第2話 回顧
昔からふざけたい人間ではあったようだ。写真に写るときはいつも変顔だったし、皆を笑わせることが大好きだった。教室で踊ったり、靴飛ばしで飛ばした靴が先生の顔に当たったり、問題児として認識されていただろう。あれをやれと言われたら決してやらず、皆が右を選ぶなら自分は左を選んだり、ひねくれていて天邪鬼な性質であった。ただそれでもあの頃は、それ以上に、理由は覚えてないけれど、愛されていたと思う。
そんな六年生のある日のこと。クラス内でちょっとした討論を行うことになった。道徳の時間だ。内容は「自分の家の近くで災害があったときのこと。家にはペットと、年老いた祖母が残っている。連れ出して助けることができるのは一匹もしくは一人だけである。」というものであった。多くの生徒が祖母の命を優先したその中で僕と数名の他の生徒だけがペットを助けることを選択していた。その時の僕は純粋な理由でその選択をしていたと思う。命の価値を考える年頃であったのだろう。どちらが生きるのが有益なのか、どちらが死ねば負担が減るのか躊躇いなく判断を下していた。果たしてそれは無知なのか純真なのかはたまた狂気なのかわからないが、先生は僕の倫理観には多少戸惑っていたように見えた。異なることの優越感。その感覚が芽生えたのはこのころからだったかもしれない。
その日の昼休み、僕は数人の友人と肋木の上に座っていた。この肋木は僕らの定番の集合場所であった。何かあった時などはいつもここにきて悩みや愚痴などを話すのだ。空は疑いようのない晴天で青が光っていた。気持ちの良い風が体の隙間を通過して、心の空気が一新されていくのを感じる。腕を空高く伸ばし、深呼吸をした。そうして周りを見渡すと、他の同級生や下級生は走り回ったり、ボールを投げたり、縄跳びをして遊んでいるのがよく見える。もちろん体を動かして遊ぶことはとても好きなのだが、討論後の僕たちの頭は話すことを求めていた。
「実際さ、ペットが何かにもよるかな。子犬とか猫なら問題なく連れ出せるけど、でかい動物はリスクのほうが大きくなるよな。ごーくんはペット何のつもりだった?」友人の加護聡は言った。ごーくんは志田豪太のあだ名である。
「なんとなく、イメージね、鳥だったかな。名前はピータ。なんでもいいけど。でもあの問題で言いたいのは結局、自分がその立場になったときに助けられるかだよ。ああいう選択の時とか、緊急事態に向かい合った時に動ける人間になれるかっていうね。」
「なるほど。つまり、100パーセント勇気~もう頑張るしーかなーいさ~ってことか。僕たちが持てる夢の輝き永遠に忘れないでいような。」
「…せやな」
そこから僕らの話は未来について、になる。
「教育相談で将来の夢とか聞かれなかった?なんて言ったの?」今度は僕が聡に聞いた。
「まあまあそう焦りなさんな旦那よ。確かに低学年ならサッカー選手とかユーチューバーって即答できるかもしれないけどさ、この十二歳という中途半端な年齢にもなると未来のことなんて逆になんもわからんよ。それよりも今を楽しく生きることを考えたほうがいいと思うんだZE★。」……それもそうか。と思った。しかしその聡のどや顔も虚しく、
「俺は家の和菓子屋を継ぐ感じになるかなあ。親からは好きなことしていいよとは言われているけど。」と、もう一人の友人が言う。
「意外とそうやって何か家でやっててそれを継ぐっていうのはいいのかもしれないなあ。職業選択の自由とはいっても何でもできると人間は何にもやらないかもしれないからなあ…。」
僕の作った曖昧な会話の流れに数コンマの沈黙が走ったのち、口を開いたのはその時はまだ背の小さなもう一人の友人、安藤栄人である。肋木にぶら下がりながら僕たちを見上げて言った。
「俺は、先生になろうかなって今は少し思ってる。」
「先生…か。…お前が?!…まあ頑張れ。」
遠い未来の話である。皆が自分たちの教室を何となく見据えた。子どもながらに一生懸命考えていたのだ。将来を楽しみにする顔に不安そうな顔。それぞれ異なった表情をしていた。教室の窓の下には生徒それぞれが育てた桔梗の花が青空の下でかわいらしく咲いていた。
小学校時代を総括するならやっぱり相当に充実していた。ふざけあって楽しい瞬間もあったし、六年生の時は下級生の手本となる振る舞い、態度を示せた。修学旅行なども事件ありきで楽しかった、そして仲間とビデオゲームやカードゲーム、ドッジボールで大いに遊び、幸せな時間を送った。思春期らしい感情の揺れはあったにせよ周りにいつも誰かがいて、辛さを忘れさせる世界へ容易に行くことができた。
そして中学時代、多くがそのまま同じ中学にスライドするため知り合いも少なくなかったが、それでも入学式では春の特別な緊張感が小学校よりも一回り大きい体育館や教室に漂っていた。僕も例外ではなかったが子どもとはすばらしいもので、そう時間も経たずして私は小学校時代と同じスタンスで過ごせるまでになった。想定外だったのは自分の学力が周囲に比べ、高かったことである。一学年300人近くの学校で一桁をとることは当然であった。私は持ち前のお道化に加え、頭脳を得て学級委員を務めて信頼を獲得し、問題児と優等生の相対する二口の刀を構えることで絶対的なボピュリズムに基づく独裁学級を作り上げた!…。しかしそう思っているのはきっと僕だけだ。僕がしていたのはさながらアケメネス朝の統治のように寛容なものであり僕は僕の正義に基づく平等な道徳観を躊躇なく発揮していただけなのだ。いじめらしきものを調停し、先生の一方的な感情による叱責に対し忠告した。つまりなんでも思い通りになっていた。完全なる有頂天、放縦不羈の風雲児。しかしこれが力の正しい使い方だろうよ。さて、僕は調子に乗っていたのだろうか。果たしてそれを吟味することに意味があるのか分からないが、一つ言うならば光あるところに影ありということだろう。
僕は野球部に入っていた。左利きということもあり、ピッチャーであった。責任感があった。部活の仲間とは多くの楽しい時間をもらった。しかし試合や大会となるとそこには勝ち負けがあり、私の投げる一球がその絶対的な二つのどちらに零れるかを決定することもあった。そんなとき私はとても弱かった。試合の時、どうしても力んでしまう。力んでしまうと手のひらの豆に引っかかって球が思いもよらない飛び方をする。甘い球だ。手のひらを離れた瞬間にバッテリーは確信する。血が一気に引くのを感じた。
そういったことの積み重ねで僕はある面で自信と自尊心を失い、無力感に苦しみ、自分を責めた。自分の敗北が許せなかった。しかしそのような悔しさや苦しさはどこの学校の誰にでもあることであり、特別なことではない。僕は単に人生初の挫折を味わっただけである。そのことに僕は一層苦しんだ。悩める人に向かって「君だけじゃないよ」というのは多くの者が忍耐できる状況の中で自分だけが心の脆弱な人間であるように感じ、かえって自己嫌悪の促進につながることもあるのだ。いや違うか。僕はもうすでに凡人でいたくなかったのだ。この時には気づいていないだろうが、誰もが苦しむ状況に陥ることさえ自分に許さなかったのかもしれない。そのため責任を伴うにつれ失敗を恐れ、顧問の顔色を窺い、保身の判断をして過ちを犯す。のわりに偉そうに指示は出す。勿論選手としての結果も満足には振るわない。まさに身勝手。部員の冗談で言った「無能部長」という言葉が心に鋭く刺さり、脳裏に焼き付いて離れなかった。自分は塵芥だ。そんな自虐を夜、毛布にくるまり心中で叫びながら僕は笑えてくる。どんなに自分で自分を傷つけても他者に傷つけられる時に比べて痛くないのだ。ああ、僕はまだ自分のことを信じている。一層嫌になる。心の余裕を感じる。なぜだ、どこだ。…あ、そうか僕には学校生活での安定と自信がまだあった。つまり僕のクラスでの調子は反動ともいえる虚勢の光なのであった。
そのころ僕は部活と学校、家庭生活のその間の激しい人格のギャップに自己の分断の可能性を見た。はじめそれは先生に対して、友人に対して、親に対してなど状況への対応や自然な快適さによって積極的に行い、また表すものであったが、時間がたち、だんだんと慣れてくると私の人格は反射的に人を識別し、無意識に適当な人格を他者へ提供するようになっていた。自分が何なのか分からなくなっていた。
僕は自分を客観視できる。僕は自分に自信を持とうと思えば持てる。でもきっと必要以上に自己嫌悪をしている。時々冷静になって考えたがすべて無駄な思考であった。すべて「だからどうした」で一蹴されてしまう。無意味なことに悩むほど無意味なことはない。ならその無意味とは何なのか悩ませろ。だからその思考は何も生まないんだよ……。
無意味と悩みと、無駄と時間とがそれぞれのしっぽにかみつき、無限周回による虚無感が油断すると僕に降りかかってきた。僕は自分が所謂「こじらせている」と感じていた。それはついに他者に隠しきれるものではなかった。みんなの反応がどういったものになるのか少し心配もあった。引かれてしまうだろうか、今までとは変わってしまうかもしれない。しかし結果はもっと恐ろしいものであった。僕の悲しみの暴発は皆に僕の印象を何も変えることはなかったのである。というより、僕が変えさせなかったのかもしれない。僕にとってこの暴発は自分の内にある何かを打開するきっかけになると思われていた。それはひとたび穴が開けば破裂する風船のように止めようのない変化が僕に訪れることを約束すると思われたのだ。僕は裏切られた。否、これは責任転嫁である。私の友人は僕の仄暗い話をちゃんと聞いてくれた。ただその返事は「ネガティブモード?」という簡素な横文字や「そういう時はね、寝るんだよ、お疲れのようで」といった安易な解決案、それに「あれ、そんな自信ない感じだったっけ?」という認識の齟齬であった。これらの言葉を聞くとひとたび僕は役を取り戻し、「いや~これがネガティブ志田モードでっせ」や「なるほど、確かにそうだな」、「まあ意外とこういう一面もあったりしちゃったりなんかして?」と言って気ままにその穴をふさいでしまう。何よりも厄介なのはその風船の相貌は僕がなりたい僕であり、みんなの心を掴み笑わせることのできる理想の僕であることである。どうしても変えられないのだ。変えられないまま内側で誰にも向けられない弱さが乱反射していた。
それでも、人は、いずれ出会うのだろう。自らに変化を起こす機会に、人間に。神保美奈。僕を照らす太陽の存在。僕の信仰。しかし、彼女との出会いは今思えば、不本意であったように思う。
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