第6話 退屈の人
彼の回顧は右後方から聞こえた「なにしてんの?」によって終わりを迎えた。もちろん彼に対してではない。知らない男が知らない女に向かって言ったのだ。 午後十二時五十八分、蜂はもう何処かへ行ってしまった。海鮮丼を完食し、少しだけ余ったわさびを覚悟を決めて口の中に放り込む。意外にいけるか?と唇を舐めたすぐあと、喉と鼻に衝撃が走る。刺激が脳天を衝き、鼻腔が震える。目が中央によって涙目になる。両手のこぶしを握り締め、天井を仰ぐ。そして綺麗な天井に不自然な黒いくすみを発見したとき、苦痛はなくなっていた。はあ、冷静になる。たった一人で、観客もなく、僕は何の劇を演じているのか。滑稽。狂言?客がいたとしてこれに何を感ずるべきか。愛すべき日常?日々の感受は芸術である?モノローグは真理なのだ?さあ、笑え笑え。
気だるそうに立ち上がって周りを見渡す。笑顔の者、無表情の者、どちらも散見されたが、その差は歴然であった。一人であるか一人でないかである。スマホを通じて一人でない者もいた。やはり孤独。人から笑顔を奪うもの。
学食のスペースから外に出る。よく澄んだ青い空。雲は寝起きの視界のように薄く、その形象をなんとか保っている。広い通路の奥のシルバーの手すりの地平より見える新緑の山々とそのさらに奥のビル群の遠近法に既視感を抱きながら彼は、思わず声に出していた。「つまらない人間になったなあ」思いのほか大きい声が出た。慌てて周りを見渡したが誰もいなかった。人とあまり話していないからだろう。発声の調節がわからなくなっていたのだ。息を強く吐く。責めるべきはいつだって自分であり、環境ではない。環境は自らの手でいくらでも変えられる。その仕方が敗走だろうと革命だろうと同じなのだ。動かないならせめて文句を言わずに受け入れろ。みっともなくなるな。停滞は悪だ。お前には愚痴る権利も理由もない…!そう彼は自身に言い聞かせる。軽く俯きながら大学のコンクリートの柱の間を抜けるそよ風に大げさに揺られ、彼は独り暮らしのアパートに帰っていった。豪快に右へ左へ曲がるものの恐ろしく平坦な道である。
僕は変わったのだろうか。変わったとしたら何が変わったのか。昔より疲れやすくなったかもしれない。そんな些細な事ならばいくらでも変わった。ならば何をもって変わったとするのか。それは、生き方の変化である。その良き例が小学校の時、あの小さかった男の子、安藤栄人である。
安藤栄人は現在、志田の志望した大学に通っているのだ。
古い記憶の中では、安藤栄人は宿題をめったにやらず、しばしば先生に怒られていた。しかし夏休みに入る最後の帰りの会で彼は突然手を挙げ、立ち上がり「僕は変わります!」とクラスの前で高らかに宣言した。クラスの全員が一斉に彼の方を見た。浅く噛みこんだ唇、力強さに震える瞳、小学生らしく握りこんだこぶしは下にのび、その覚悟が読み取れた。その言葉を本気にしたものは多くはなかった。ただそれは彼の発言を馬鹿にしているという意味ではなく、尊重しているからこそ彼自身が変わることを強制しない、クラスの思いやりであった。しかし多くの予想と反し、一か月後、彼は本当に変わった。まるで別人ともいえるような人間的成長があった。学力、態度、気遣い、主体性、掌握力等学校社会における重要能力が驚異的に上昇しており、傍目からでも彼以前と比べ強く優しく、余裕の見える人間になっているのが分かった。それにもかかわらず、不意に垣間見える不真面目時代の癖や習慣が彼を彼たらしめたうえで人間的なアクセントとして愛されるようになっていった。愛されるべき人間の誕生である。彼とは友人であったし、好きだったのだが、まるで不良の更生物語でも見ている気がして、彼の追い上げによる焦りと同時に嫉妬、不公平を感じていた。
負けず嫌いな僕は当時、人が変わることについて思案を巡らせた。そこで人間を粘土球にたとえた。人間の成長には二種類ある。一つは獲得する成長。もう一つは捨てることによる成長である。生意気にも授業ではほとんど使わないノートに二つの丸と文字を書き込んだ。はじめ子供のうちは僕たちは何もできないが、経験等を通じ、様々なことができるようになる。つまりまずは粘土をとにかく加えていく作業である。そこで粘土球は大きくなるがその形はぼこぼこで不安定である。ある程度の大きさを手に入れたら、二つ目の成長の段階に入る。ノートに矢印でその変遷を表す。それは整形だ。下線を引き、強調した。粘土の塊を美しい球体へと練りこみ、削り、整える作業である。短気な自分や傲慢な自分、落ち着きがない自分をそぎ落とし、極端な性質を平均的にまとめあげる。そうしてこれらの作業が繰り返されて出来上がるのが、大人である。この時は我ながら良い例えを思いついたと深くうなずいていたのを覚えている。しかしながら今現在、大学生になってみて思うとそうして出来上がるのは、単に一般人である。画一化された普通の人である。よって「退屈の人」である。そして、つまるところこの大学という場所は私にとってはその極みであったのだ。
昼に学校が終わる。全くもって学生は暇である。まあサークルに入っていないのは大きいかもしれない。遠慮のない太陽光の下を歩いていると、背中と腿辺りの汗腺が痺れたような感じがした。時間を持て余している志田にとっては帰りの道でさえ貴重な暇つぶしの時間であった。毎日通る道でも何かしら新しく、面白い景色に変わっている。
志田は脇道にある食堂で飼われている犬とその犬をスマホで撮影する一組のカップルを見た。指紋のように螺旋状で規則的な細かい蜘蛛の巣を見た。青空のきれいな水色に一層映えている駐車禁止の赤の円と斜線を見た。清少納言を現代に降ろしたかような価値観で今の彼は何もかもを詩的に見ようとしていたのだ。いとあわれなり。 ただ、すべて見るだけである。それ以上は関与しない。僕は現実から離れない。現実から逃げない。男が女の腰に手を回す意味も、蜘蛛の巣の数学的な解析も、夏が終わるまでに車の免許を取らねばならないことも現実の意識ではない。僕がこの世界の住人である限り僕は現実に居続ける。そしてそれは苦しみ続けることであると最近は思う。幸せな時、あるいは苦しみがない時、僕たちはきっとこの世界にいない。熱中や陶酔によって現実から分離される。スポーツ観戦や映画鑑賞、お祭り、恋愛。僕にはこれらは現実というより夢と表現するほうが適切なように思う。もしくはこれらはアルコールやドラッグと同じように依存する世界であると考える。したがって意識の有無にかかわらずこれらはすべて現実逃避である。すると、先ほど学食で見た笑顔の若者たち。彼らもまた依存関係にあり、現実から遊離している。
――なるほど、だから!孤独! 現実から分離できぬもの! 夢を見ることができないもの!依存することを許さぬもの!
∴現実=孤独=苦! あなや、いと憐れなりけり!
主体独自の解釈により論理は他者を寄せ付けないスピードで理解され文脈を飛んで議論は進む。 ここの道を通じていつも僕は自分の考え整理しているのだ。絶望遊び。この毎日の通学路は僕にとっての哲学の道であった。
彼は三階建てのアパートの一階に住んでいる。風のない部屋の中は体感的に外よりも蒸っぽいのだろう。彼は服の首を引っ張り伸ばし体を冷やすように息を吹きかけ、ドアの鍵を開け、室中へ入った。煩雑にリュックを下ろし、腰より低い小さな冷蔵庫の中のリットル牛乳をパックのまま飲んだ。今朝食べたコーンフレークに使って残った分である。家の中はおよそ六畳のスペースに茶色と肌色のパズル状のタイルが市松模様になるように敷き詰められ、プラスチック製の押し入れケースがベッドの下に三つ並び、冷蔵庫の上に電子レンジが、そのまた上には炊飯器が置かれ、小さなデスクに何故か大きなゲーミングチェアが部屋の隅に設置されている。入居してある程度の物をそろえるまでは整頓され、機能的な居住空間を作っていた。しかし床に散らばるプリントや積み重なる諸々の本、椅子にかかっている何枚もの服、水周りに見えるカビがその生活の堕落を表していた。自分以外にここに来るものなどいないだろう。それが彼の悲しい言い分であった。
テレビをつけた。NHKのニュース番組である。彼のように親元を離れて暮らしている者のNHKの通信料金が今年度から全額免除されるようになったらしく、彼はその恩恵を十分に受けていた。こういったときに世界が自分に都合よく回ってくれていると感じるのは彼の小中学校時代の名残である。朝に放送される爽やかなニュースとは違い、昼のニュースはある程度時事的な関心によっている。福島第一原発の処理水をめぐる中国の海産物輸入制限や某電力会社による燃料デブリの除去計画の大幅な遅れと問題、多極化する世界とサミット、首脳会談。一方で手元のスマホのSNSでニュースになるのは芸能人や政治家、世俗的な話題に対する批判もとい中傷、根拠のない憶測である。人が何をもってコメントを残し非難の応酬を繰り広げているかについて何も言うつもりはないし、間違いは間違いとして正されるべきなのであろう。また他人のイデオロギー等は容易に踏み入ってはいけないが、やはり少し悲しい思いがする。彼らの求める完璧は何なのだろうか。他者に対して確実な攻撃ができるほど自分のことを正しいなんて思えるのだろうか。窓から飛行機の姿が見えた。細く濃い雲を残している。東京の飛行機は近い。そう、飛行機にしてもそうだ。当たり前と失敗のリスクリターンがあまりにも見合っていない。当たり前という世界に蔓延する毒は、いかなる感動も衝撃も無に帰す。なぜマジシャンの成功はああも賞賛され、パイロットの着陸成功には皆すました顔なのか。いざ考えてみると不思議である。飛行機が遠くの景色に消えた。食後にゆっくりするこの時間は特にすることもない。歯磨きを済ませ、途中から学術書を読んだ。しばらくすると、やはりいつのまにか寝てしまっていた。
彼は夢を見ない。しかし代わりに彼が現れるのだ。
なるほど。ひとまず現状は理解した。
移植された意識が自由になるのは寝ているときだけである。
その上で、投げ出すほどの絶望もなければ何も希望がないわけでもない気はするが。それはまだ私が彼の芯を見ていないからか、それとも単にあいつが刺激を求めすぎていたのだろうな。でも確かにあいつはこいつのことが分かっているようだ。夢を見ない意識のある永眠とは言いえて妙である。まさに彼の人生こそ当たり前がインフレしてしまったのだろう。もうどこに楽しみの猶予があるというのか、最善はまだ世界に残っているのか?もうあの頃には戻れんぞ。ああ不安だろうなあ。一周目の人間の意識、青くて柔らかだ。もし彼が死んで私たちのような意識の生存者となったら、彼は何を思うのだろうなあ。まず恐ろしいだろう。実体も空間も感覚もない闇。呼吸という概念もないが息を吸えないことに意味もなく喘ぐ。心臓もないのに胸が痛む。ない目が回り、意識だけが一人忙しなく奔騰している。きっとそんなものだろう。もう忘れてしまった。そこで息絶えられたならどれほどよいか。そのあとは誰かの意識に入り込み、何もできないままで無限の時間をつぶす。はっきり言って地獄だよ。私たちはもう現実に関与できない、ただの傍観者である!ああ神よ、一体何の意味をもって我々を生み出したのか。生きるって何なのだろうな。この世界に来て初めてそれを考える権利を持つのだろう。今や私は開き直って笑っている。いや、これは同情を誘う欺瞞である。さあどっちだろう。誰がこの機微を見ていてくれるのだろう。記号として表示されることのない私の無意味な機微!どれほど内部に混沌があろうが生成が行われようが傍観者は一方的だ!私を見てくれるものなどいない。君にわかるかね、これが孤独というものだよ!
スマホが鳴った。驚くようにして志田は目を覚ます。呼吸はやけに早い。軽い頭痛がある。勢いのままスマホをとって開くと、それは井沼寛人からの電話であった。
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