観測
清寺伊太郎
第1話 志田豪太
例えば人間の輪郭の内部と外部が隔てられている図をイメージし、その内部にじんわりとインクがにじんでいくとして、その色が薄い黒色だったとしたら果たしてそれは喜びの充足といえるのであろうか。
・・・いいや、違う気がするな。
そうかなあ、でも悲しみも失敗も落胆も絶望もいつだって対義語と二人三脚だろう。
言っている意味が分からないが、そう思えるならいいのではないか人生。お気楽さまで。ほんとに。でもできれば絶望という言葉を安易に使わないでほしい。辟易するんだ。
お気楽なものか。あまり私を舐めるでない。いいことをした、悪いことになった。駄目だと思った、何とかなった。俺がやる、自己中だよ。これでいいですか、自分で考えてみたら?・・・さて何度変わっただろう?何種試しただろう?人間変革の輪廻転生!これは特異なことである。本当に何千周もした。その周回に発電機でも取り付ければそれこそ一生分の電力が生まれるだろうよ。なあに冗談さ、ただ発電機に希望を感じているのは本当さ。誰だって何かの役に立てるならそうしたいだろう。発電ほどわかりやすく仕事を有益なエネルギーなるものに変換できるものはない。しかもSDGsだろ、昨今のトレンドは。最も効率の良い発電機を作るべきだね。必ず出資してくれるものが現れるだろう。
・・・元気そうならもう終わるが。
いや待て、この輪廻の果てに答えはあるのか、私はなぜ苦しむのか、極端な解決策しか浮かばないんだ。
何だいそれは。解脱でもするのかい。
近いね。そう無だよ。喜怒哀楽その他感情が色相環のスペクトルを表すなら僕はその円環を縮めて縮めて、色など無くなるほどにして差異を消滅させようとしたよ。
それで結果は。
できなかったよ。できるはずもない。何せ無なんて死のようなものなのだから。
そうかい、君がそんな風に思い悩んでいるようには見えなかったけどね。
本当に悪いね、いろんな命があった。はかない命、悲劇的な命、情熱的な命、享楽的な命、退廃的な命、感動的な命、どれ一つとして同じ人生はなかった。でもだからなのかなあ、この人生はあまりに退屈なんだ。なんというか、自らのぬるい体液に全身を沈めたような、意識があり夢を見ない永眠のような、まやかしの安心というか、不動かつ正体不明の気持ち悪さが隠されているんだよ。
うーん、よくわからない。まあどうせ使わないよりかは一度きりの権利。使うのがいいだろう。さあ…変わろうか。
ごめんな、きっと何も起きないよ。――……
何もないところに光がぽつぽつと生まれ、つながりあって無数の歯車のようなものを映し出す。それらが溶け合い万華鏡の景色が浮かび上がる。かと思えば空間が回転しながら光の粒子が波紋のように広がっては分散し、やがて静かな暗闇が瞼の裏とともに訪れた。
***
感覚は意識と次第に一致をし始める。しかし男は急激な混乱に襲われて一度気を失いベッドに倒れ込む。意識の移植手術のようなものである。しかし私は彼の意識を操るのではない。私は彼の何かであるがそれを説明するのは難しい。すでに私は彼であり、彼は私になっている。私は彼の意識や感覚を同じように享受するだけの器官のようなものである。したがってこれ以上は話すこともない。彼が私なのだから。私の意識に意味はない。そして僕はうつ伏せのまま目を覚ます。
不甲斐ない涙を浮かべていた。頭の中で永遠とつまらない議論をしていた。「生きる意味とは」「僕は必要なのか」「正しさって何なのか」この幸せで退屈な環境だからこそできる「考える時間」である。一度起き上がり思考を停止させ、今度は布団に仰向けに倒れながら勢いで涙が目の脇から一滴垂れた。耳の穴に入っていやな感じがした。深呼吸をし、スマホを手に取りラインを開く。五件の通知が来ていたが恐らくは全て公式アカウントだろう。ブロック削除すればいいものの、通知は気持ちの揺れ動きに刺激を与えてくれるから必要だ。人からはもう一か月近く来ていない。これを長いとするか短いとするかは人それぞれだろうが、少なくとも僕が気持ちを落とすには十分すぎる理由であった。
孤独。心を蝕む恐ろしい状態である。ラインの友達の欄にはその数百二十八と表示されていた。
孤独?勘違い、思い上がり、被害者面か。いや、正しいのはこのまやかしの数字ではなくこの取り残された心の方だ。弱いのはいい。もう認める。しかしこの愚図愚図はどうにかしなければならない。ようし。時刻は夜の十時である。
彼は意を決して起き上がり、誰かにラインを送信するようであった。都会の星のように微かな勇気である。相手はとある女性であった。
「久しぶり、僕はいろいろありながらも東京に行くことになったよ」
返信はすぐには来ない。しかし彼はある種の満足を持った面持ちで再び布団に寝転んだ。それからゲーム実況や漫画考察、お笑いなどの動画を見て、言い訳するかのように、学術書を読み、眠気を呼び起こし、その日を終える。返信は翌日の昼に来た。
「志田くん久しぶり(蛙)スマホが壊れて連絡途絶えてました、ごめんなさい(猫)私は春から〇〇に行くことになったよ(蛙)」
「動物絵文字多いな。そうか、生活が変わって大変だろうけどこれからも互いに頑張ろう」
「動物かわいいから結構使っちゃうんです(蛙)都会での生活憧れるなー(猫)都会の人はお洒落なので志田君もついていけるように頑張ってください(蛙)」
「多分無理だ、小学生だから」
「小学生のスタイルを高校まで貫いたのはすごいね(猫)」
「でもそろそろ変わらないとなとは思っている」「もうあの頃のように自信満々に胸を張ることはしないよ、ただ周りを幸せにできる人間になりたいです」
「頑張れ!(狐)私は理解のある人間になりたいな(蛙)」
そこで会話は終わった。男女の会話だというのに色気も何もないこの様子に安堵する。気持ちの多少の回復を感じる。どうしてもまだ心の生傷が癒えない。
20XX年志田豪太は大学受験に失敗した。周囲からの評価や彼自身の手ごたえ、学校での成績。様々なものを考慮しても落ちることはないと思われていた。しかし本番が終わり、三月某日、結果はインターネット上に開示された。彼自身にとってもおかしかったのは、醜くもスマホのページを開いたり閉じたりして番号を再確認したことだ。2460I、2460I、2460I …。閉じられた重厚な鉄格子の前で無罪を叫びながら扉を叩き続ける囚人のように一人ほの暗い部屋の中で彼は息を切らしながら小さなスマホの画面を叩いた。嘘だ。有り得ない。心臓の音が重く響いた。
時はそこから数か月経ち、引っ越しや入学手続きなどを何とか間に合わせ、志田は第一志望ではないが、合格した大学に通っていた。入学式や新歓レクリエーション、履修登録説明会など諸々の新学期行事を彼は半ば無意識でこなしていった。切り替えができない、この門を、この校舎を見るたびに自分に対する煮えたぎるような思いが脈打つのである。それは志田自身も無意味で醜いことであると分かっていた。「大学に行きたくても行けない人もいるのよ」そうやって分かりきった説教が記憶のどこからか聞こえてくる。「そういう問題じゃないんだよ」と毎度反発する心は苦しい。したくもない習い事を無理にやらされている児童の気持ちを齢十八で再び味わうことになるとは。本当にやめたければ止めればいい。もう僕は自由なはずなのに、なぜかその選択肢が取れない。
キャンパスの中を歩いていくとそこにはコンクリートと緑豊かな自然が相共存し、見る場所によってはそれがSFでよく見るような先進的な古代文明に近い混ざり方をしている。僻地。東京を自称するにはあまりに山の風土であった。しかし僕はこの環境自体は気に入っている。地元に近い落ち着き方なのだ。人混みは得意でない。鶯の鳴き声や虫の音が聞こえる。少し地元とは違う音程である。今日もいつもと変わらず朝八時に起きて二限の授業を受ける。同じクラスの人たちとはいくらか言葉を交わすが、それ以上は特に何もない。数人で固まって後ろの方に座るちゃんと「大学生している」者たちの視線を受けながら志田は前方に独立し、鷹揚と席を構える。やる気、自信ともに満ちたような位置取り。しかしながらこれは演技である。周囲に自らの寂しさを悟られないように、そのうえで自らの特別感を誇示するように繕っているのである。教授はそんな彼に好印象を抱き、期待を寄せるが、当の本人は講義とは全く関係のない思惟の世界に低回しているのである。
気づけば講義は終わっていた。十二時半、講義の前に言葉を交わした三人組から昼食の誘いがあったが志田は数秒の沈黙ののち、「ごめん、やめておく」ときっぱり断った。このような行いが人を孤独にしていくのだろうか。まあ間違いないようにも思われる。しかし一緒にいてもあまり楽しくなかったから仕方がない。以前共に食事をした時、所々で下品であったり粗野であったり無徳なように感じたのだ。席を立った者からは煙草のガラガラとした匂いが感じ取られた。会話の中心も誰かの悪口や卑猥な話、志田が心がけてきた真面目さとはかけ離れた世界であった。そのため面白くないことに向き合うことの面白さ、いわば終末論的な生き方を見出さない限り無理していくようなものでないと考えたのである。色んな人と知り合い、理解しあうことが大学、ひいてはユニバーシティの本懐なのだろうが、とても彼らの話や身の振る舞いはその訳の一つである普遍性から逸脱しているような気がする。このようにして自らがやりたくないことから逃げながら、否定しながら生きていくこと。彼は果たしてこれも正しいことであるのか甚だ疑問であり、心に一物を抱えたまま一人で学食へ向かった。
学食が充実しているのは彼の大学の良いところであった。学食専用の大きな建物は一階から四階まであり最も安い三階はいつも多くの人がいる。恐らくあの三人組もそこであろう。志田はその階を通り過ぎ、さらに上へ向かう。あまり知られていないうえに恐らく四階まで登るのが億劫なのだろうが、この階の海鮮丼は群を抜いて旨い。恐らく店側のこだわりで卸売りから仕入れているという噂を聞いた。なるほど、うまさのわりに安いことに納得する。初めて食べた時は思わず舌鼓を打った。小さな味噌汁も喜ばしかった。
窓際の席に腰を掛けた。山の見えるガラス張りの席である。そこで志田は無様にもガラスに永遠と頭を叩きつけている一匹の蜂の姿を見つけた。少しばかり気の早い蜂である。食欲がなくなる前に見るのをやめた。黙って食べ始めると、周りの喧騒が程よく聞こえる。だがそのたびに自分の半径2メートルの円内の音のない真空が際立つ。ああ、一緒に食べればよかったのかなあ。めんどくさい気持ちになる前に頭の中の賑やかな世界を探した。
そして志田は記憶に潜った。____
思い出すのは小学校六年生のころ。思春期、疾風怒濤の時代のはじまりだ。
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