集合時間や場所について何か困っていそうだったリンリーに私が声をかけ、案内していたところに近くにいた瑠実が勢いよく混ざってきて自己紹介を始め出したのであった。そこまで活発でない私にとって瑠実の豪快さやリンリーの親しみやすさと優しさはなんだかバランスが取れている感じがしてとても居心地がよかった。


「今日はこの後対面ないからいけるよ。」そう言って席を立った。




 お店には確かに「New Open!!」の文字があり、黒と茶色の板張りに大きなガラスが張られ、テラス席も準備されてあった。自然との調和をコンセプトとしたような落ち着いた色合いとオレンジ色の照明の店内には神保らのような大学生だけでなく、スーツを着てPCに向き合う人や、有閑マダムのような大らかなお母さま方がいた。このようなお洒落なところに神保は行き慣れてはいなかったので入る前に少し硬直したが、瑠実の乗り気に押され、僭越ながらというような気持で入る前に立ち止まってスマホを鏡代わりに顔や髪を整えてから入っていった。


 飲み物や食べ物を注文し、席に着いた。天井には店内の色合いに同化したサーキュレーターがゆったりと回っていた。


「こういう店が似合うような女になりたいよね。あなたたちもそう思わない?」店内を見回して瑠実が突然言い出した。


「なりたい、なりたい、」瑠実に合わせるようにふざけた声でリンリーが言った。


「この街はね、とても過ごしやすくていい街なのはそうなの。でもね、都会の風が足りない。この天井の大きなプロペラをごらんなさい。これが都会の風よ。この風はかったるい田舎の温風を退けるように吹いているの。この風を浴びて私は確信した。やはり私は東京に行くべきだと。東京が私を呼んでいるのだと。女は東京に行くことでまた一つ大人になるのよ。田舎臭い羨望だと笑うものもいるでしょう。構わないわ、なぜなら私は東京に行くから。そこで必ず変わるから。というかそもそもここだってそんなに田舎じゃないし。」瑠実は何やら昂奮しているようだった。彼女は本当は東京の学校に進学したかったらしいが、親や金銭上の関係で地元の大学に通うことになったのだ。確かに彼女の性格を考えると一つの街で収まるのはもったいないような気がする。しかしだからと言って彼女の東京に対する厚い信仰に果たして東京は応えられるのかとも思った。むしろそのことについては中国という大国を知り、海を渡ってきたリンリーの意見を聞きたかった。するとリンリーは「東京は人が多くて好きじゃない。中国より多くてかないません。」と思いのほか冷めた意見だったのでそこでこの話は終わった。


 次に話を振ったのは神保であった。


「みんなは何で法学部にしたの?」


「ん?」


「みんなも入ってみてわかるように法学部って結構大変なイメージあるからさ、こうして出会った仲間とそういうの共有したいなって思って。」


「なるほど」


「美奈からどうぞお願いします」


「あっ、はい。私は動機としては何をするにおいても法律は私たちの人生に関わってくると思うからかな。事件、事故を起こしたとかは当然だけどそれ以外にも社会に出て働く中でも労働基準法とか、地方公務員法とかあるわけで現代社会に生きる身としては法から逃れることなんてできないでしょ。民法だってすぐそばにある出来事の問題だし。だから私としては法律は一般教養の一つなんじゃないかとも思えるくらい前提として必要なんだよね。と言いつつも最終的には弁護士を目指したいんだけどね。」


「そーいう感じね。それはなかなか東京の風を感じるわ。美奈。」


「私も似たような感じかな、ただ少し違うとすれば国籍の問題かな。」


「今は外国人でも司法試験に合格すれば司法修習生として採用されるんだよね。」


「そう。でもそれ2009年のことなんだよ。相当遅いでしょ。それに調停委員に関してはいまだに最高裁は採用を拒否するからね。弁護士会も困ってることよ。」


「加えて女だからね。大学ではきっとそういうのはないだろうけど日本社会はとにかく色眼鏡がお気に入りらしいから、特に上へ上へ行くほど色が濃縮されていくっていう感じがね。まあこれが社会や男性だけに還元していい問題かどうかは賛否あるだろうけど。って聞いていますかー瑠実さーん。」


「いいえ聞いていません。まだ一年生よ、私たちは。もっと楽しいこと考えましょう。堅苦しい話も興味深くはあるけれども、なんだか飲み物までコンクリめいてくるからさあ。さっきからのどに通らないの、おいしいのに。」


「コンクリドリンク、ユーチューバーの間で流行りそう。」


「第二のタピオカとなるか。」


リンリーと神保は納得して話を切り上げた。もっと柔らかで甘ったるいパフェのような話をしようと試みた。好きなアイドルやスポーツ選手、芸能人の話は意外にも盛り上がった。時折リンリーが見せる知らない中国人に戸惑いながらもかえってそれが面白くもあった。そしてやはり恋愛事情には異様な盛り上がりを見せた。


 神保に恋愛経験はなかったが、その話を振られたとき不意に数か月前に志田から送られてきたあのLineを思い出した。連絡が来ること自体はそこまで珍しいことではなかった。高校時代にも時々連絡をとっていた。しかしあの時の彼の言葉は積極的な対話というよりも何かセンチメンタルみたいなものを表面的に匂わせていた。それは神保に彼と初めて会った時のことを思い出させていた。


 初めて彼と話した時、彼は静かに泣いていた。

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