指圧攻
優月ちさと
捨て身の攻撃で入れる一発は癒し⁉
「あっちに逃げろ。」
「押すなって。」
「まずい、来てるぞ。」
逃げ惑う人々の声。
「痛たた。」
「大丈夫かよ。うわ、傷が深いな。」
「つー。救護隊早く来いよ。」
怪我をした味方の声。
「撃て。」
団長の冷静に指示を出す声。
その声を合図に邪物討伐軍隊の隊員は次々に目の前の怪物、邪物に発砲していく。周りの民家は邪物によって壊され、どこかの家から上がった炎が町を包み混乱が激しくなる。
「早く邪物を倒すんだ。これ以上被害が広がったら大変だ。」
団長の言っていることはもっともだ。このまま邪物に好き放題させたらこの町は跡形もなくなってしまう。それなのに、引き金を引けない。撃つんだ、早く、引き金を引くだけだ。気持ちばかりが焦っていく。
「ぐががががが。」
味方の打った球が急所に直撃したのだろう。邪物はうめき声をあげながら身をよじる。それと同時に
「ぴしゃ。」
邪物の巨大な体から滝の様に血が溢れ出した。訓練によって鍛え上げられた足がかくんと膝から崩れ落ちた。ダメだ。市民たちの悲鳴と銃声が鳴り響き、木の燃えた匂いと煙があたりに充満する。混沌した現場の中で一人腰を抜かし戦闘不能となった僕のことを、しばらく誰にも気に留めなかった。
「誰かと思ったらユウか。何してんだお前!」
どのくらいへたり込んでいたんだろう。気がつけば団長が横に立っていて、屈強な腕でいとも簡単に僕を立たせていた。
「どうした?入隊して常に成績トップのお前が何故座り込んでる。」
何故って。見ていると胸が締め付けられるから。この状況から目を背けたいから。
邪物からの攻撃によって沢山のものが破壊されていく。物理的に精神的に傷つく町の人々や味方を見たくない。そして自分たちの攻撃によって傷つき、血を流しながらもがく邪物を見たくない。町の人々も味方も邪物も誰も傷付いてほしくない。
そこではっとした。なんで、僕は邪物に同情している。人々の生活を脅かす邪物に同情なんてしてはダメだ。自分の考えを振り払おうとすると、邪物の叫び声が聞こえた。
「くぐ、ああああ。」
さっきよりも声が掠れて勢いもない。しんどそう。かわいそう。なんで、なんで同情なんてするんだ。あいつは倒さなくてはいけない脅威な存在なのに。
「俯いてないで答えろ!」
軍から支給された迷彩柄のズボンを見ていたら何が何だかわからなくて目が回ってくる。
「見ているのが、辛いんです。」
「あ?ここは邪物との戦場だからな。そう言う考えを持つのはいいがお前は軍隊の人間だろ。しっかりしろ。」
そうだ。僕は邪物討伐軍隊の隊員。それなのに、
「町の人も味方も邪物も、みんなが傷付いているのが嫌なんです。」
「何言ってんだお前。」
抑揚のない凍った声で団長はそう言うと、襟首を掴んでいた手をパッと離した。抵抗することなくそのままストンと地面に落ちた僕を軽蔑に満ちた目で見つめる。
「今なんて言った。邪物に対して感情を持つな。馬鹿なのか。何故あんな忌々しい存在に感情移入する。」
周りの煙を吸ったせいかまた目が回ってきた。団長の声がどんどん遠ざかって、周りの騒音と化す。意識が途切れたそうになった時、また強い力に上へと引っ張り上げられた。
「見ろ。もうすぐ邪物が跡形もなく消えるぞ。あれは市民の日常を奪ったんだ。当然だ。」
無理やり見せられた光景は、そこに人が住んでいたとは思えない光景だった。瓦礫になった家屋に、混乱の中で起きた火事の影響で燃え尽きた町の人々がお祭りを楽しんだ神社。町のシンボルだったこの町出身の学者の石像は無惨にも腰から上がなくなっていた。
そしてそれらの中心にいるのが、憎悪の具現化、邪物。邪物の体は血まみれで、今も滝のように血を流している。それなのにこちらに向かって子供の高さほどある手を伸ばしてきた。
「パン!」
乾いた銃の音がやたらと大きく感じた。弾は邪物の手のひらの真ん中に直撃し、次の瞬間洪水のように血がドバドバと流れ始めた。ああ、見ていられない。
次の瞬間、僕は脱兎の如く駆け出した。あんなに力が入らなかったのに、襟首を掴む団長の逞しい腕の力に負けず、宛先もないまま駆け出す。
いや、逃げたんだ。残酷で、いるだけで息が詰まる場所から。
団長と仲間の声に耳を貸さずに町を飛び出し、行き先も決めずにただ真っ直ぐ走り続けた。草原を抜け、いつのまにか景色は荒れ果てた地へと移り変わる。草がまばらに生え、枯れ葉を落とすヒョロリとした木が所々に生えている。
軍隊の訓練で丹念に鍛え上げられた体が悲鳴を上げ始めた。前へ前へと忙しく進めていた足を止め、ゆっくりと歩くことにする。
冷たく心地いい秋の風と土の香りが僕を現実へと引き戻す。これからどうしよう。今自分がどこにいるのかも分からないし、軍隊のキャンプに私物は全て置いて来てしまったから一文無しだ。それに軍から逃げ出してしまったが邪物討伐から逃げることはできない。義務だから。どこからか色褪せた枯れ葉が左頬をかすめる。思わず左手で左頬を抑えた。
僕の住む国は十年ほど前からある怪物の存在に脅かされてきた。その怪物こそ邪物。巨大な人間の形をしていて中町に突如として現れ、人々を襲い家屋を壊し、日常を奪っていく。そしてひとしきり暴れた後、体が光に包まれて跡形もなく消える謎多き怪物だ。
邪物の対処に追われた政府はある政策を打ち出した。
『十八歳から二十四歳の男性は二年間邪物討伐に出ること。女性の参加は任意。邪物討伐の方法は二つ。一つ。政府直属の邪物討伐軍隊に入隊し活動する事。二つ、自身で邪物討伐パーティーを組む事。』
十八歳になった日、僕は法律にのっとり軍隊に入隊して、飛び級に飛び級を重ね今日初めての邪物討伐に出た。そして思い知った。自分が今まで夢見描いていた邪物討伐はおとぎ話だったのだと。人から聞いた話も軍隊で行ったシュミレーションも、全て本物の討伐ではなかった。本物はもっと見るに堪えない地獄のようなところだった。
考えていたら痛々しい邪物の様子がフラッシュバックする。ものすごい勢いで流れ出す血を思い出して身がすくんだ。
「自分で邪物討伐パーティーを組むしかないな。」
幼いころからの癖で無意識のうちに左頬をさすっていたようだ。軍隊の訓練で出来た手のマメのせいで頬がひりひりする。
「また戦わなくちゃいけないのかな。」
もうあんなの見たくない。あんな戦い方したくない。
それなら、自分も味方も邪物でさえも傷つかない戦い方をするパーティーを結成しよう。
そこまで考えて馬鹿らしくなった。そんなこと出来るわけない。相手は狂暴な怪物だ。でも、もしもそんな方法があるなら、その方法で戦いたい。
僕はまだ若い。二十四歳になるまで邪物を傷つけずに戦う方法を探そう。見つかったらその方法で邪物討伐をして、見つからなかったらまた軍隊に入って、なんとか魔のような二年間を過ごせばいい。そうだ、そうしよう。
自分の心がすっきりとした。そうと決まればまずは町を見つけよう。そこから故郷の町に帰る道すがら、情報収集をすればいい。この国は広い。色んな文化の人が住んでいて、魔法使いだっている。もしかしたら魔法使いは何か知っているかもしれない。希望がどんどん生まれていく。大丈夫だ。
あれからとにかく歩いて、歩いて。町の明かりが見えた時は心の底からほっとした。まあ、一文無しを受け入れてくれる人がいるかは分からないが。明かりに向かって歩いていけば、そこは田畑の広がる大きな集落だった。周りの家の窓からは光が漏れていて、暖かな声が聞こえてくる。その中でも一番話し声が賑やかな家の前に立った。
「すみません。」
ざらついた戸を叩くと暫くして細身の少女が顔を出した。
「はい。どちら様ですか?」
中からふわりと香って来る食事の香りが鼻をくすぐる。
「旅の途中でちょっと困ってまして。一泊させていただけませんか?お金は持っていないので、お礼に何でもします。」
「少々お待ちください。」
彼女はそれだけ言うと中へ引っ込んでしまった。待っているとそれまでの賑やかな声が途切れ、男の罵声が聞こえてきた。やっぱり図々しいお願いだったか。
「あ、あの。ごめんなさい。他を当たってください。」
予想通り断られたので大人しく立ち去る。他の家に当たっても同じだよな。ふらふらとした足取りで仕方なくそこら辺に座りこんだ。目の前の畑に生えた生の野菜でさえおいしそうに感じてしまう。
「困ったな。」
一人うなだれていると向こう側からたたたっと走る音が聞こえてきた。
「あ、あの。もしよかったら食べませんか?」
顔を上げると先ほどの少女が風呂敷片手に走って来て、転がっていた石につまずいた。
「あっ。」
「平気⁉」
駆け寄って手を差し出すと彼女は苦笑いしてから一人で立ち上がった。
「大丈夫です。それより、これを。」
差し出された風呂敷の中にはおにぎりが二つとたくあんに卵焼きが入っていた。
「残り物で急いで用意したのでこれくらいしかありませんけど。どうぞ。」
それだけ言って家へ戻ろうとする彼女を引き留める。彼女の手首は今にもぽきりと折れそうなほどに頼りなかった。
「待って。ありがとう。」
「いえ。」
「家の人に何か言われなかった?」
聞こえてきた罵声からするに彼女は独断で僕のために動いてくれたのだろう。
「家畜の様子を見に行くと伝えて出てきたので何も。」
「そうか。ありがとう。」
彼女の手を放してから少し考えて口を開いた。
「少し話さない?」
彼女は目を左右に泳がせてから小さく頷いた。
「家に戻るには少し早いので。」
ベンチに座っておにぎりをほおばる。つやつやのお米に巻かれた黒々としたノリ。
「あの、邪物討伐軍隊の方ですよね?」
お米をのどに詰まらせた。なんでわかったんだ⁉
「な、なんで?」
むせながら聞くと彼女は首を傾げた。
「その服、邪物討伐軍隊のものですよね?」
そっか、そのまま逃げてきたんだ。服も軍隊の支給品のままだ。
「近くで邪物が出たんですか?」
「いや。まあ、そうだね。」
「大したものではないですが、食べていただけて良かったです。討伐軍隊の方なら無碍には出来ませんから。」
彼女の目は尊敬で満ち溢れている。ああ、誤解している。僕は、軍隊から逃げた身なのに。
口に運ぼうとしていた卵焼きを戻す。本当のことを言おう。こんなにキラキラした目に嘘は付けない。
「ごめん。僕は邪物討伐軍隊から逃げた身なんだ。それなのに君の食事を食べてしまった。」
「え。」
血色のないきょとんとした顔でこちらを見る彼女に増々罪悪感が湧く。
「味方だけじゃなく、討伐対象の邪物が傷ついているのを見るのが嫌で逃げてきた。」
あんなに輝いていた彼女の目は一瞬にして曇った。
「邪物を傷つけたくないんですか。」
「うん。そう思っちゃたんだよ。変だろうけど。」
「変とは言いませんよ。そう言う考えを持つ方は他にもいらっしゃいますし。」
「え、その人は誰?」
身を乗り出す僕から距離を取りつつ彼女は淡々とした口調で続けた。
「隣町に住むメイさんと言う方が『指圧攻』と言う攻撃法を提唱しています。メイさんは女性ながら、邪物と戦う方法を見つけた方なんです。」
「攻撃法?」
「攻撃と言っても邪物を癒すことで邪物を討伐するんだそうです。」
「そっか。そっかあ。」
同じ考えの人がいて、更には邪物を傷つけずに戦う方法まで見つかった。明日にはこの町を出てその人の所へ行こう。何て幸先がいいんだろう。
「明日にでもその人に会いに行くよ。指圧攻なんて初めて聞いた。良く知ってるね。」
浮きだった顔で彼女に目を向けると、彼女の目は曇っているどころか覇気がなくなっていた。
「以前この町にメイさんが弟子を探しに来たんです。その時に私も声を掛けていただきました。」
「そうだったんだ。」
僕は何も考えず、それなら明日にでも一緒にメイさんの元へいこうよ、そう声を掛けようと思った。
「ただ、私は邪物を癒すということが理解出来ません。」
彼女は膝の上で、震えるあかぎれまみれの両手を握り締める。
「私は、邪物によって両親を亡くしました。住んでいた町も、家族も家も全部邪物が一瞬にして奪って行った。奪われた後の日々も過酷で、子供の私には生きているので精一杯。だから、邪物が傷つかない戦い方をするだなんて考えられません。」
世の中のほとんどの人は彼女と同じ考えだろう。僕は邪物に何かを壊されたことがない。だから、邪物討伐に夢を見ていたし、現実を知って逃げ出した。
「みんなが苦しんだように邪物も苦しめばいい。ずっとそう思ってきました。」
「それは自然な感情なんじゃないかな。無理に理解する必要はないよ。」
なるべく優しく聞こえるように声を調節する。すると彼女は突然、夢を口にした。
「私には一つ夢があって。それが邪物討伐に参加して邪物のいない世界を作ることでした。子供たちに私のような幼少期を過ごしてほしくないから。ただそれは無理な話だったんです。」
「なんで?」
「だって私は女性で、更には秀でているところがないから。さっきも石につまずいただけで転びましたし。」
確かに目の前の彼女は今にも風に吹き飛ばされてしまいそうだ。
「色んな人に手紙を出したんです。私を邪物討伐に参加させてくださいと。でもどれも断られました。女性は必要ないって。」
目を伏せた彼女の表情は月明かりによく映える。目を離したら今にも消えてしまいそうだ。
「そんな私に初めて邪物討伐に出たらどうかと声を掛けてくださったのがメイさんでした。私にしかできない役割があるって言って下さって。嬉しかった。とっても嬉しかったけれど、メイさんの考え方には納得しきれない。でも邪物討伐に参加する夢をあきらめきれない。考えていたら埒があかなくて。それでお返事を伸ばして今に至るんです。」
「そっか。」
つまり彼女は板挟み状態なのだ。邪物討伐に参加できる代わりに憎い邪物を癒さなくてはいけない。
君はどうしたいの?なんて聞くのは愚問だろう。彼女はそれをずっと悩んでいるんだから。それなら。
「僕と一緒に来てよ。」
「え?」
「どうしたらいいのか分からないなら、一旦動いてみようよ。君は僕と一緒に一旦、メイさんに会いに行く。それで一旦、メイさんの元で頑張って、行けそうだったら一旦、邪物討伐に参加してみる。どう?」
一旦の部分を何度も何度も強調した。
「一旦。」
「そう。それで君がやっぱり合わないと思ったら新しい道を探したっていい。ここに戻ったっていい。ただその時は僕が責任をもって君を君の次の目的地まで連れていくよ。だって誘ったのは僕だからね。」
「本当、ですか?」
僕を見る瞳は揺れている。その揺らぎを抑えたくて、僕はしっかりと彼女の目を見つめた。
「うん。絶対に。約束する。だから一緒に行こう。君とはいい友達になれそうだしね。」
「友達なんて久々。」
彼女はくすぐったそうに呟くと目線を上げた。
「行きます。一旦、行ってみます。あなたと。」
彼女は僕の目を真っすぐ見つめる。その瞳には揺らぎのかけらもなかった。
「明日の朝、また来ます。」
彼女は頭を下げて家へと戻る。
「待って。名前。僕はユウ。君は?」
「私は、アオイです。」
クルリと振り返った彼女の顔をさっきと同じ様に月明かりが照らす。ただ一つ違ったのは、彼女の今にも消えてしまいそうな雰囲気はなくなり、彼女自身の存在が暗闇の中で光り輝いて見えた。
「ユウさん、私はいつでも出発できます。」
朝日が昇り始めたころ、アオイが僕を起こしに来た。手にはメイさんが経営している道場への地図が握られている。
「本当?家の人は何も言わなかった?」
アオイは自分の家を見て寂しげにつぶやいた。
「勝手にしろと言われました。」
「そっか。」
アオイの両親は邪物によって亡くなったと聞いた。あの家族は親戚かはたまた里親か。とにかくアオイとの仲が良好でないのは昨日の会話からよく分かった。
「じゃあ行こう。一緒にね。」
アオイの気分が少しでも晴れるように声色を上げてみる。
「はい。行きましょう。」
隣町へ最短で行くには険しい山道を通らなくてはならない。険しいと言っても大丈夫だろうと思っていたが、今このルートを選んだことを後悔している。僕はいいのだ。元々運動神経もいいし体力もある。加えて軍隊で鍛え上げられた体。こんな山道サクサク登れてしまう。変わってアオイはと言うと先ほどから危なっかしい。木の根に足を取られ、そこらに落ちていた石ころでつまずきかけ、急斜面で勢いよく転び、挙句の果てには何にもないところで自分の右足に左足が引っかかり地面に手をついた。
「うう。ただの足手まといですね。ごめんなさい。」
一度休憩しようと提案して岩の上に座ると、アオイが口を開いた。
「大丈夫だよ。一緒に行くんだから。」
よく考えたら町娘が歩くには険しい山道は厳しすぎただろう。自分がやすやすと歩みを進められているのは軍隊の施設で長時間トレーニングにいそしんできたからだ。
「そろそろ行こうか。」
差し出したごつごつした手を取ろうとアオイが腕を伸ばした時、服の袖で見えていなかった傷跡が見えた。
「ヒイ。」
情けない声を上げた僕をアオイは丸い目で見つめる。
「どうしたんですか?」
「いや、その傷は?」
「ああ、今日、牛の世話をしていたらいつの間にか出来てました。」
僕は左手で頬を抑えながら、傷跡をさするアオイから目を逸らした。
「だって血が、出てるじゃないか。」
「止血しましたし大丈夫ですよ。これくらい。」
なんてことないようにそう言ってからアオイはさっと顔を曇らせた。
「それとも私の腕、そんなに醜いですか?」
違う。そんなんじゃない。
「僕は、血が苦手なんだ。だからこんな反応してしまって。」
血が、苦手だ。小さい頃から。少量の血を見ただけで身震いがするほど。だからあの日、邪物から痛々しいほどの大量の血が流れているのを見た時、足の力が抜けて立っていられなかった。
「血が苦手。」
アオイが復唱するものだから我ながら情けなくなる。
「私は怖い人が苦手です。」
「え?」
「苦手の言い合いっこです。」
ふふっと笑ってからアオイは僕の手を取る。
「苦手なものがあってもいいんじゃないですか。」
そのまま自分の力で立ち上がった。
「血が苦手なことを恥ずかしく思う必要はないです。」
「そうかな。」
「早くメイさんの所へ行きましょう。メイさんから、指圧攻は相手を傷つけない、血を流させないと伺いました。お優しいユウさんにぴったりです。」
アオイの温かい言葉で締め付けられていた胸が軽くなる。苦手があってもいい。少なくとも彼女に隠す必要はなかったんだ。
「ありがとう。行こう。」
「隣町のアオイと申します。以前メイさんに声を掛けていただいた者です。」
薄汚れたエプロンの裾を握ったり離したりしながらアオイが門番に伝えると、彼は大きく頷いた。
「アオイさんですか。話は聞いています。で、君は?」
「彼女から指圧攻について聞いて興味が出たので来ました。」
「そうか。少々お待ちください。」
メイさんの道場は思ったよりも立派な作りだった。高い塀に囲まれ、見事な彫刻が施された木製の門。その先に広がる土地。建物も目移りしてしまうほどどれも見事な作りをしていた。
「なんだかすごい場所に来ちゃいましたね。」
アオイも雰囲気に押し負けたのかポツリと呟く。
「そうだね。でも門番はアオイのことを知っていたから、すぐに話が通るかもしれない。」
僕の考え通り門番はすぐ戻って来て、僕らは広い畳の間に通された。
「待っていたよ。アオイ。そして君がアオイの友人か。」
「はい。ユウと言います。」
「うむ。私はメイ。指圧攻の提唱者だ。ユウ、君は服装によると軍隊出身のようだね。」
「はい。色々あって逃げてきました。」
「そうか。なに、詮索はするまい。」
メイさんは切れ長の目で見定めるように僕のことを眺めてから手を叩いた。
「アオイ、君は以前も言ったようにキャンパーの素質がある。キャンパーは皆の食事の世話や寝床を確保する役割だ。さ、姉弟子とともに学んでくるがいい。」
「えっと。」
アオイが答える隙もなく、わらわらと袴を着た姉弟子たちが部屋に入って来たと思ったら、アオイをぐるりと取り囲む。
「大丈夫よ。私達と一緒に修行しましょうね。」
「さ、何でも聞いて。」
次々に話しかけ、アオイの手を引いて部屋から連れ出す。
「あ、あの。ユウさん、またお会いしましょうね。」
アオイが声を上ずらせながらも最後に一言声を掛けた。
「うん。また。」
そんな僕たちの様子をほほえましそうに見つめてから姉弟子たちはふすまをしめる。
「では、君の実力を見るとしようか。」
メイさんは腰まである長い髪を赤いひもで一本に結ぶ。それからさっと目を細めると攻撃の型をとった。
「お手並み拝見だ。」
瞬く間に間合いを詰められて、顔の前にメイさんの拳がくる。僕は避けるためサッとしゃがみ込んでそのまま左へ移動した。動きに合わせてメイさんの右足が僕の横へ躍り出る。逃げ道を塞ぐつもりだ。それなら、勢いよくジャンプして後退する。こちらへと大きく足を踏み出したメイさんの行動を見届けてから、右へ足を進める。メイさんは足をグッと踏ん張って僕のいる方へ方向転換した。
「なかなかいい動きだな。」
僕に向かってメイさんの健康的に日焼けした細い腕が伸びてくる。左手を掴まれる、慌てて腕を上げた。
「残念。狙ったのはこっちだ。」
次の瞬間、不敵な笑みを浮かべたメイさんに右手を掴まれた。近くにある左手を掴むと見せかけて、遠い位置の右手を掴む。予想外の動きに動揺したが、体は無意識に逃げるために動き始めた。
メイさんに掴まれた右手を勢いよく下へ振り、次は上へと振り上げる。そのまま腕を捻って力ずくで右手を引き抜いた。急いで腕を背中の後ろで組み、後ろへジャンプする。
「ふむ。なかなかだね。」
メイさんは戦闘体制から凛とした立ち姿に戻ると口を開いた。
「君は軍隊では成績はトップだった。違うか?」
「はい。入隊して半年で飛び級して現場に出ました。」
「軍隊にいた経験を持つ者でも君ほど秀でている者は珍しい。元々身体能力が高いんだろう。」
確かに幼い頃から体を動かすことは得意だ。
「少し早いかもしれないが、エイと対峙してもらおう。エイ、入ってこい。」
スパンと音を立ててふすまが開く。そこには僕と同い年位の凛々しい青年が立っていた。
「エイ、彼の相手をしろ。」
返事をする代わりにエイは攻めの型を取る。そして次の瞬間、視界から、消えた。いない。さっきまで目の前にいたのに。どこに行った。首を左右に振ってエイを探す。
「ここだ。」
耳元でトーンのない地を這うような声が聞こえた。嘘だろ。いつの間に回り込まれた。振り返ればエイはもう後ろにはいない。次は、どこ。背後を確認してから右に左に視線を動かす。いない。見落とした?もう一度目を走らせる。いない、どこにいる。
「視野が狭いな。」
またあの声だ。次は、真上。バッと顔を上げれば天井に張り付いたエイの姿があった。
「いつから。」
「お前の背後に回り込んでからずっとここにいた。」
どうやれば天井に張り付けるんだよ。
「まあいい。実力は分かった。」
天井から舞い降りたと思ったら、またもや視界から消える。足が速すぎて目視出来ないのか。目で追うことが無理なら、音を頼りにすればいい。あんなに移動しているんだ。足音が聞こえて当然。そこまで考えてから耳を澄ましてエイの足音を聞き取ろうとする。
嘘だろ。足音が聞こえない。本当に移動しているのか。またどこかに隠れているんじゃ。上を仰いで天井を探してもエイはいない。この部屋は何もないから隠れる場所もない。それなら、どこにいる。どこにいるんだ。エイの姿を目視で確認できない、足音も聞こえない。どうやって戦えばいいんだ。
「ひゅん。」
顔の左側に風が吹いたと思ったらごつごつとした拳が顔の横に付き出されていた。
「避ける素振りなし。俺の攻撃に反応できなかったか。」
その通りだ。エイを探すことに集中して攻撃が来ることを忘れていた。しかし反省している場合ではない。この突き出された拳は、起死回生のチャンスだ。
エイの手首に向かって手を伸ばす。エイの反応が遅ければやすやすとつかめる位置にいたはずだった。
「つかめると思ったか。」
僕の手は空を切った。でもまだあきらめない。流石にまだ後ろにいるはずだ。そう確信して振り返ったのにエイはどこにもいなかった。まただ。天井、右、左、背後。いない。その時微かに息をする音が聞こえた。近くにいる。それも真後ろだ。すぐさま振り返れば、読み通りエイはそこにいた。僕が振り返ったことが予想外だったのだろう。エイは整った眉毛をピクリと上げる。一度体制を整えようと思ったのだろう。身を引こうとするエイの腕を全力でつかむ。筋肉質な腕が僕の手から逃げようとして更に太くなる。
「逃がさない。」
「出来るものならそうしてみろ。」
顔の筋肉一つ動かさず精悍な顔立ちがそう告げた途端、
「危ない。」
空いている方の手で顔を狙われた。思わず頭を下げたと同時に、捕まえていた手の力が弱くなる。チャンスを逃がさずエイは僕の手から腕を引き抜いた。まずい。両手がフリーになったらまた始まりに戻る。熱くなる僕の顔の横に涼しい風が吹き抜けた。エイの攻撃をまともに受けることは防げた。
「これくらいでいいか。」
「うむ。」
大きく頷いたメイさんを見てからエイはさっさと部屋を出て行く。
「勘違いすんな。お前は俺の攻撃を避けられたんじゃない。二発ともわざと外した。」
そうだとしたら、エイは何て強いんだろう。目では追いきれない速さ、音によって居場所を教えない徹底ぶり、相手への意識操作、攻撃威力。どこをとっても僕は足元にも及ばなかった。
「君の実力は我が学び舎の中では中の下、くらいだろう。」
元々運動能力が高いのに。軍隊でもあんなに鍛えたのに。軍隊では成績トップだったのに。今まで積み上げてきた自信が崩れていく。
「エイは私の息子でね。ここでは一番強い。よく渡り合ったよ。」
メイさんの言葉が右から左へと流れていく。褒められているのは分かる。ただ自分の中の自信はすべて失った。
「落ち込む必要はない。ここでしっかりと一から学べばいい。」
ここで一から……気が遠くなる。それでも邪物を傷つけずに邪物討伐をするためにはここで学ぶしかないのだ。ここでまた少しずつ自信をつけて、その自信を積み上げて確固たるものにすればいい。
「はい。よろしくお願いします。」
軍隊の訓練によって立派になったと思い込んでいた背中を伸ばしてからメイさんに向かって一礼した。
ここでの修業は主に五つ。
一つ目は体力づくり。邪物と戦うためには必要なことだ。これは軍隊と同じ。ただやり方がまるで違う。
「ユウ。もっとスピード上げるんだ。」
「はい。」
進路をふさぐ腰まである大きな石を飛び越える。
ここは周辺の山を上手く利用してメイさんが作った体力促進訓練道。訓練道の距離はそこそこ長く、体力を消費する上に、山の中だからこその独特な地形に木や大きな石が障害となりなかなか厄介だ。これをもたもたせず一定の速さで走りながらクリアしなくてはいけない。コースは「その五」まであるらしいが、僕は「その一」をクリアするだけでも精一杯だった。
「岩をよけるためにジャンプするのはいいが一回のジャンプが高すぎる。余計な体力を消費するな。自分の体力の限界を考えながら動け。」
自分の体力の限界。そんなこと考えたことなかった。だって、体力の限界が来たことなんて一度もなかったから。だけど、今は呼吸しようとするだけでわき腹が痛くなる。この修行のお陰で初めて自分の体力の限界を知った。
二つめは指圧について学ぶ修行だ。邪物を倒す指圧攻を学ぶ前にまず指圧の基礎を学ぶことが大切だという。これは座学で兄弟子たちに教え込まれたことをしっかりと頭に叩き込めばなんとかなる。いつも僕に教えてくれるのは兄弟子のヨシさんだ。
「指圧は人体の皮膚の上から人の手と指で様々な技法を用いて治療を行うことだ。」
なんとなくイメージはつく。小さな頃祖父母の肩を揉んでいた。
「指圧を行うと血行が良くなり神経機能も良好になる。そうすると痛みやコリ、痺れの症状がなくなるんだ。更に神経機能が生き返ったり、内臓と皮膚の関係によって臓器の動きまでもが活発になる。どうだ?凄いだろ!」
熱血系のヨシさんは目がこぼれ落ちそうなほどに大きく目を開けて熱弁する。
「ヨシくん熱くなりすぎない。つまりは指圧をすることによって体の異常がなくなるんだよ。有名なのはコリとかだけど、他にも体の内部まで直ると言われているものもある。もちろん薬と比べれば出来ることは限られるけどね。」
ヨシさんの熱気を収めながら説明するのはもう一人の兄弟子ガクさんだ。
「体内には経路という内臓や筋肉、皮膚に働きかけるルートが通っているんだ。」
ほら、とガクさんが指差した先には人間の身体中に線が引かれた謎の図があった。
「これが経路図。そしてその経路上にある点、経穴がいわゆるツボに当たるんだ。経穴の図もあるよ。」
そう言って次に指し示した、古びて黄色く変色し始めた図には、人間の体にポツポツと点が打たれている。
「基本的にこの症状にはこのツボ!という決まりがある!それを覚えておくこと。更にツボの押し方にもコツがある。力の加え方、手を使うのか、指を使うのか。指を使うのならどの型を使うのか。初めのうちは覚えることがたくさんで混乱するかもしれないが大丈夫。全ては慣れ!実践経験をたくさん詰め!」
その日から僕の指圧への勉強が始まった。学んでみればものすごく深いものでどこまで学んでも新しい発見がある。頭を使うのは好きじゃなかったけど、これなら学べる気がした。
三つ目の修行は指圧の実践。これは簡単な話で指圧を兄弟子に施す。それだけだ。毎回ダメ出しをくらうがこれも指圧攻のためだ。もっと上手く出来るようになればメイさんの開いている指圧屋に見習いとして出してもらえるらしいので日々精進している。
四つ目は大本命、指圧攻について学ぶ。指圧攻はメイさん直々に修行の時間を取ってもらった。
「では『指圧攻』の説明をしよう。」
メイさんは純白の袴を翻して部屋の中を大股で歩き始めた。
「『指圧攻』は指圧を攻撃にした、邪物に特化した戦い方のことだ。戦い方と言っても、血を流したりと残酷なことはなしない。そこが政府の討伐と違う一つ目の点だ。」
メイさんは足を止めて僕に向き直る。
「君は何故邪物が生まれるか知っているか。」
「いえ。突然町に現れるとしか。」
「邪物は体に不調を抱えた人間の魂から生まれた生き物だ。」
「人間の魂?」
あんな強大な邪物が元々は人間の魂ってどういうことなんだ。
「そうだ。そして邪物を生んだ人間には皆、体に不調を抱えていたという共通点がある。」
「不調って例えばどんなものですか?」
「肩こり、腰痛、胃痙攣、肝臓が弱い、全て医者にかかるほどではないと先延ばしにされる不調だ。ただし放っておくと更に他の不調を招いたり、精神的に不安定になったり、生活することもままならない状況になることもある。そしてそんな人たちの魂を狙い邪物を生み出す輩がいる。そいつの名前はネン。奴は不調による苦しみを取り除いてあげると言って人々にすり寄り、結局魂ごと奪って、その魂から魔法で邪物を作り出す。目的は分からないが十年程前から活動している謎の多い人物だ。」
全て初めて聞く話だった。軍隊じゃ、習わなかった。邪物は突然現れて、現れる理由は不明と教えられたのに。
「その顔だと軍隊では習わなかったようだな。」
「はい。」
「政府はこの事実を認めていないからな。」
「それはどうして。」
「いろいろと都合が悪いからだ。その色々について今から話すよ。」
メイさんは無駄な所作なく懐から巻物を取り出すとさらさらと畳の上に広げた。
「ネンは人間の魂を取ると言ったね。魂を取られた人間はそのまま失神状態となる。何故失神状態になるかと言うと、魂がまだこの世に存在しているからだ。」
メイさんは巻物に描かれた絵を指さす。そこには澄んだ青色の絵の具で球体が描かれていた。
「魂の家は人間の体だ。ユウの魂の家はユウの体だし、私の魂の家は私の体だ。更に言えばユウはユウの魂の家主でもある。魂には家主への忠誠心があるとされている。つまり魂がこの世で生きている限り、魂は家主の元に戻ろうと、行動は起こせなくとも信念は持ち続ける。だから魂は勝手には消えない。よって人間も失神状態にありつつも生きていることができる。」
そこまで言うとメイさんは眉間にしわを寄せた。
「ただし、魂と言うものはもろい。外部からの攻撃にすぐ影響されてしまう。その弱さは本来の持ち主から離れたら更に加速する。つまり人間の体から出た魂はちょっとした影響ですぐにばらばらに壊れてしまうんだ。そんな今にも壊れそうな魂を使って邪物は作られる。」
ガラスの様に粉々になった魂の絵をメイさんは一なですると目を細めた。
「軍隊では邪物をどう倒した?」
「銃でひたすら打ち続けていました。」
「それは今にも割れてしまいそうなガラスを割ろうとしていることと同じだ。」
冷え切った部屋の中で僕の息をのむ音だけが聞こえる。
「軍隊の攻撃方法では邪物を苦しめている。つまり魂を傷つけているという事。弱った魂はこの絵の様に壊れる。そして魂の持ち主も魂がなくなったことで邪物とともにこの世から消える。両者とも跡形もなくな。」
だから毎回必ず一人は行方不明者が出ていたのか。
「分かっただろう。軍隊の攻撃方法では罪なき人間が犠牲になっていると。」
「はい。」
僕が出た現場でもこんな風に魂が壊れて、この世から跡形もなく消えた人がいたということだ。無力感が一気に押し寄せる。
「だが、指圧攻は違う。」
メイさんは一重の目を光らせて、もう一つの巻物を取り出した。
「我々の指圧攻では魂を取られた人間の体の不調に合った指圧を邪物に施す。指圧によって癒された邪物は問題の部分だけ取り除かれたお陰で暴走しなくなる。暴れる意味を失った邪物は役目を終え、ひとりでに消え去り、残った魂は自動的に家主の元へ戻る。」
巻物の絵とともに説明をしながらメイさんは誇らしげに唇を持ち上げた。
「この方法なら失神状態だった人間も元に戻り、今まで通り生活ができる。邪物も消え去り一石二鳥と言うわけだ。」
なるほど。どう考えても軍隊のやり方より指圧攻の方がいいに決まってる。邪物を倒せて人も救えるのだから。
「何故政府は指圧攻を勧めないんですか?こんなにいいのに。」
純粋に疑問を口にすると、いつからいたのかさげすむ目をしたエイがいた。
「簡単なことだろ。リスキーだからだ。」
「エイ、勝手に入って来るな。」
じろりとメイさんに睨まれてもエイは少しも動じない。
「相手は次々に攻撃してくるのに、俺らの攻撃は指圧攻、つまり癒すこと。捨て身の覚悟で近づいて相手にいれる一撃は癒し。怪我をする可能性も高い。そんな戦い方を政府が推奨するわけないだろ。」
「でも、人が犠牲になるんだよ。」
「それは仕方ないことだ。そもそも魂ってのは家主の元から勝手には動かない。家主がネンに魂を渡すと口にすることで魂はネンの元に行き邪物になる。ネンが騙したとはいえ魂を渡した時点でそいつの自業自得だって考え方もできる。」
気だるげに良く通る声でそれだけ言うとエイは部屋を出て行った。足音を立てずに。
「まあ、エイの言うことも一理ある。だが人間が犠牲になるのは良くない。皆邪物を作りたくて魂を渡したわけではないはずだからな。」
メイさんは巻物を片付けながらそう言いうと僕の目を見た。
「どうだ。今までは体力づくり、指圧、指圧の実践と修行を進めてきた。指圧攻の実践の修行に進む準備は出来ているか。」
黒々とした目が試すようにこちらを見る。その目を逸らさずに僕は頷いた。
「はい。」
「よし、これより五つ目の修行、指圧攻の実践に進む。」
指圧攻の実践は外で行われる。邪物の模型の中に人間が入って邪物が暴れる動きを再現し、僕たちは本番同様に邪物に指圧攻を施す。この模型がかなり良く出来ていて、まじかで一度邪物を見たことのある僕が納得するほどには出来のいいものだった。動きも本物そっくりで、流石一度邪物討伐に出たことのある兄弟子たちが担当しているわけだと感心する。見た目も動きも信じられないくらいに本物同然だ。
「一体の邪物に対し二人で処置を行う。今回からユウはエイがペアだ。」
「え。」
横を見ればいつの間にかエイが立っていた。表情はなく何を考えているのか全く分からない。
「よろしくね。」
声を掛けても反応なし。僕、エイの事苦手なんだよなあ。今まで関わって来ていい思い出がない。
「今日の邪物は冷え性という不調を抱えている。それでははじめ。」
「俺が一か所指圧している間お前は邪物の気を逸らせ。交代交代で指圧していくぞ。」
良く澄んだ声が聞こえたと思ったらもう横にエイはいなかった。
「分かった。」
彼に聞こえるのか分からないが返事をして、邪物の目の前に立つ。その間にエイは高くジャンプして邪物の背中へと飛びついた。僕はあんなに高く飛べないや。改めてエイとの技術の違いを思い知る。
邪物は背中に不快感を感じたのだろう。背中の方を気にするように顔を後ろにやる。邪物の意識を別の場所に逸らすためユウは邪物の足を触った。邪物はユウに向かって手を伸ばした。いいぞ。そのままユウは逃げるように邪物の前を走り回る。右へ左へ。空中へ。あまり大きく動いては、その動きに合わせて邪物も大きく動いてエイが指圧攻をしにくいだろうと考え、動く範囲を工夫する。初めてにしてはなかなかいいんじゃないか。
「お前の番だ。」
エイが背中から降りて僕の前に立つ。僕は走りながら勢いをつけて飛び上がり、かがんでいた邪物の肘をつかんだ。そのまま勢いよく足を振って邪物の腕を鉄棒の様に使いぐるりと回って邪物の腕に足を着地させる。そこから体制を整えて足を広げ邪物の腕をはさむ。
肘を曲げた時に出来る折り目の線。そこの先端のことを曲池と呼ぶ。右親指の上に左親指を重ねて曲池を押した。
「重ね母指圧。」
三から五秒間押し続け、力を抜く。あとはこの作業を三から五回行えばいい。よし、初めてにしては上手くいった。
気を抜いたのがいけなかった。自分の体が大きく傾く。あ、落ちる。邪物の腕にしがみつこうとするも手遅れ。僕の体は邪物によって振り落とされ地面にたたきつけられた。
「いたた。」
腰をさすりながら立つとそこにはエイはいない。
「あれ、エイ?」
「のろまが。俺はここだよ。」
エイはいつの間にか邪物の腕の上にいた。
「お前が指圧できなかった場所を指圧する。足、引っ張んな。」
ムカつくが本当の事なので言い返せない。仕方なく邪物の気を引くために痛む足を引きずって歩き始めた。
それから次の日も
「うわあ。」
二週間後も
「いて。」
二か月たっても
「危ない。」
実践の修行はなかなか上達しなかった。初日よりは持ちこたえられるようになり、無駄な動きも少なくなってきたとはいえ、エイの足を毎回引っ張っている。
「足を引っ張るなって言ってるだろ。」
毎日毎日同じ文句を繰り返し言われている。僕だって努力している。他の修行はその成果が出ているのに。
体力は以前よりついたし身体能力も上がった。その証拠に体力促進訓練道「その四」はもう楽々クリアできる。
指圧だって上手くなってきた。始めたのが半年前とは思えない程上達したと兄弟子だけでなくメイさんからも褒められた。
指圧攻の勉強だって毎日している。それなのに、なぜ実践の修行だけ上手くいかないんだ。一番最後に始めた修行だから、というのはあると思う。でも、もっと早く上達したい。エイと共闘できるくらいになりたい。僕には何が足りないんだ。
「ユウさん、お久しぶりです。」
廊下でアオイに会った。久々に会った彼女の顔色には血色感が出ていた
「アオイ元気そうで良かった。」
「ユウさんは、頑張ってらっしゃるんですね。」
体中に出来たあざを見て彼女はぎゅっと口を閉じた。
「うん。これぐらい大したことないさ。僕の苦手な血は出てないからね。」
「あざを作るぐらい大変な修行なんですよね。」
「まあね。相方がいるんだけど足を引っ張るなって毎日言われてるよ。モヤモヤするから今からちょっと走って来るんだ。」
頭をかきながら話すとアオイは眉を下げた。
「もう真っ暗ですよ。」
「平気だよ。じゃあね。」
「気を付けてくださいね。」
そう言って彼女は色白の手をこちらに振る。僕も手を振り返して訓練道がある山へと向かった。何も考えずに走りたかったので体力促進訓練道「その四」を選んだ。余計なことは考えず、目の前の岩や木、段差に集中する。木々の間からこぼれる月の光を頼りに自然の障害物で作られたコースを走った。もう慣れたものだ。
「よっと。」
倒れている木の幹をかわした時、目の前を何かが遮った。月明かりがつんつんした緑色の髪を照らす。
「エイ。こんな夜中になにしているの?」
僕の問いかけに答えず緑色の髪はどんどん先へと進んでいく。待って。走るスピードを上げた。もう少ししたら岩の障害がある。あそこを上るのは得意だ。そこで距離を詰めよう。岩が見えてきた。エイは驚異のジャンプ力で岩を超えるだろう。それなら、僕は。
「くっ。」
スピードを上げたまま岩に向かって飛び上がり、岩にしがみつく。そのまま上へ上へと上って行けば、岩の近くをエイは走っている。このまま走りこめば捕まえられる。僕は勢いよく走り出して、エイを捕まえた。
「捕まえた。」
「なんなんだよ。」
髪の毛と同じ緑色の瞳が僕のことをとらえる。
「どうして夜中に練習しているのか聞きたくて。」
「お前には関係ないだろ。」
そう吐き捨ててから、エイは僕から目を逸らした。
「上手くなるためだ。」
「これ以上?」
「上手くなるのにどこまでなんてない。」
ばっさりと切り捨ててエイは走る体制になる。
「待って。エイはどうしてそんなに強いんだ?」
「どうして。」
エイは気だるげに首を横にかしげてから口を開いた。
「痛い思いをしたくないからだ。」
「え?」
「俺は指圧攻提唱者メイの息子だ。幼少期からずっと指圧攻の訓練をしてきた。日々上達していくのが楽しかったよ。それなのにたった一回。たった一回だけ訓練中に高いところから落ちて怪我をしてから、痛みが怖くなった。それまでは捨て身の攻撃も何も怖くなかったのに、痛みを感じるかもしれないと思うと足が動かなくなった。」
エイは忌々し気に自分の右足を見つめる。
「それでも指圧攻提唱者の息子として生まれたからには指圧攻を辞めることはできない。だから痛みを感じないために死ぬ気で努力した。必死に修行をして動きが完璧になれば邪物討伐中に痛い思いをすることもないと考えたんだ。」
痛みが怖いから、痛みを感じないために懸命に修行に挑む、と言うことか。
「痛みを感じないため。」
「お前はどうなんだ。何故毎日必死に修行している。」
「僕は。えっと。」
沈黙が流れる。聞こえるのは風で揺れる木々の音だけ。
すぐに答えが出なかった。なんで、なんでこんなに必死に修行してるんだっけ。なんでメイさんの元に来たんだっけ。
「目的を思い出せ。お前は焦りで混乱し目的を見失い、そのせいで成長を妨げている。」
「え?」
沈黙を破ったのはエイだった。焦り。それはなかなか実践の修行で成果を残せていない事だ。目的、目的は。
「目的を見つめ、どっしり構えて、しっかり真面目に物事を続ければその日は来る。」
もう一度走り出したエイの手をつかんだ。
「それって、どういうこと?」
「お前。」
僕がつかんだことにより後ろに倒れこみそうになったエイはバランスを取ろうとするが、足元にある崩れかけた岩場に足を取られる。咄嗟に受け身の体制を取ってエイは地面にコロコロと転がった。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。本当にごめん。」
慌てて平謝りする僕を気にせずにエイは膝を抱えた。
「お前な。」
「本当にごめん。ヒイ。」
エイの右膝から鮮やかな血が流れ出ていた。その血があの日の邪物の血とつながる。ああ、そうだ。僕は自分も味方も邪物でさえも傷つかずに邪物討伐をするためにここに来たんだ。僕の大切な目的。忘れかけていた目的。
「気を付けろよ。」
「うん。そ、それより。平気?痛くない?」
「これくらいの痛みならどうってことない。俺が怖いのはもっと強烈な痛みだ。」
ぐっと唇をかんで、彼はそれだけ言うと立ち上がり今度こそ走り出した。その逞しい背中に向かって声を掛ける。僕の声はエイほどよく通らないから大きな声で。
「ありがとう。目的、思い出せたよ。」
自分から怪我をさせておいて何を言っているんだろう。でも、本当にありがとう。僕の目的を思い出させてくれて。僕に声を掛けてくれて。
あれから半年、僕はエイの言う通り目的を見失わないように気を付けながら、どっしり構えて、しっかり真面目に物事を続けた。そうしているうちに体力促進訓練道「その五」をクリアすることができたし、指圧の腕も上がってメイさんの経営する指圧屋に見習いとして出してもらえる機会もできた。そして、その日は来た。
「今日の邪物の不調は肩こりだ。初め。」
合図とともにエイと駆け出した。
「初めに俺が気を逸らす。」
「分かった。」
あれからエイとの距離も近くなった。まあエイはあんまり人と絡むタイプではないからほんの少し話す程度だけど。ペアとしての愛称はかなり良くなったと思う。
「よっと。」
暴れまわる邪物の正面に立って、助走をつけて飛び上がった。腹部につかまりそこから左肩へと移動していく。異変を感じた邪物は何度も大きく肩を振った。エイは邪物の気を逸らすため、ぎりぎり当たらない位置に石を投げつける。
「そのまま行け。」
「うん。」
邪物の相手はエイに任せて、僕は左肩の肩甲上部へと進む。肩甲上部は背中の上の方にある逆三角形の平らな骨のことだ。
「片手三指圧。」
人差し指、中指、薬指をそろえて三本の指の圧を集中して一点指圧として押すやり方だ。みぞおちの中心へと押さえていく。全く同じ要領で右肩も。右肩へ移動する途中邪物の動きによって落ちそうになったがなんとか耐えられた。
「エイ、交代だよ。」
「ん。」
不愛想に返事をすると彼は邪物の背中へと走っていく。僕は代わりに邪物の正面へ立って囮になる。
「側頸部を指圧する。なるべく大人しくさせろ。」
「分かった。」
側頸部は首の側面のことを指す。慎重に動こう。エイはきっとあの動きをする。見上げれば、彼は全身を使って邪物の首を後ろから抱きしめていた。手足を邪物の首に回しているのだ。あの体制は邪物のちょっとした動きで落ちてもおかしくない。しっかり邪物の気を僕に向かわせなくては。
僕が邪物の前であっちへこっちへ跳ね回っている間にエイは無駄な動き無く側頸部の三点を左右同時に指圧していく。
「ユウ、最後はお前だ。」
エイが邪物から飛び降りた時には邪物の動きは鈍くなっていた。そろそろ終わりが見えてきた。僕は頷いてもう一度邪物の腹部へ飛びついた。みぞおちを目指してエイのように上へとジャンプしてみた。ジャンプが成功してサクッとみぞおちにたどり着つく。邪物の動きがのんびりしているおかげで動くのが簡単だ。みぞおちに両手の三指で圧を加える。
「両手三指圧。」
これは片手三指圧の両手版で、手の人差し指、中指、薬指を使って押す指圧方法だ。腹部に『の』をかくように置かれた九点の指圧点を思い出しながら、下へ上へ横へと動きながら指圧を施す。いつのまにか邪物の動きは止まっていた。
「出来た?」
半信半疑になりながらエイに問いかけるとエイは腕を組んだ。
「出来た。」
成果が、やっとでたんだ。焦りや劣等感から解放された僕は浮いた足でエイの元まで走っていく。
「やったー。」
ハイタッチしようとしてさっとかわされた。
「俺、そう言うのやらないから。」
「そう言わずにさあ。」
無理やりエイの手を取ってハイタッチする。
「お前、結構強引だよな。」
そう言いながらもエイの鉄壁の口角はいつもよりほんのすこしだけ上がっていた。
実践の修行で成果を出してから半年が経った。僕がここに来てもうすぐ一年半になる。その間に兄弟子のヨシさんとガクさんは討伐の旅へと出て行った。
「もう少ししたら君の番だよ。」
ガクさんの言葉は、実現した。
メイさんに呼び出された。障子を開けると機嫌のいい笑顔を浮かべたメイさんと無表情のエイと肩を縮こませたアオイがいた。
「揃ったね。ユウ、そこに座りなさい。」
座布団に腰を下ろすとメイさんは話し始めた。
「ユウとアオイがここに来て一年半になる。そこでそろそろ三人に提案したいことがあるんだ。三人で邪物討伐パーティーを組んではどうだろう。」
「この三人で?」
心底信じられないという様にエイが口を開いた。
「ああ。なかなか良い組み合わせだと思うぞ。」
「俺とユウ、ユウとアオイはともかく、俺はアオイとほとんど面識がない。」
「アオイはいいキャンパーだからな。問題ない。」
「筋が通ってない。」
ピリピリした空気をまとい始めたエイにアオイはピクリと肩を跳ね上げる。ここは僕が取り持つしかないか。
「エイもそう言わずにさ。どうして僕ら三人がいいと思ったんですか?」
「これは私情だが、エイとユウは共に邪物討伐に出て欲しいんだ。相性がよさそうだからな。加えてユウとアオイは仲が良い。指圧攻の術者二人にキャンパー一人のパーティーを組むならこの三人だと思った。」
「俺とアオイの関係は無視ってことか。」
「ここから仲良くなればいい。アオイはいい子だからな。」
「俺は悪い子か。」
「そんなことは言っていない。」
親子喧嘩はどこまでも続きそうだ。アオイはその様子を何も言わずに固まって見ている。
「僕はいいと思います。三人で邪物討伐に出るの。」
二人の言い合いに負けないように大きな声を出すとメイさんは満足げに腕を組んだ。
「そうか。アオイはどうだ?」
「私でよければ、是非。」
是非と言う割には声が裏返っている。
「少しずつ自分に自信が付いて来たんです。だから、ユウさんとエイさんと邪物討伐に出たいです。」
震える手を握り締めながらこちらに向けた目は、道場へ行くと決めた時のように揺るぎがなかった。
「エイはどうだ?二人は了承してくれたぞ。」
「賛成だ。」
声が小さすぎて聞き返す。
「え?」
「賛成だって言ってんだ。」
投げやりにそう言うとエイはどしどしと僕らに向かって歩いて来た。
「俺ら三人でパーティーを組むぞ。」
「うん。」
「決まりだ。」
さっきまで一番乗り気じゃなかったのに。その様子を見てメイさんはふっと息で笑ってから手をパンと叩いた。
「そうと決まればもう一人の仲間を集めなくてはいけないな。」
「えっと。」
「知らないのか。俺たち指圧攻を用いるパーティーは基本魔法と保護魔法、回復魔法を使いこなせる魔法使いを仲間に入れるのが鉄則だ。」
「じゃあ、ヨシさんとガクさんのパーティーも魔法使いを迎えたってこと?」
「そうだ。あの子達も魔法使いの谷へ行って魔法使いを仲間にしたんだ。」
「待ってください。あの、なぜ魔法使いが必要なんですか?」
僕もアオイと同じ考えだ。何故?
「俺たちが怪我した時に治すためと、俺たちを邪物の攻撃から守るため。それから邪物の不調を見抜くために必要だ。」
「邪物の不調を見抜く?」
「そうだ。俺たちは邪物の不調に合わせて指圧を行う。だからどこが悪いか知らなくちゃいけない。その知る方法の一つが魔法使いに見抜いてもらう方法だ。回復魔法を使えばどこが悪いか分かるらしい。」
「それなら魔法使いが不調を直してもいいのでは?」
「魔法使いの魔法には相性がある。骨折や捻挫など一度で直せるものは魔法と相性がいいが、常に付きまとう不調を直すのに魔法は長けていない。魔力を常に放出しないといけないからね。」
「なるほど。」
「だから、どこが悪いかだけ魔法使いに教えてもらう。そうしたら俺たちが指圧を施す。魂が人間に戻ったらその人の不調に効く指圧法を教えて毎日実践してもらう。それが大まかな流れだ。」
エイとメイさんの説明を交互に効きながら僕とアオイは頷いた。
「魔法使いを選ぶ上で必要な条件は四つ。基礎魔法が使えること。保護魔法が使えること。回復魔法を使えること。そして攻撃魔法を使わないと約束してくれる魔法使いであること。くれぐれも攻撃魔法を使いたがる魔法使いを仲間にするな。指圧攻の意味がない。」
「はい。」
「魔法使い選びで言いたいことはそれくらいだ。奴らは自尊心が強いからな。あまり失礼を言うんじゃないぞ。特にエイ。」
「分かってる。」
「そうと決まれば明日にでも出発だ。健闘を祈るよ。」
メイさんはそう言うと颯爽と部屋から去っていく。え?今、明日って言った?話の展開が早すぎて付いていけない。
「エイ。明日って言ってたよね?」
「母さんの気分だろ。それぞれすぐに旅の準備をした方がいい。」
「待って。」
立ち上がったエイを引き留めた。
「約束がしたいんだ。」
「何だよ?」
「なんですか?」
「このパーティーは絶対に自分も味方も邪物も傷つけない、って約束。」
「いいですよ。ユウさんはそのために指圧攻を学んだわけですし。」
「お前らしいな。分かった。」
アオイだけでなくエイも快く了承してくれたことに胸をなでおろす。
「じゃあ明日からよろしくね。」
「ああ。」
「はい。」
僕らの旅が明日から始まる。
「行ってきます。」
「うむ。気を付けるんだぞ。」
メイさんや兄弟子、弟弟子に見守られ三人の旅が始まった。
「魔法使いの谷へ行って、そのあと政府に邪物討伐申請書を出す。余程の事が限り申請を断られることはない。」
「軍隊を逃げ出した僕でも大丈夫かな。」
「大丈夫だろ。」
「確か、いくらかの助成金をいただけるんですよね。」
「ああ、ただ少額だ。俺たちは道すがら指圧をして必要最低限の金を稼ぐ。その金で暮らしていくんだ。」
「私も何かお金を稼ぐ方法があればいいんですけど。」
アオイはそう言ってからカバンを背負い直した。中からガチャガチャと音がする。
「アオイ、カバンの中に何が入っているの?」
「これは、ええっと。」
言い淀んでからアオイは首を傾げた。
「秘密兵器ってところですかね。」
「秘密、なんだそれ。言え。」
ぐいっと近づいて来たエイから身を引きながらアオイはふるふると首を振った。
「秘密は、秘密なんです。メイさんとの約束です。」
「おふくろ。余計なことしやがって。」
エイは悪態をつきつつもそれ以上言及しようとしなかった。アオイはその様子に肩をなでおろす。
「お前ら、足引っ張んなよ。」
「うう、努力します。」
言ったそばからアオイは木の根っこに足をつまずかせ転びそうになるのを何とか持ちこたえた。ふらふらと体制を整えるアオイを見てエイは小さくため息をついた。
「魔法使いを探している?」
「そうだ。基礎魔法と、保護魔法、それに回復魔法が使える魔法使いだ。」
「攻撃魔法はいらないのか?」
「好戦的な魔法使いはいらん。」
あれから三日間かけてたどり着いた魔法使いの谷。思っていたよりも栄えていて、あちこちで物が浮いていたり、見たことのない謎の植物、生物がいたり、怪しげな店があったり、魔法使いが箒で空を飛んでいたり。今までの人生で遭遇したことのない光景に僕とアオイは周りをきょろきょろと見渡してしまう。
「アオイ、見て。あそこ!あんな遠くまで箒で飛んでるよ。」
「ユウさん、あの植物とっても綺麗です。見たことない。」
「行くぞ。」
そんな僕たちはエイによって引きずられるように村長の元へとやって来たのだった。
「悪いんだが優秀な魔法使いたちはすでに他のパーティーに所属している。村にいる邪物討伐に参加できそうな魔法使いと言ったら、一人だけだな。」
「ならそいつを紹介してくれ。」
「いいが、落ちこぼれ魔女での。名前はルリ。そこの公園で魔法の練習をしているはずじゃ。」
「落ちこぼれって言うのはどういうことだ?」
「本人に聞いたらいい。」
落ちこぼれ、と言う部分を気にしつつ唯一パーティーに入れそうな魔女、ルリに会いに行くことにした。
「あの方ですかね?」
広い公園の一角で杖を掲げている魔女がいる。杖を振るたびに高い位置でくくられた髪が大きく揺れていた。
「おい。お前がルリか?」
「そうだけど。」
エイが声を掛けるとルリは眉を潜めた。
「あたしに何か御用?」
「ああ、俺たちの邪物討伐パーティーに入って欲しい。」
「あ、あたしが⁉い、いいわよ!」
「だがその前に聞きたいことがある。」
「何よ。」
「村長がお前のことを落ちこぼれだと言っていた。何故だ?」
「エイ。」
「そんな単刀直入に聞かなくても。」
あたふたと止める僕らを無視してエイは言葉を続けた。
「場合によってはこの話はなしとする。」
「はあ⁉期待させといて何よそれ。」
「落ちこぼれをホイホイ拾うほどこっちも余裕があるわけじゃない。」
エイの真剣な表情にルリはしぶしぶ口を開く。
「いいわよ。言ってあげる。理由は二つ。使える魔法の少なさと、血筋よ。まず、使える魔法の少なさ。あたしは基礎魔法と保護魔法と回復魔法しか使えない。魔法使いにとって大切な攻撃魔法をどうしても使いこなせないのよ。」
ルリは杖を大きく振る。すると火の玉が出て来て、エイに向かって直撃する、と思ったらひゅっと消えた。
「ね?初級の攻撃魔法でさえ使いこなせないの。」
並行に整えられた眉を下げてからルリは杖をポケットにしまう。
「もう一つは血筋。魔法使いは魔法を使えない者との結婚を嫌うの。だけど亡くなったあたしの母親は、魔女だったのにもかかわらず魔法学者の父と結婚した。その父も亡くなったわけだけど。まあつまり、あたしは魔法使いの血が半分しか流れていない。だから落ちこぼれなの。あたしの血はきれいじゃないから。」
ルリが大きな声で吐き捨てる。
「ねえ、君の魔法を見せてよ。」
「なんでよ。」
「周りの評価で決めるんじゃなく、僕たちが君の魔法を見て決めるから。君がこのパーティーに必要かどうかをね。」
「なんで。」
「だって実際に見ないと分からないし、君と邪物討伐の旅をするのは僕たちだからね。」
「そう、そうですよ!」
アオイが横で大きく頷いた。
「私、魔法をちゃんと見たことないんです。見せてください。」
「僕も、今日初めて本当に魔法が実在するって知ったよ。」
「そこまで言われちゃあ、仕方ないわね。」
ふふんと笑ってルリは古めかしい杖を構えた。
「じゃあ保護魔法から。そうね、そこにある石をあたしに投げて。いつでも、どこからでもいいわよ。」
「お手並み拝見と行くか。」
足元に転がっていた石をつかみエイは走り出す体制を取る。そこから大きくジャンプしてルリの背後を取った。
「こんなもの簡単よ。」
ルリは得意げにそう言うと保護魔法の盾を背後に貼った。ものすごい速さで石を投げつけるエイの攻撃を次々に盾を貼ってはかわしていく。エイ相手に凄い。
「いい腕だ。ユウ、加勢しろ。」
「ええ‼」
「来い。こいつの実力を知るためだろ。」
エイの言う通りユウは近くにあった石を拾って加勢する。本人が希望したこととはいえ罪悪感が半端ない。
「二対一?いいわよ。」
にやりと笑ってルリは盾を大きくする。
「あたしの極めた保護魔法、とくと見るがいいわ。」
ルリは投げられた石を盾で粉砕していく。
「おおっと。」
予想外の攻撃がルリを襲う。アオイだ。アオイが石を投げたらしい。
「うわああ。」
投げた石がルリの盾によって跳ね返され、アオイに向かって飛んでいく。石を避けようとしてアオイはバランスを崩しそのまま転んでしまった。
「いててて。」
膝小僧を抑えるアオイを見てみんな手を止めた。
「慣れない事をするな。」
「すみません。」
「あんた怪我したんじゃない?」
「え?」
「回復魔法を使ったから分かるわよ。」
「うう。」
「見せて。治してあげるわ。」
そう言うとルリはアオイの許可も取らずに継ぎはぎだらけの袴をめくった。
「ちょちょっと。何するんですか。」
「だーからっ。治してあげるの。じっとしてなさいよ」
「ヒイ。」
僕が思っていた以上にアオイは派手に転んでいたらしい。アオイの白い膝に鮮血が映えている。瞬間的に左頬を押さえながらエイの後ろに隠れると、ルリは腰に手を当てた。
「なんであんたがビビってんのよ。」
「僕は血が苦手なんだ。」
僕はアオイから目を逸らす。
「ふーん。さ、治すわよ。」
ルリはそう言うと杖をアオイの膝に向けて十字に切った。
「わあ。」
「ね、治ったでしょ。」
誇らしげなルリの声が聞こえてきてエイの背中から顔を半分出す。
「治った?血はもう出てない?」
「うるさい。もう治った。」
うんざりした様にエイはそう言うと、僕のことを前へ出す。
「人の後ろに隠れるな。」
「それにしても魔法は凄いね。もう治ったんだ。」
アオイの膝は傷一つない。
「本当ですね。私達ではこうはいかないです。」
膝を撫でてからアオイはエイに向き直った。
「エイさん、ルリさんを仲間にしませんか?条件は十分に満たしていますし。」
「見せてもらった回復魔法がしょぼすぎる。」
「なんなのこいつ。」
座った目でルリが呟く。
「じゃあ、あんた魔法使える訳?」
「現実的な話をしているんだ。」
「現実的な話をしているのなら、ルリさんを仲間にした方がいいです。私たちが求めている魔法使いの条件をルリさんは満たしています。基礎魔法と保護魔法と回復魔法が使える魔法使いで、攻撃魔法を使いたがらない人。ルリさんの場合は使えないわけですが。」
「あんたも意外と言うのね。」
「他の魔法使いの方もいらっしゃらないわけですし。このまま条件が合う魔法使いを待ち続けては時間がもったいないと思います。どう、ですか?」
アオイのやけどの跡がある手は震えている。
「妥協案みたいに言わないでくれない?」
「いえ!決してそんなつもりではなくて。」
覇気のない目でルリに言われて、アオイはその手を胸の前で振る。僕もアオイの考えに賛成だ。
「アオイの言う通りだよ。ちなみにだけどルリは今までどんなものを治してきたの?」
「骨折とか捻挫とか?あんたの苦手な血が出る怪我も直しているわよ。」
「わざわざ言わなくていいよ。」
僕が恨めしがるとルリはケタケタと笑った。
「ごめん、苦手なものがあってもおかしくないわよ。で、あたしをパーティーに入れないわけ?」
首をかしげる動きに合わせてガラス製の丸いピアスが揺れた。ガラスの中では瑠璃色の霧がふわふわと蠢いている。
「私はルリさんに入って頂きたいです。」
「僕も。エイは?」
「骨折を治したって本当なんだろうな。」
「もちろん。」
「それなら、パーティーに入れ。」
「偉そうね。」
「パーティーに入れないわけ?なんていう奴が言えた言葉か。」
「なんだかお二人は息が合いますね。」
「ね。」
僕とアオイは顔を見合わせる。
「息が合うってどこがよ。」
顔をしかめたルリを収めてから、このパーティーの約束を伝えた。
「このパーティーは、誰も傷つけないっていう決まりがあるんだ。自分も味方も邪物でさえもね。」
「ふーん。優しくていいじゃない。」
ルリは否定することなく受け入れてくれた。
「攻撃魔法も使わないで済むしラッキー。」
「お前な。」
二人の騒がしいやり取りがまた始まった。
ルリをパーティーに迎えた僕たちは邪物討伐申請署にやってきた。そこで僕たちを待ち受けていたのは
「健康診断?」
「ええ。これから討伐の旅に出るみなさんの体に何かあったら大問題ですからね。」
せかされるように診察室に通され、身長、体重、血圧、心拍数、とあれこれ調べられる。
「みんな異常なしだといいんだけど。」
「異常があったら置いてくぞ。」
「ええ!そういうこと言うなよ。」
そんな会話をしながら、エイと二人で通された部屋には、アオイとその後ろでブルブルと震えているルリの姿があった。
「どうしたの?」
「これから採血検査なんだけど、お姉さんが怖がってしまって。」
女医さんの言葉を聞いた途端、僕もエイもルリに続くようにアオイの後ろに隠れた。
「ええ。お二人もですか。」
うんざりした声でこちらを振り返ったアオイ。だって採血、採血だよ。
「血が苦手なお前には最悪のイベントだな。」
「エイこそ痛いから怖いんだろ。」
「無理、絶対無理。」
うしろでごねる僕たちを一瞥してからアオイはため息をついた。
「この部屋に入った順で私、ルリさん、エイさん、ユウさんの順番で行きましょう。」
「ええ⁉」
全員が声を上げれば
「怖いなら手を握ってあげますよ。」
「それはいい。」
全員がきっぱり断った。この年にもなって手を握ってもらうのは恥ずかしすぎる。
「それなら頑張りましょうね。検査はこれで最後ですから。」
アオイは青白い顔をした僕たちに声を掛けたのだった。
検査から一週間、全員健康とのお達しが出たので僕たちは邪物討伐申請署に書類を出しに出かけた。
「これが受理されたらいよいよ討伐の始まりだね。」
「本当ですね。メイさんの元での一年半の修行に、ルリさんに会ってから、長いようであっという間でしたね。」
横に立つアオイはそう言うと書類を握り締めた。
「というかルリ、お前、意外と年取ってるんだな。」
ルリの書類を緑色の頭が覗き込んでいる。
「はあ⁉あんたねそれ、レディーに言ったら行けない言葉ワースト一位だからね。」
「事実だろ。二十九歳。」
「うるさい。」
「見た目がお若いから。」
「アオイ。あんたって子は本当にいい子ね。」
「年齢聞いて、驚いちゃいました。」
「知ってた。あんたってそういうところあるわよね。」
いつぞやの座った目をルリがアオイに向けた。
「年齢は関係ないよ。ルリはこのパーティーの大切な魔法使いだ。」
「ユウ。あんたは本物のいい子よ。」
ルリが感嘆していると、署員から声がかかった。
「へえ、それで君たちは指圧攻を攻撃としたパーティーで、アタッカーがエイとユウ。キャンパーがアオイ。ディフェンダーが魔女のルリ、と。なるほどねえ。」
審査員たちはぶつぶつと呟いてからお互いにアイコンタクトした。
「まあいいんじゃないか。」
「そうですね。」
「やれるところまでやってみたらいい。審査は通った。邪物討伐に出てくれ。くれぐれも三か月に一度の調査報告書の提出を忘れない事。以上だ。」
「はい。」
僕らがそろって返事をして立ち上がると審査員たちはにやにやとこちらを見てきた。
「いいねえ。勢いがあって。あの怪しい指圧攻提唱者の息子と軍隊を逃げ出した青年、攻撃魔法が使えないおばさん魔女に、ただの小娘。ここまで軟弱な肩書のパーティーは見たことないよ。まあせいぜい頑張れ。」
一人が声高らかに言えば、全員が笑うのをこらえている。
「行こう。」
こんな言葉気にしたらいけない。僕たちはれっきとしたパーティーだ。軟弱者なんかじゃない。
「ああ。」
「ええ。」
エイは眉間にしわを寄せながら。アオイは杖の入ったポケットを握り締めながら答える。三人が部屋を出てもアオイだけが何も言わずにうつむいたまま突っ立っていた。
「アオイ。行こう。」
僕が声を掛けるとアオイは目を見開いてから、律儀に審査員へ頭を下げる。
「馬鹿。なんで頭なんか下げたんだ。」
扉を閉めた途端、エイはアオイに詰め寄った。
「あいつらに頭を下げる必要があったか?」
「そ、その。反射的に。」
僕は扉を背にぷるぷると震えるアオイとエイの間に立つ。
「エイ、そんなことはいいよ。」
「アオイ、深呼吸しなさい。息が乱れてるわ。」
ルリがアオイの猫背の背中をさする。
「平気?」
「私、皆さんの役に立つように頑張りますね。」
アオイは僕の質問に返事をする代わりにそう答えた。
「何落ち込んでんのよ。」
「お前に言われたくない。」
審査員の言葉は、それなりに僕たちの心に効いたようで、元気のない顔が四つ並んでいる。
「審査員の言うことは気にしなくていいよ。」
そう言いつつも僕も審査員の言葉を引きずっている。逃げ出した青年。そう、僕のことだ。
「とにかく政府から任された任務地に行きましょう。ここから北上したところにカタヌマという村があるそうです。最近はそこに邪物が出やすいとか。」
アオイは先ほど貰った書類に目を通す。
「よし、行こう。いつまでもこんなんじゃだめだ。」
モヤモヤを振り払う様に僕が大きな声を出すと、エイも珍しく威勢のいい声を出した。
「行くぞ。」
エイに合わせて僕も歩き始める。僕らの邪物討伐の旅がいよいよ始まったんだ。
邪物討伐申請署から出発して三日目。毎日歩いて、歩いて、アオイが作ってくれた料理を食べて、迷惑にならない場所で野宿をする。そろそろ布団で寝たい。
「今日は途中の町で休もう。」
エイがそう提案してきた。
「本当?ちょうど布団で寝たいと思ったんだ。」
「私もです。」
のんびりと会話をしながら足は休むことなく動かし続ける。穏やかな春の風が僕の頬をくすぐった。途端に本当に何もない、春のぽかぽかとした平和な日、が一転した。
「今の人の悲鳴?」
「ああ。騒ぎ声が聞こえる。邪物かもしれない。行くぞ。」
僕たちは荒野を駆けだした。
「やっぱり。邪物だ。」
村に一番に着いた僕は一人呟いた。あの時と同じだ。あの時と似たような邪物が目の前にいる。でも、もう逃げない。指圧攻があるから逃げる理由なんてない。
「これが、邪物。」
「うん。二人が来たら始めよう。」
「お、おう。」
「うわ。これが本物の邪物なのね。魔法書で見た通り。」
遅れてやってきたルリとアオイ。
「そろったね。ルリ、魔法でどこが悪いか調べて。」
「任せなさい。」
ルリはローブのポケットから杖を取り出した。それからぐっと目を瞑る。
「高血圧。」
「分かった。エイ、行くよ。」
混乱している人々に追い打ちをかけるように空が曇りだした。暖かな春の日差しが嘘のようだ。
「お、おう。」
「エイ?」
エイの返事が先ほどからか細い。
「だ、大丈夫だ。行くぞ。」
「うん。」
ユウは迷いなくジャンプして邪物に飛びついた。
「エイが邪物の気を引いて。」
返事が聞こえない。
「エイ?」
下を見れば邪物を見て茫然とするエイの姿があった。目を大きく開け口もぽかんと開けた姿はいつものエイからは想像できないものだった。
「待て。今行く。」
口ではそう言ってもエイは一向に動かない。そうこうしているうちに邪物が体をよじった。
「うわ。」
訓練同様振り落とされないようにごつごつとした体にしっかりとつかまる。
「ぐがががが。」
邪物が足を振り上げ、周りにあった桶や米俵を一気に吹き飛ばした。
「危ない。」
素早く反応したルリがルリ達三人の前に盾を貼る。
「エイ、早く行きなさいよ。」
立ちすくんだままのエイの耳にルリの声は届かない。
「エイさん。」
アオイが屈強な肩をさすってもエイは反応しない。いつのまにか雨が降ってきた。邪物がごろごろと喉を鳴らす。
「僕一人でやるよ。ルリは魔法で邪物の気を逸らしてくれない?」
今までの訓練では一体の邪物を二人で協力しながら倒してきた。今回は一人。
「任せなさい。」
ルリの声がいつになく頼もしく感じた。ルリは近くに転がっていた薪を魔法で邪物の目の前に持っていく。邪物の視線は不思議に動き回る薪に集中した。
「ありがとう。」
僕は軍隊にいたころより一層鍛え上げられた手と足を素早く動かして邪物の首元へ向かった。
高血圧は最高血圧が百四十以上、最低血圧が九十以上のことを指す。原因はストレス、疲れ、体質、食事、遺伝など様々だ。
首元に到達した僕は邪物の首の前、前頸部にある左右四つのツボを押す。喉に当たる部分なので苦しくないように優しく押していく。
「片手母指圧。」
片方の親指の指紋部を使って押す方法だ。次に首の後ろへ回り、以前の訓練でエイが行ったように全身を使って首に抱き着いた。この体制のまま側頸部、後頚部をつく。
「両手三指圧。」
今のところは順調だ。ここからでは見えないがルリが上手く邪物を操ってくれているのだろう。
気が緩んだのがいけなかった。視界が大きく揺れた。あ、対応できない、落ちる。下は固い地面だ。衝撃に備えるため受け身を取った。それなのに、一向に衝撃が襲ってこない。それどころか一定の場所にとどまり続けている。これは……
「あたしの魔法よ。浮遊魔法。ただ人間を浮かすのは魔力を消費するから早く邪物につかまって頂戴!」
「う、うん。」
そうか。ルリの魔法に助けられたのか。ふわふわと浮いたまま邪物の体に手を伸ばし、つかまり直した。
「ありがとう。ルリ。」
これで一安心と思いきや、手を置いた場所が悪かった。邪物の逆鱗に触れたらしく邪物は健康的な腕を振り上げてルリ達に向かって近くにあった丸太を投げつけた。今度こそ振り落とされないように邪物にしがみつく。
「あっぶないわね。」
丸太が届く寸前にルリは保護魔法を展開したようだ。
「こっちは問題ないわ。」
「うん。」
手に向かうついでに腕に並んだツボを上から下へ駆け巡る様に押していく。
「片手母指圧。」
そのまま手首の横に三つ並んだツボ、手の内側に縦向きに三つ並んだツボを順番に押した。更に指先へと歩みを進める。
指先を丁寧に一本一本押して引っ張り、しっかりとツボを押さえていく。邪物の動きが鈍くなってきた。それと合わせて僕の呼吸も乱れ始める。それでもまだ攻撃は終わっていない。右腕に施した指圧を左腕にもしなくては。邪物が大人しい絶好のチャンスを逃がすわけにはいかない。どんなに胸が苦しくても左腕へ移動するなら今だ。普段なら役割分担できても今は出来ないのだから、一人で施術を終わらせるしかない。
胸を押さえて呼吸を整えると僕は突風のような速さで邪物の体を移動し始めた。
「エイさん、何も食べないのは良くないです。少しは口にされた方が。」
アオイが俺の顔を覗き込んでくるがそれどころではない。
「アオイの言う通りだよ。エイ。」
「分かってる。」
想像以上に低く唸るような声が出た。分かってる。分かってるけど。うるさい。お前に口出しされるのが今一番堪えるんだよ。
「こーんな美味しいのに。もったいないわね。」
魔女が目の前でこれ見よがしにむしゃむしゃと食べる。こいつはこいつでいちいちうるさい。
俺が動けなかったのにユウは一人で邪物を討伐した。魂は持ち主の元へ戻り、意識を取り戻した持ち主にユウは高血圧に効く指圧を教え、みんなで村を後にした。俺は一部始終をただ見ていることしかできなかった。なにやってんだ。何のために記憶もない時から修行してきたんだ。
「本当においしいよ。ほら、エイも食べなって。」
皿を俺に向けたユウから顔を逸らす。馬鹿だ。出来なかったことをいつまでも思い出してしょげるなんて。でも、邪物を目の前にしたときに思った。こいつと戦ったらやばい。絶対に痛い思いをする。あの日の記憶がよみがえって頭がくらくらした。足がすくんで、意識がもうろうとして、手足が冷えた。
「エイ。その。うーん。」
ユウはかける言葉を探しているらしい。馬鹿。今お前と話すのが一番精神的に来るってわかんないのかよ。アオイのいかにも心配ですという目も鬱陶しい。唯一ルリだけが「我関せず」とアオイの料理をいそいそと上品ぶって食べている。
「ちょっと頭冷やしてくる。」
一人で森へ向かって行く俺のことをユウが追いかけてくると思った。そうなったら怒鳴り散らかしてしまう。動けなかった自分への怒り、必要以上に心配してくる仲間へのイライラをぶちまけてしまう。ただ、そんな思いは杞憂だった。だれも俺の事なんて追いかけてこない。なんだ、思い上がってただけかよ。我ながらあほらしかった。
怪我をしたくない。そう思ったのは初めて訓練中に地面に落ちて、骨折した時だった。これまで感じたことのない痛み、そして歩けなくなる恐怖。足が治って自由に動けるようになってもあの時の気持ちは忘れられない。邪物を倒すためならと何とも思わなかった痛みが怖くなった。痛い思いをしたくなくなった。
「怖い。」
幼少期からトレーニングし続けた足を抱える。誰にも聞かせるつもりのない独り言。
「へえ。怖いの。お姉さんに言ってごらんなさいよ。ねえ、ねえったら!」
からかう様に後ろからそんな声が聞こえて、振り返ればやっぱりいけ好かない顔がこちらを覗いていた。
「怖いんでしょ。あたしに話してみなさいってば。」
こいつだけには言うかと無視するとルリは懲りずに横に座って来た。
「せっかくあんたより人生経験豊富なあたしが話を聞くって言ってるのに話さないわけ⁉」
「ただ年上なだけだろ。」
「そうよ。年上なんだからあんたが考えることは少しは分かるわよ。だからあたしが来たわけだし。」
「は?」
「初めはユウが行くって聞かなかったけど、今は距離を置いた方がいいでしょ?」
「まあ。」
心を読まれたようで心地が悪い。
「アオイも心配性すぎるし。お姉さんのあたしがうってつけだから来てあげたのよ。」
「それはどうも。」
「本当に素直じゃないわねー。心に忠実に喜びなさい。」
別に喜んでない、とは言えなかった。二人よりルリの方が今は顔を合わせやすい。たとえこんな性格だろうとしても。
「何が怖いのよ。」
「俺は痛いのが嫌いだ。邪物を見た時こいつと対峙したら痛い思いをすると思ったら体が動かなかった。痛い思いをするのが怖いし、邪物と戦うのが怖い。だけどこのまま何もできないアタッカーになるのは嫌だ。」
「ふーん。じゃあ邪物とは戦いたいと思ってるわけね。」
「当たり前だ。そのためにずっと訓練してきたんだ。」
睨みつけるとルリはにんまりと唇を上げる。
「ならいいことを教えてあげるわ。あたしはあんたが痛みを感じないようにできるわよ。魔法で。」
「本当か?」
「もちろん。あんたが痛みを感じそうなときに魔法で助けてあげる。邪物から落ちそうになったら浮遊魔法で助けてあげる。どんなに小さい切り傷でもかすり傷でもすぐに回復魔法を使ってあげる。あんたが痛みを感じないように魔法を使うし、もしも痛みを感じたらすぐにその痛みをなくしてあげる。」
「そんなことが出来るのか?」
「出来るわよ。魔法なめんじゃないわ。」
ふふんと得意げに笑ってからルリは立ち上がった。
「ね、だから大丈夫。誰だって怖いことはあるしね。あんたは一人じゃない。あんたの性格だから仲間がいるから面倒くさいと思う節があるかもしれないけど、そんなことはないの。あんたがくじけたらあたしたちが助けるし、あんたが苦手なことはあたしたちがカバーする。その逆もね。だから一人で抱えこまないでよ。」
暖かい風がこちらを見るルリの耳飾りを揺らす。透き通ったガラスに入ったふわふわとした霧が濃くなった。
「なあ気になってたんだがその耳飾りの中には何が入ってるんだ?」
「うーん。とっても大切なものでもあり、私がやばくなっとき用の秘密兵器?」
「女子って秘密兵器が好きなのか?」
「何言ってるのかわからないんだけど。行くわよ。」
俺は一人じゃない。みんなが俺の苦手を補ってくれる。俺もみんなの苦手を補う。そうだ、そうすればいいんだ。
「ルリの苦手なものはなんだ?」
「トマトとピーマンとグリンピース。」
「え?」
ルリが言った苦手は思っていた苦手とは、違った。
「行くぞ。」
「うん。」
ルリと話してから一晩経って、エイのいつもの調子が戻ってきた。率先してパーティーをまとめてくれる。本来の任務地へ向かうため朝早くに湖を出発した。
「眩しいわね。」
湖に反射した朝日がキラキラと輝いている。
「だからって目を閉じたまま歩かないでください。」
「だってぇ。」
アオイに手を引かれながら歩くルリの姿は最年長の姿ではない。
「アオイ。」
甘やかすなって言うんだろうな。
「怪我しないようにしっかりみてやれ。」
エイの予想外の言葉に僕ら三人は目を見開いた。さっきまで目を閉じていたルリも今はぱっちり目が開いている。
「甘やかすなって言うのかと思いました。」
「僕も。」
「あたしもー。」
三人とも同じ考えだったらしい。
「まあ、そうなんだが。」
「なになにー。心境が変化したのー。」
「うるさい。」
肘で小突いてくるルリを鬱陶しそうにエイが避ける。
「なんだか更に仲良しさんですねえ。」
アオイまでもが目を輝かせてからかいだす。
「アオイもそんな口きけるようになったのかよ。」
「私、エイさん程、口は悪くありませんよ?」
キョトンとした顔でアオイが返すものだから僕は思わず噴き出した。
「距離が近くなってきたことはいいことだよ。」
「おい、のろのろすんな。」
「あー。ピクニックしたいわー。」
「あそこに生えている葉っぱ食べられますかね。」
僕がいいことを言ったのに、三人とも口々に自分の思ったことを発するものだから、僕は仕方なく口をつぐんだ。
「にしても全然邪物が出ないじゃないの。」
任務地について一週間。一向に邪物は出没しない。
「そもそも適当なんだろ。邪物がどこに出るか分かってたら苦労はしない。」
長期滞在を見越して借りた安い宿で四人とも邪物の登場を今か今かと待っていた。
「邪物が出ないに越したことはないけどね。」
「でも何も成果がないですって言う報告書を書くのもですし。」
アオイは眉を下げてから、窓の外を眺める。
「それにしても雨続きで何だか気分まで下がってきますね。」
アオイの言う通りここ三日間ずっとしとしとと雨が降り続いている。
「訓練も出来ない。」
ストレッチしながらエイが答えた。どうしたらそんなに足が開くんだろ。
「あーもう!髪がうねって最悪。」
頭のてっぺんで結んだポニーテールの毛先をいじりながらルリが大きくため息をついた。
思い思い雨に対する愚痴をこぼしていると、外から唸り声が聞こえてきた。全員窓へと駆け寄る。
「邪物かな。」
「わからない。窓が雨で濡れていて見えにくい。外に出るぞ。」
エイと僕を先頭に宿を出れば雨に濡れた邪物がいた。
「一般的な邪物より、背が高くないか。」
エイの言う通り、邪物の背が高い。そしてなぜかひょろりとした体を右へ左へと揺らしている。
「なんなの、あの動き。」
「見たことないね。」
「何だか不気味です。」
ブルリと震え上がったアオイ。
「とにかく行こう。」
僕たちは邪物の近くへ歩みを進めた。
「ルリ、不調は何?」
ルリは杖を艶やかな手でぎゅっと握る。
「貧血ね。」
「今回は俺が行く。」
「エイ、平気?」
「ああ、いける。」
エイの瞳はメイさんの元で修行していた時のように凛々しく真っ直ぐ邪物を貫いている。
「分かった。いつでも声かけて。」
僕はエイの言葉を信じて思いっきり邪物の目の前に走り出した。わざと存在をアピールして邪物の気を引く。そのうちにエイは邪物の背中へ回り飛び乗った。
ふらふらと揺れた邪物の腕が僕に向かって振り下ろされる。
「うわ。」
邪物の動きによって作り出された風が全身を切り裂くように当たった。転がり込むようにしてなんとか腕からは逃げたが、邪物の腕が揺れていることによって助走が付いて一発の攻撃力が高いことが良くわかる。この間の邪物とは違う。攻撃の一撃が重い。さっきと同じように腕が足元に向かってくる。ジャンプして避けるしかない。向かい来る腕をよけながら同時に起こる強靭な風に押し負けないように鍛え上げた足に力を入れて高くジャンプした。下を見ればひょろりとした華奢な腕からは信じられない力で地面にひびを入れている。
今まで邪物の攻撃で地面にひびが入るなんてことなんてなかった。この邪物はやっぱり攻撃力が強い。地面に足を付けた途端、また血管の見える腕が足元に向かってきた。高くジャンプして地面に足をつけばまた同じ攻撃。ずっと縄跳びをしているようなものだ。その縄は邪物の腕で、縄によって地面にひびが入るという恐ろしいものだが。
「おい、交代だ。前頸部を施術した。」
エイの声も邪物の巻き起こす風によってよく聞き取れない。このままじゃ交代しながらの連携プレーも難しい。
「エイ。僕がこのまま邪物の気を引き続けるから、指圧攻は任せる。」
「は。」
風に消されないように声を張り上げるとエイの短い答えが返って来る。
「エイならできる。」
返事が聞こえなくて、風のせいかと思って耳を澄まし続ける。しばらくして
「任せろ。」
頼もしい声が聞こえてきた。よし、それなら僕は本格的に邪物の気を引くよ。
にしても今まで通りに邪物の気を引いていてはだめだ。攻撃が強すぎてその攻撃から逃げるのに体力を使いすぎる。どうしたらいい。ジャンプしながら思考を巡らせる。気を引きながら体力を使いすぎない方法。そもそも体力を消費してしまうのはこの邪物の攻撃力が強いからだ。それなら攻撃を受けない方がいい。攻撃を受けずに邪物の気を引く方法。邪物の頭の中を僕に集中させる方法。左から迫って来る腕を見ていたらふと思いついた。そうだ、エイみたいになればいい。初めて会った日のエイの様に。
そうとなれば僕はジャンプで腕をかわした後、駆け出して邪物の背後へと回った。邪物は目の前にいた僕が突然いなくなって混乱している。僕を探すように邪物は首をひねった。その動きに合わせて僕も邪物の死角へと回る。
初めてエイと会った日、二人で対峙して僕は何もできなかった。その理由はエイがどこにいるのか分からないから。エイがどこから攻撃を仕掛けてくるのか分からず、頭の中はエイを見つけることに集中していた。今回はエイになりきればいい。ただし、僕の方から攻撃はしかけないから、その代わりに時折、僕の足や腕を視界の端に移りこませて僕を探すことの集中力を切れさせないようにする。
「ぐがががが。」
揺れる体で邪物は僕のことを探している。体が、特に首が動くたびに僕は邪物の次の行動を読んで新たな死角に入り込む。邪物の気が散漫してきたら邪物の目に映るぎりぎりに飛び込んでいく。一度スタイルが確立すれば間違えないように注意すれば何とかなかった。村の物も近くにあった薪が四方八方に転がっただけで済んでいる。近くにある家も奇跡的にどれも損傷していない。あとはエイの攻撃が終わるのを待つのみだ。あの日のエイの様に物音を立てないように気を付けながら、薪が散らばった場所を移動する。腕の揺れに当たりそうになっても、邪物が突然足を動かした時も、両腕が後ろに回って来た時も、何が何でも声を出さないように注意した。
邪物の動きもだんだん遅くなってきた。それどころか膝をついて座り込んでしまう。そして疲れ切ったように頭をかくんと下げて動かなくなった。
「エイ。」
「後は腹部の指圧だけだ。何かあった時のために見張っておけ。」
「うん。」
腹部の「の」の字型指圧の九点を押すエイ。その様子を見てから僕は邪物に視線を動かした。きっと、指圧が気持ちよくって寝ちゃったんだな。それにあんなに動いたし。そこまで考えて頭をぶんぶんと振った。油断禁物。何かあったらどうする。そんなことを考えていたら邪物の体が光り始めた。
ああ、無事に魂が元の持ち主に戻ったんだ。光が強くて目を閉じた瞬間に邪物はいなくなっていて、代わりに近くに十代くらいの女性が横たわっていた。
「聞こえますかー。」
声を掛ければ薄い瞼がピクリと動く。反応あり。魂が戻ったんだ。彼女をルリの魔法で家まで送り届けることにした。そのついでに貧血に効く指圧も伝授しよう。僕たちの討伐、二体目が完了した。
二体目の邪物を討伐した。ユウさんとエイさんとルリさんはもう合流して討伐成功を喜んでいる。
皆さん本当にすごいな。エイさんは一人で指圧攻を行って、ユウさんは一人で囮をやり切った。しかもメイさんの元では習わなかった独自の方法で。ルリさんだってすごい。周囲の家屋が無事なのはルリさんが魔法で守っていたからだ。決して偶然なんかじゃない。お三方はこの村の人々の大切なものを守り切ったんだ。それなのに、私は。後ろで見ていることしかできなかった。木の陰に隠れて三人を見守ることしか。私、何をしているんだろう。何のためにこのパーティーにいるんだろう。キャンパーの役割は、戦う事じゃないし、戦いをサポートする事じゃない。それでも皆さんの活躍を見ていると劣等感にさいなまれる。ただの小娘。本当にその通り。ただの、ただの小娘なんだ。私は。背負ったかばんに手を回す。ただの小娘でいるのは嫌。皆さんの役に立ちたい。
「君の魂は素晴らしいよ。」
耳元に聞こえた細く蠢くような耳にこびりつく声。
「今にも転がり落ちそうで危なっかしい。最高の魂だ。」
今にも転がり落ちそうって、危なっかしいって、最高の魂って、どういうこと。
声のする方を見ても誰もいない。周りを見渡す。やっぱり誰もいない。なんなの、今の。茫然と突っ立ているとユウさんが不思議そうに私の元へやって来た。
「アオイ?どうしたの?」
きっと空耳。自分のことが嫌になりすぎて脳が変な風になってしまったんだ。これ以上足手まといになりたくなくて私は咄嗟に嘘をついた。
「なんでもないです。皆さんお疲れ様です。」
邪物討伐から五日。僕たちは村でそれぞれの活動をしていた。僕とエイは訪問指圧を、ルリとアオイは畑仕事や裁縫と言った村の人の仕事の手伝いをしている。邪物を討伐したことにより、村の人たちからの好感度が上がり、皆親切にしてくれる。
「次も頑張らないとね。」
機嫌良く鼻歌を歌うルリをエイが咎めた。
「調子に乗るな。」
「乗ってないわよ。」
「どうみても乗ってるだろ。」
「まあまあ、二人とも。」
「ユウはどう思う。」
「あたし調子に乗ってないわよね⁉︎」
仲良く二人して僕の顔を見た。それからまたも仲良く顔が険しくなる。
「どうしたの?」
「邪物だ。」
「え。」
振り返れば僕の真後ろに邪物がもじもじしながら立っていた。
「まだ混乱も起こってないしちょうどいいわ。始めるわよ。」
ルリがフリフリのローブのポケットから杖を取り出す。僕たちも体制を整えた。
「不調は、胃痙攣。」
「一度攻撃の威力を見ておこう。」
「そうだな。」
邪物は僕たちのことをまじまじと見てから、おろおろと目を左右へ動かす。それから控えめにゆっくり腕を振り上げた。なんて弱々しく遠慮のある攻撃なんだろう。これならメイさんに習った攻撃法で行ける。
「よし。まず俺がいく。」
「分かった。」
エイが邪物の背中に飛び乗った時、アオイの声が聞こえてきた。
「仲間は私の他にユウとエイと言う名前のアタッカーが二人と、魔法使いでディフェンダーのルリがいます。」
「そうか。仲間までの案内ご苦労さま。」
平坦な冷たい声の主がユウの元へ歩いて来た。
「君が?」
「僕はユウです。」
邪物討伐軍隊の制服を着ている。胸元の星のバッチが夕陽に照らされてきらりと怪しげに光った。
「そうか。提案があるんだ。その邪物を我々軍隊に倒させて欲しい。」
「え?」
「たまたま任務の移動中に通りかかったのだが、新人隊員も多いことだし練習という事でね。実践は多い方がいいから。」
「待ってください。これは僕たちが任されたことです。」
「上には私から伝えておくよ。」
軍隊の邪物の倒し方には納得がいかないので何としても阻止しなくてはいけない。邪物を苦しめつけて、人を犠牲にするなんてこと絶対にしてはいけない。それに、練習なんて言葉も納得いかない。練習?邪物討伐は常に本番だ。誰かの命を、誰かの大切な人を奪いかねないのだから。練習なんて言われてたまるか。
「いえ。僕たちが指圧攻で倒します。」
「そうかい。」
「軍のやり方は好きではないので。」
「困ったねえ。」
涼しげな顔でこちらを見やる姿は困っている様子なんてみじんも感じない。
「そうだ。じゃあこうしよう。邪物を僕たちがすぐそこの崖の行き止まりまで連れていく。そこで君たちは邪物を倒す。そうすれば村への被害も最小で済むだろう。どうだい?」
それはいい案かもしれない。村への被害はなるべく抑えたい。
「分かりました。」
「本気?」
杖を軍人に向けながらコツコツとヒールを鳴らしてルリが歩いて来た。
「ルリ。杖を向けない。僕たちのパーティーは誰も傷つけないのが約束だ。」
「そうだけどね。」
ルリは試すように上から下までまじまじと軍人のことを見てからため息をついた。
「分かったわ。エイ、降りなさい。軍隊と共闘するわよ。」
「はあ?」
心底信じられないのだろう。普段からは考えられないほどの大きな声をエイが出した。
「本気か。」
「その方が村に被害が出ないんだ。」
「ユウ。」
エイが何か言おうとした時、邪物が胃を抑え込むしぐさをした。同時に地面が少し揺れる。
「早く。村に被害が出る前に。」
「そうだよ。君一人の意見を待っている暇はないんだ。」
「たく。」
エイは顔をしかめてから邪物から降りてユウの横に立った。その様子を確認してから軍人は部下たちを呼びに行く。
「あの透かし顔の言う事、本当なんだろうな。」
「そう思うよ。」
「パッとみ三十代前半かしらね。かなりイケメンだったわ。」
「もしかしてじろじろ見てた時そんなこと考えてたの⁉」
僕が突っ込めばルリは肩をすくめた。
「別にいいでしょ。」
「ルリさんは面食いと言う部類の人間なんですね。」
「違うわよ。」
ルリが声を荒げて否定していると後ろから静かな笑い声が聞こえた。
「随分仲のいいパーティーですね。ここまで仲のいい人たちは見たことがない。」
「いえ、今のは、その。」
しどろもどろになるアオイを見て軍人は優しく笑う。
「いやいや。からかってしまって悪かったね。しかし本当に仲が良いと思いますよ。」
それだけ言うと軍人は全員で恥ずかしくなっている僕たちパーティーの横を通り過ぎた。
「さあ。ここからは僕たちに任せてください。」
何人もの軍人たちが銃を構えて邪物の目の前に立つ。それでも攻撃することはなく発砲音や近くに転がった石などで気を引き付けて、崖近くまで上手く誘導していく。本当に新人ばかりの部隊なのだろうか。手慣れている。
ぱんぱん。ぱんぱん。音が鳴るたびに邪物は耳を塞ぎながら崖へと追いやられていく。よし。約束通りの展開だ。そろそろ僕たちの出番だろう。そう思って僕とエイが軍人たちの間に入ろうとしたらぐいっと押し戻された。
「え?」
「馬鹿。大人しくしてろ。」
「え?」
信じられなくてもう一度聞き返す。大人しくしてろってそろそろ僕たちの出番だ。指圧攻の出番なはずだ。なのに、なんで?
「君はいい人過ぎる。」
気が付けば横にあの軍人が立っていた。
「僕の言葉をやすやすと信じて、疑うということを覚えた方がいい。」
「え?」
この期に及んで僕の口はそれしか発せない。
騙された。嘘だ。なんで、なんで?
「なんで?」
「君が引きそうになかったから仕方なく。僕たちは任務地以外でも邪物がいるなら倒す。それが使命だからね。指圧攻なんて言う愚かな戦い方をしている時点で生ぬるい人間だと思っていたが、考え方まで生ぬるい。」
ふっと鼻で笑うと軍人は大声で叫んだ。
「撃て。」
ぱんぱんぱん。これは、空砲じゃない。数々の銃弾が邪物の体を襲う。
「ふざけんな。通せ。」
部下の軍人たちに果敢に立ち向かうエイの姿が見る。顔をしかめたルリに、手で口を覆うアオイ。
「やめ、て。」
僕の抵抗の声は驚くほど小さい。ああ、なんで。なんでこうなったんだ。なんでこの人の言葉を信じたんだろう。僕のせいで、邪物が苦しみ、一人の人間が犠牲になる。
「ぐががががが。」
体を丸めた邪物の姿。あの日と同じだ。真っ赤な夕日が、火の手が回った町を思い出させる。目の前の邪物があの日の邪物と重なる。そして、今回も僕は何もできない。今回もへたり込んでいる。
そんな、なんで。邪物体から血がドバドバと出る。邪物の目元から涙があふれだした。何て痛々しいんだ。それなのに力が出ない。呼吸が苦しい。邪物の方が苦しいはずなのに。体中に走るしびれ。
「やめろ、今すぐやめろ。」
エイの声がユウを現実に引き戻した。
「そんな。」
邪物は光り出して消えかけている。ああ、救えなかったんだ。僕のせいで、救えなかった。
「元気がないわね。しっかりしなさいよ。」
バン、とルリに背中を叩かれる。
「うん。」
「今日から新しい任務地に行くんだ。思うところはあるだろうが立て直せ。」
「うん。」
「気に病むのは分かりますが、次に行きましょう。」
「うん。」
僕があの人の言葉を信じたから救えなかった。その罪悪感が身をまとい、毎日気分が乗らない。
あれから三週間、邪物が現れることもなかったので、みんなは村で手伝いをしたり指圧を広めたりしていたのに、僕は部屋でずっと寝込んでいた。訓練もエイに無理やり連れだされて何とかこなす毎日。こんなんじゃいけないと思いつつあの日のことが少しでも頭によぎると気分が悪くなる。皆に迷惑をかけていると分かっていても僕は落ち込んでばかりいる。
「とにかく行くぞ。」
いつも横に並んでいたはずのエイの背中を僕は追いかけていた。
「暑くなってきたわね。」
ルリはぱたぱたと顔を手で仰ぐ。
「ルリさんはローブ、脱がないんですか?」
「脱ぐわけないじゃない。格好がつかないもの。」
「見た目にこだわるな。」
先を歩く三人が眩しく見える。僕はその会話についていけない。なんであんなに元気なんだろう。
「次の任務地は温泉が出るそうですよ。みんなでのんびりしましょう。」
わざわざ振り返ってアオイがそう言った。僕を励ましてくれているんだろう。それなのに僕はうまく返事ができない。
「そうだな。休める時に休もう。」
いつもストイックなエイまでそんなことを言う。
「どんな町なのかしら。楽しみだわ〜。」
ルリの声もやけに明るい。僕はどれだけみんなに気を使わせたら気が済むんだろう。いつになったら元に戻れるんだろう。いつまでもあの日を引きずってはいけないのに。僕は邪物討伐パーティーに所属しているアタッカーなのに。
僕に歩幅を合わせて歩き始めた三人に感謝しながらも心の中はマイナスな気持ちでいっぱいで胸が苦しい。早く元の僕に戻らなくちゃ。そう思えば思うほど胸が締め付けられて、息をしていることさえもどかしい。
「きーめた。今にしよう!」
突如として響き渡った声。背筋が凍るような耳障りの悪い声に似つかわしくない幼い口調。
「今のはなんだ。」
エイが素早くあたりを見渡す。ルリも杖を取り出した。その中で一人、アオイだけが耳を手で押さえてがくがくと震えている。
「アオイ?」
「皆さんにもこの声が聞こえるんですか?」
「うん。」
恐々耳から白い手を放してアオイは全員に問うた。
「今回が初めてですか?」
「うん。」
「私は二回目です。以前もこの気味の悪い声を聞きました。」
「へえ。覚えててくれたんだ。光栄だよ。」
アオイはピクリと華奢な肩を跳ね上げる。
「やあ、僕はネン。」
「ネン。お前が邪物を生み出している親玉か。」
臨戦態勢に入ったエイを見て僕もエイの横に立った。
「まあそんなに焦らないで。僕は素晴らしく弱い魂を解放しに来たんだ。ついでに邪魔者も片付けてしまおうということでね。」
「どう考えてもついでが本命じゃない。」
ふんと鼻を鳴らしたルリを見てネンは顔を歪めて笑った。
「まあいい。取引をしよう。僕が君たちの魂を解放してあげる。どうだい?悪い話じゃないだろう?」
「悪い話にしか聞こえないわ。」
「そんなことはない。苦しみから解放してあげるよ?」
ネンはコクンと首をかしげて見せる。
「解放って言っても魂を奪って失神状態にするんでしょ。そうして邪物を作り出す。エイたちから聞いたわ。」
「まあまあ。で、解放してほしい人は?あれ、いないの?おかしいな。このパーティーは世間的弱者や臆病者の集まりだと思ってたけど。」
拍子抜けした様にそう言うとネンは肩をすくめた。
「そっか。それなら仕方ないなあ。」
ポケットから杖を取り出したかと思うと、一振りして手の上に小さな鳥かごを出現させた。
「仕方ないなあ。とってもいい魂があったのに。ねえ母さん。」
ネンは口をすぼめながら鳥かごの扉を開け、もう一度銅色の杖を振りかざした。途端に目の前に邪物が現れる。あの鳥かごの中に入っていたのがこの邪物だったのか。
「惜しいよ。今にも割れそうな魂なのに。ああ、君じゃないよ。」
ネンはプルプルと震えていたアオイのことを顎でしゃくった。
「え?」
「確かに君の魂はこのパーティーの中で一番弱かった。でも今は違う。一番魂が弱いのは君だよ。ユウ。」
「僕?」
「そうだよ。何があったんだか知らないけど、君の魂は以前よりずっと弱い。今にも割れそうだ。良く持ちこたえているね。でも大丈夫。僕が楽にしてあげる。」
ネンが気味の悪い笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
「ユウ、魂は無理には奪えない。魂は家主、つまりお前に忠実だ。お前にだけは逆らわない。だから間違ってもあいつに魂を渡すなんて言うな。」
「う、うん。」
「お前らもだ。絶対に口にするなよ。」
「はい。」
「分かったわ。」
全員が頷いたことを確認した後、エイは邪物に向き直った。
「まず邪物だ。邪物を何とかする。ネンのことはその後だ。」
「分かった。」
「ルリ、不調は?」
「低血圧。」
「よし。今回は俺が指圧攻を行う。ユウは邪物の気を引き付けろ。」
「分かった。」
今のユウはどうもぼおっとしている。ずっと軍隊によって葬られた邪物のことを考えているのだろう。確かにあれは悲惨だった。俺も落ち込んだし今でも罪悪感が湧いてくる。それでも何とか気持ちを立て直して今ここに立っている。無理に早く前を向けとは言わないが、いつまでもあの調子では本来の目的の邪物討伐が出来ないだろう。そんなことを考えていた矢先にまさかネンと会うことになるとは。
邪物の前でトントンとジャンプして準備運動をしてから勢いよく真っすぐ飛び上がり最高到達点に達した時に邪物の体をつかんだ。今のユウの調子じゃ、指圧攻どころか気を引き付けるのもまともにできないかもしれない。なんとか俺一人でやり切るしかない。邪物の腰に到着したのでもう一度真っすぐジャンプする。
低血圧は最高九十、最低六十くらいのことを言う。低血圧の人は疲れやすく、めまい、目が疲れやすい、不眠、頭痛、注意散漫、どうき、息切れ、冷え性、食欲不振、胸部や胃部の圧迫感などを訴えることが多い。いずれにしても漠然とした症状から軽い貧血症やノイローゼで片付けられてしまうこともある。また、朝に弱く怠けていると言われ苦しむことも多い。
「ん。」
肩に着地した。首の前側にある前頸部の一点目を片手母指圧で押していく。
「片手母指圧。」
次に邪物の首の後ろに回り後頭部を目指した。後頭部に置かれた三つのツボが次の場所だ。ジャンプするには微妙な距離だったので登っていくことにした。
「両手三指圧。」
奥深くに押すイメージをしながら指圧する。そのままスーッと下がって髪の生え際辺りにある延髄部の指圧に取り掛かった。
「中指重ね指圧。」
両手の中指を重ねて行うこの指圧。一点に力を集中させる。この次は背中側の指圧だ。再度滑るようにして下へと、背中へと降りていく。ここだ。肩甲間部、肩より少し下、両側の肩甲骨の間の背中のツボを押す。
「両手母指圧。」
両手の親指をくっつけて「ハ」の字を作る。上から下へ。最後に腹部の「の」の字を指圧しようと考えていた時だった。
「あぶな。」
落ちないように手に力を入れてしっかり捕まる。さっきまで大人しかったのに、何なんだ?
「ユウ、こっちに来なさい。」
「ぐがががが。」
邪物が腕を振り上げたのが分かった。手に持っているのは、木。そうか、木を引っこ抜くことに集中していたからあまり激しく動かなかったんだ。そう思ったのもつかの間、邪物は木を投げつけた。
「嘘だろ。」
相手はユウか、それともルリかアオイか。誰なのだろう。とにかく俺はここを離れるわけにはいかない。
「ユウさん!」
アオイの甲高い声が聞こえてくる。ユウが狙われたんだ。
「ユウ、危なかったわね。大丈夫?」
どうやら無事の様だ。
「エイ、気にせずに指圧攻を続けなさい。」
「ああ。」
俺はあいつらを信じる。心配していたユウだって今の攻撃をよけることができた。大丈夫だ。信じろ。三人のことを。
左頬からの微かな痛み。何かが流れる感覚。左頬に添えていた手のひらを見てみれば、赤いものが付いていた。血だ。左頬から、血だ。どくどくと胸が鳴り響く。あの時と同じ場所から、血が出ている。
血が苦手になった明確な理由がある。幼い頃酔っ払いに絡まれて殴られそうになった僕を助けてくれた人がいた。そのお兄さんのお陰で僕は怪我をしなかったけれど、お兄さんは酔っ払いの持っていた瓶の破片で左頬を切ってしまった。
『大丈夫だよ。ほら。もう血は止まっている。』
そういってお兄さんはくしゃっと笑ってくれたけれど、血の流れた跡のある頬が痛々しくて。僕のせいでお兄さんは怪我をした。そう思ったら胸が苦しくて。あの日から血を見るのが苦手になった。
「ぐががががが。」
邪物の唸り声が僕を現実へと引き戻す。邪物はさっきよりも大きな木を手にしている。またあれを投げるつもりだ。僕が気を引き付けなきゃ。そう思っても動けない。力が抜けてしまっている。どうして大事な時に。邪物は僕に向かって木を投げてくる、と思ったのに木は別の軌道を描いた。
「そんな。」
フェイントだ。後ろを振り返るとルリが眉間にしわを寄せて杖を両手で握り締めていた。その横に目をぎゅっとつぶったアオイが立っている。ルリは前方に巨大な盾を何枚も重ねている。なんとか、持ってくれ。
「がっしゃーん。」
辺りをかき消すような音がして思わず耳を塞ぐ。それでも目をしっかりと開けて何があったのかを確認した。ルリの盾が木を跳ね返していた。
「危なかったわね。盾があと一枚足りてなかったらやられてたわ。」
前髪をかき上げるルリの声は緊張からか上ずっている。アオイはすっかり腰が抜けてしまったようだ。味方を危険にさらしてしまった。パーティーの約束は自分も味方も邪物でさえも傷付けない。それなのに僕は自分を傷つけて、味方までもけがを負わせるところだった。もちろん邪物も助けたい。でも邪物だけじゃなく自分と味方を守らないと。なんで忘れていたんだろう。体に力が湧いて来た。僕はこのパーティーの約束をしっかり果たすんだ!
邪物は手あたり次第に木を抜いては僕に向かって投げてくる。僕はそれをかわしながらあちこちへと移動した。ルリとアオイに危害が及ばないよう邪物の神経を僕に集中させる。
「しぶとい奴だな。まだ消えないのか。」
エイの舌打ちが聞こえてきた。
「ルリ、本当に不調は低血圧なのか?ここまで指圧して消えない邪物は珍しい。」
「本当よ。試しにもう一度調べる?」
ルリの不機嫌そうな声が聞こえてきた。ルリが誤診?そんなことあるのか?
「嘘でしょ。」
「お前間違えたのか?」
「間違えてない。不調が変わってる。」
「はあ、言い訳すんな。」
「いい訳じゃないわよ。本当なの。さっきは不調が低血圧だった。だけど今は貧血になってる。」
「んなわけないだろ。」
エイが頭を抱えた。
「本当なの。」
「仲間割れかい?いいねえ。君の魂も素敵だよ。ルリ。」
「うるさいわね!」
ルリが地団太を踏んだ。
「エイ、ルリの言うことを信じよう。仲間割れしていたら魂が弱るだけだ。仲間を信じようよ。」
エイは目をカッと見開いてから小さく頷いた。
「そうだな。すまない。」
「いいよ。エイ、交代しよう。」
「ああ。」
貧血とは血液中の赤血球の数が少ない場合を言う。貧血状態になると疲労しやすくなったり、どうきやめまいたちくらみを起こす。更には皮膚の色つやも悪く内臓までもが弱ってしまう。
いつも通り邪物の後ろに回りたかったが、ネンが立っているので断念した。ネンが何を仕掛けてくるか分からない。しかたなく正面から邪物の体に飛びつきジャンプで上へ移動する。喉の当たりに到達したので位置を確認してから前頸部の指圧を始めた。
「片手母指圧」
左右四点を上から順に指圧していく。その次に首の横側に回って側頸部、更に後ろの後頸部を両手の三指の接しながら同時に押す指圧
「両手三指圧」
で指圧する。更に延髄部を右中指の爪の上に左中指の指紋部を当て圧を集中させる
「中指重ね指圧」
を行う。
「ぐががががが。」
邪物がぐわんと体を回した。それからよろよろと右に左に揺れ出す。振り落とされないように必死につかまりながらその間に次の動きをシュミレーションする。次は背中に行こう。首の後ろ側から背中へとそろそろと降りていく。ここで踏み外したらいけない。慎重に慎重に。
「ヒイイイ。」
今までとは違うヒステリックな声を邪物が上げた。初めて聞く声に、アオイじゃないが僕の肩も跳ね上がる。なんなんだ、今の悲鳴。聞いているだけで胸が苦しくなるような悲鳴。
「気にするな。」
そうだ気にするな。別のことは考えるな。深呼吸して背部十点のツボに向き合う。
「両手母子圧。」
上から下へ。ゆっくりと丁寧に。次は手のひらにあるツボを押すために移動することにした。邪物の体を借りてポンと上に跳ね上がり、肩の上に着地する。次はそのまま腕を滑る様に足を使って下りて手首の位置で一度止まった。そろそろと手のひらが見える位置に移動する。手心、手のひらの中心にあるツボだ。
「片手母指圧。」
親指を使って五秒間ツボを押した後、ゆっくりと五秒かけて離す。それを何度か続けてから、左へ大きくジャンプして邪物の腹につかまった。少し横移動してまた左へジャンプ。左手の手心にも同じように処置を施す。つぎは右にジャンプしてまた腹に戻って来た。さくさくと下へ移動する。血海と呼ばれる足の内側にあるツボが目的地だ。お皿の上端の角から指三本分上がった場所で左右両側にあるツボだ。親指を使って強めに押すのがポイントだ。邪物にとっての左足から右足へジャンプで移動して右足の血海のツボも押し終わった時、邪物の手が僕に向かって伸びてきた。
「うわ。」
背をそることで回避したが、もう一度攻撃がやって来る。次は邪物の体に絡まりついている僕の足を狙ってきた。ここでやられては絶対だめだ。ぎりぎりで邪物の体から体を放したことで攻撃をよけた。まずい。このままだと地面にぶつかる。受け身を取ってころころと地面に転がる。すぐに立ち上がって邪物の腹へ向かおうとすると邪物の手で遮られた。
「気を付けろ。」
邪物は拳でばんばんと地面を叩く。そのたびに地面が大きく揺れた。
「うわああ。」
「あたしにつかまらないで。ヒールはいてるから共倒れよ。」
アオイとルリが後ろで騒いでいる。体幹を鍛えていないと立っていられないくらいの激しい揺れだった。
「ユウ、気にせず行け。」
「うん。」
ばんばんと地面に拳を打ち付ける邪物の手をかわしながら邪物の腹部に向かった。
腹部に飛びついたが揺れる反動で動きにくい。ブルブルと一緒に震えながら腹部の「の」の字型指圧の九点を目指す。「の」の書き順を思い出しながら一つ目のツボにたどり着いた。
「重ね両手掌圧。」
右手の甲の上に左手の掌を乗せて安定させ、右の掌で掌圧する方法だ。重ね両手掌圧、からの
「両手三指圧。」
この二つの組み合わせを「の」の字のツボに合わせて繰り返していく。ずずっと下がって、二つ目のツボ、その次も下がって三つ目のツボ。四つ目は斜め左に上って、五つ目は四つ目の上。初めのツボの位置に戻ってそこから斜め左に下がって六つ目。更に下がってすぐのところに七つ目、八つ目、九つ目。下へ上へとものすごい速さで駆け回る。
「の」の字指圧は沢山動くから息が切れる。そろそろ邪物が消えてもいい頃なのに消える気配がない。息を整えようとした時、邪物が体を振り回した。
「あ。」
まずい。落ちる。振り落とされた僕を待つのは固い地面。咄嗟のことで上手く受け身が取れない。ああ、怪我をしてしまう。血が出るかな。怖くて、僕はただぎゅっと目を瞑った。
嘘だろ。ユウが邪物の腹から振り落とされた。いつものあいつなら受け身を取れるが今回はそうもいかないらしい。あんな高いところから受け身も取らずに落ちたら大変だ。骨折か内臓破裂か。考えるだけでぞっとする。どちらにしても恐ろしく痛いだろう。俺が受け止めたら痛い思いをせずに済むだろうか。いや、失敗したら俺も痛い思いをする。そう思ったのに、俺の足はあいつを受け止めるために動き始めていた。
「ユウさん!エイさん!」
落ちてきた僕をエイが受け止めてくれたらしい。でも、上手くいかなかった。急いで痛まない方の足でエイから体を離す。
「ごめん。エイ。」
「俺が勝手に動いただけだ。」
顔を歪めながらエイが呟いた。表情筋が動かないエイがこんな顔をするなんて。痛みが苦手な彼のことを思うと胸が苦しい。胸だけじゃない、足が痛い。
「ユウ、あんた左手足を捻ってる。エイも右足を骨折してるわ。」
そんな。アタッカー二人が一気に怪我。そんなのまずすぎる。
「ルリ、すぐ治せる?」
「これぐらいの怪我だとある程度時間が必要よ。急いでも五分か十分はかかる。」
その間どうやって過ごせばいいんだ。邪物目の前に、そしてネンを目の前に戦闘力ゼロの僕たちはどうしたらいいんだ。
「どうすんだよ。」
左足だけを使ってエイが立ち上がった。
「どうするって。あたしが二人を治して。」
「その間どうする。その間誰が時間稼ぎすんだ。」
「エイ、ルリに当たらない。」
でも本当にどうしたらいいんだ。僕たち三人は完全に行き詰ってしまった。
「皆さん、私に任せてください。」
いつも大切に背負っていたかばんをアオイは下ろす。
「何言ってる。」
「私ごときがどれほどお力になれるか分かりませんが。」
アオイはかばんの中から沢山の筒がジャラジャラと付いたポシェットをごそごそと取り出した。
「出来る限り力を尽くします。ルリさん、その間にお二人の治療を。」
「え、ええ。」
「ルリさん、不調は低血圧のままですか?」
「ううん。変わってる。自律神経失調症。」
「分かりました。あとは任せてください。」
僕たち三人に背を向けて、アオイは邪物の目の前に立った。
「お二人が回復するまで私が相手です。」
ポシェットを握り締めてアオイはそう言い放った。
「アオイ、何する気だ。」
「そうだよ。無茶はするもんじゃない。」
「私も、メイさんの元で学びました。少しくらい役に立ちたいです。」
「よくそんなに弱い魂で立ち上がろうとするね。さぞ苦しいだろうに。」
「黙っててください。」
いつも大人しいアオイが珍しく声を荒げた。
「私は、私もこのパーティーの一員だと胸を張って言えるようになりたいんです。そのためなら苦しくても立ち向かいます。魂が弱くてもあがくのは自由だと思うから。」
アオイはきりりとした顔でそう言うと走り出した。
分かってる。私が出来ることは限られている。それでも、邪物目の前にアタッカー二人が負傷している状況で何もしないなんて、私には出来なかった。大丈夫。私もメイさんの元でお二人ほどじゃないけれど指圧攻を学んだのだから。
自律神経失調症。自律神経とは無意識に自動的に働く神経のことで、交感神経と副交感神経がある。一方の作用が促進するともう一方の作用が抑制するというバランスを取っているのが自律神経で、内臓全般、分泌、循環、発汗、呼吸などに左右する重要な神経。
片方の神経が促進してもう片方が抑制する機能を失うと自律神経が乱れ、バランスを失い、下痢、便秘、発汗、ふるえ、頭痛、冷え、どうき、不眠、ほてりなどの症状をきたす。体温調節が上手くできなかったり、倒れやすかったり、朝起きられないことが多い。自律神経失調症の方は自己管理の足りなさのせいにされて他人から甘えだと言われることがあるという。
たたたっと走って邪物の気を引くためにポシェットの肩ひもに引っかかった筒の中からメイさんに渡されたぱちぱち爆弾を取りだして地面にたたきつけた。しばらくするとぱちぱちと音を出しながら煙を噴き上げ始める。
「ん?」
邪物はぱちぱち爆弾が気になるのかつぶらな瞳を向ける。そしてそろそろとぱちぱち爆弾に近づいて来た。ぱちぱち爆弾には毒性要素はないから邪物がどんなに近づいても傷つくことはない。
ユウさんやエイさんのようにジャンプで一気に登ることはできないので、気を引き付けている間に邪物の足首から上へ上へと登っていく。途中振り落とされそうになって、もう一度気を逸らすためにぱちぱち爆弾二を地面に投げつける。ぱちぱち爆弾二はぱちぱちがさらに激しくなる代物だ。
延髄部にあるツボを目指して登り続けて、やっとたどり着いた時には息が上がってしまった。大丈夫。大丈夫。緊張と息切れによる鼓動がうるさくて周りの音が聞こえなくなってきた。
「な、中指重ね指圧。」
訓練以外で初めて口にした。緊張でうまく口が回らない。全身を使って一点に圧を集中させる。メイさんは私をキャンパーとして育てる傍ら、指圧攻も扱えるように育てた。実際ユウさんとエイさんの技術には到底及ばないけれど、知識だけはある。あとはこっそり練習していた実技が追い付いていれば。
そろそろと下を確認しながら背中へと移動していると邪物の手がこちらに伸びてきた。
「あ!」
咄嗟に肩ひもからつかんだのはシュワシュワ雲の筒。迷いなく地面にたたきつければシュワシュワと音を立てながら地面にもこもこの雲が出来上がった。あれも無毒。
邪物の興味はすぐにそちらへ移った。助かった。私は攻撃をよけられるほどの技術はないからこうやって道具の力を借りて乗り越えていくしかない。でも、それでいいんだ。私は私が出来ることを出来る範囲でする。
背部のツボを上から下へ、慎重に押していく。まだシュワシュワと音がするから邪物はしばらくは大人しいだろう。落ちないように気を付けながら指圧を施して、次の目的地は手だ。
もう一度上に上がって首をつかみながら正面に回って下へそろそろと降りていく。途中何度も足を滑らせた。その度になんとか持ちこたえる。ユウさんやエイさんのように風のように動けないけれど、着実に行きたいツボに移動できている。
「片手母子圧。」
中指から下がった手の中央辺りにあるツボ、心包区。時間をかけてよく押し、もみこんでいく。更に合谷と呼ばれるツボに向かう。親指と人差し指の骨が交わった部分から人差し指に向かって順番に押していって痛みを感じた場所にあるツボだ。順番に押していって邪物の反応を伺う。あ、顔をしかめた。ここだ。ごめんね。ちょっと痛いですよね。必要以上に邪物の気をあおらないように反応を確認しながら指圧していく。
同じようにもう一方の手にも処置を施す。それだけで体力の限界が来た。最後に足の部分の指圧もしたい。ちらりとルリさん達の居る場所を見る。まだ時間がかかりそう。もう少し、もう少し時間を稼がないと。それに指圧だって終わってない。上下する肩を押さえて、ぐっと体に力を入れる。その時
「あっ。」
邪物の手がまたこちらに向かってきた。危ない。私は力を振り絞って筒を地面に投げつけた。
どっからどう見てもアオイは疲れ切ってる。もう体力は残っていない。あたしの足元でぐったりと倒れた二人を見る。二人が全回復するまでにあの子が耐えられる可能性はない。
「いいねえ。自分で体も魂も傷つけて。前々から思っていたけど、君は本当に最高だよ。」
それでもアオイの耳にはネンの言う事なんて耳に入らないようで必死に動いている。ほら、次は足の方へ移動しようとしてる。あの子は凄い。あの子のために、このパーティーのために私がすべきことは、一つなんじゃない?
耳を飾るピアスを触った。本当は最終手段なんだけど。今使わなかったらいつ使うんだって話よね。本当は、残しておきたいんだけど。でも、三人はあたしに居場所をくれた。両親が亡くなってから魔女の谷で遠巻きに見られていたあたしに居場所をくれて、普通に接してくれて。それなら、することは一つなんじゃない。お母さんもそれを望んでるはず。
右耳のピアスを外して、地面に落とした。ガラス細工でできたピアスはいとも簡単に粉々になる。そしてもくもくと煙が立ち始めた。その煙に向かって手の平を向ける。
「ルリ、何してる。それは大切な物なんだろ。」
「そうなんだけどね。これが必要なの。」
「なんで必要なんだよ。」
「あたしの魔力は使い過ぎで一時的に魔力がなくなりかけてる。だから補給したの。あのピアスの中にはお母さんの魔力が入ってたからね。」
「でも、大切な物なんだろ。」
「大切なものだから、大切な人たちに使うの。」
「いいのかよ。」
「ええ。」
「いやでも。」
「お母さんもお父さんも喜んでると思うの。落ちこぼれのあたしが、恵まれた仲間に出会って、楽しく邪物討伐してるって知ったら。だからいいの。あたしをこのパーティーに入れてくれてありがとうね。」
魔力が体になじんできた。そろそろいい頃合いだわ。杖を持つ手に力を入れる。一分も経たないうちにユウが突然立ち上がって、邪物に向かって走り出した。そう、それでいいの。まだエイはあたしの足元でぐったりとしているけれどもう少ししたら元気になるはず。
軽くなった右耳が寂しいけれど、同時に晴れ晴れとした気持ちになった。
重い瞼を開ければぼんやりとしていた視界がだんだんと鮮明になってきた。足の痛みがいつの間にか引いている。ルリの魔法のお陰だ。アオイが一人で邪物と戦っているのが見える。息絶え絶えの彼女が地面に降り立ったのを邪物は見逃さない。邪物の腕がアオイに向かって伸びてきた。アオイはふらふらした足取りでまた筒を地面に投げつけた。キラキラと何かが舞っている。邪物が気を取られている間に逃げるつもりだ。それなのに、アオイは自分の足につまずいた。邪物が音のした方向へと顔を向ける。アオイのことを目でとらえた。邪物の手がアオイに伸びる。転んだアオイは動けずにいる。まずい。
僕の足はアオイに向かって無意識に動いた。
「ガッ。」
邪物の掌を両腕で受け止めた。
「ユウさん。」
「アオイ、ありがとう。」
そして邪物の手を押しのけた。
「アオイ、ルリの所に行こう。」
アオイを支えて立たせると僕たちはルリの元へ急いだ。
「ルリ、アオイを頼むよ。」
「あんた頑張ったじゃないの!胸張んなさい。」
「はい。」
ルリはアオイの頭をぐりぐりと押した。
「ルリさん、不調は?変わってますか?」
浅い呼吸でなんとか出した声はかすれている。
「今見てみてみるわ。あたしにつかまってていいわよ。」
ルリはアオイを抱えながら杖を握った。
「変わってる。冷え性。」
「分かった。エイ、行こう。」
「おう。」
ルリがアオイに回復魔法をかけ始めたのを確認してから邪物に向かって行く。
「俺が引き寄せる。」
「うん。」
邪物は悲しげに大声で叫んでいる。ただひたすらに叫び続ける邪物の目の前まで行って、高くジャンプする。もう一回ジャンプ。そうすれば首にたどり着く。頸部、首の指圧をはじめにする。前頸部を
「片手母指圧。」
で。側頸部は
「片手掌圧。」
手のひらで押していく。さらに後頸部は
「両手三指圧。」
で指圧する。一気に首周りを指圧したところで次に肩甲上部の指圧に取り掛かる。
「片手三指圧。」
ルリがかけてくれた回復魔法のお陰で体が物凄く軽い。動きが俊敏になって指圧に集中できているし頭もよく回る。邪物も体を動かさずに叫んでいるだけなので指圧攻しやすい。
そのまま下へ移動して脇の下のくぼみにある腋窩部と言うツボをとらえる。
「片手母指圧。」
よし。手の指圧はエイに任せよう。まだまだ軽い体で一気に下へ飛び降りた。着地も完璧だ。体の調子がすこぶるいい。
「エイ、交代。手の指圧を頼むよ。」
「分かった。邪物は今大人しいから下手に攻撃するなよ。」
「うん。」
大人しいって言っても、ものすごい大声で叫んでるんだけどね。
しばらく本当にすることがなかった。邪物がただひたすら叫んでいるのを聞いているだけ。あちらから何か仕掛けてこない限りはこちらからは何もしない。けれど邪物の気は急に変わった。
叫んでいた邪物と目が合ったのがいけなかった。邪物は先ほど投げた木を手に取って僕に向かって投げようとする。でもその攻撃には慣れた。さっと避けよう。そう思ったのに邪物の後ろの方からぼこぼこと音がした。
「メイさんから頂いたぼこぼこ泥です。役に立てました?」
僕の横には首を傾げたアオイが立っていた。
「アオイ!回復したの?」
「はい。すっかり元気です。ルリさんの魔法は、温かいですね。ポカポカします。」
ふふっと笑ってからアオイはポシェットを背負い直した。
「秘密兵器ってそのことだったんだね。」
「はい。体力のない私の戦い方です。メイさんが役に立ちそうな試作品を沢山渡してくださったんですよ。」
「そうだったんだね。助かったよ。」
邪物はぼこぼこ泥に気を取られて僕らのことをすっかり忘れている。
「な、なあ。苦しみから逃れたいだろ?」
急にネンから話しかけてきた。
「断るよ。」
「私も結構です。」
「君たち二人はとても弱い魂を持っていたのに。」
「弱くても魂を手放す気はないよ。僕は僕らしく生きていければいい。そうしているうちに成長して魂が強くなるかもしれないし、別に弱いままでも構わないって思うよ。」
「なんだよ、それ。」
「お前、焦ってるんだな。」
エイの良く通る声が辺りに響いた。
「この邪物は俺たちが倒した。」
見れば邪物はまばゆいほどの光を身にまとっていた。
「最後の方は大人しくて助かった。観念しろ。お前を政府に突き出すぞ。」
「やめろ。」
その時初めてネンが声を荒げた。
「そんなことしたら母さんが苦しむじゃないか!」
「母さん?この邪物の魂はお前の母親か。」
「そうだ。」
「なんでお母さんは苦しむの?」
「それは、母さんが。」
ネンは先ほどまでの勢いをなくして肩を落とした。
「お母さんが?」
なかなか口を開かないので続きを促すとネンは肩を震わせながら思いを吐き出した。
「母さんは体にいくつもの不調を抱えていた。重い病気でもないのに毎日苦しそうに、だるそうにしている母を見ているのが嫌だった。家事もろくにしないからと僕らは父に捨てられた。周りからもただの甘えだと言われ、毎日体も心も苦しみながら生きる母を見て僕は決めた。母の苦しみを解放してあげようと。その日から幼かった僕は沢山の魔法書を読み、怪しい魔術師の元に通いつめた。そしてある日見つけたんだ。苦しみから解放する方法を。魂を取り除き、行き場の失った魂で怪物を作る。その怪物が生きている限りは人間が死ぬことはない。母さんとは話せなくなってしまうけれど、それが幼い僕には最善の方法に思えた。もう十二年前になるかな。」
「あんたの魔法の使い方は間違った魔法の使い方だわ。」
とがった声でルリが言えばネンは目を逸らした。
「それでも僕にはこの方法しかなかった。」
「そんなことない。魔法の使い方をちゃんと学べば、もっといい方法があったわ。」
同じ魔法使いとしてルリは思うところがあるのだろう。ネンのことを淡々と責め立てている。
「ルリ、一旦落ち着こう。君はお母さんを苦しみから救いたかったんだよね。それは分かる。でもどうして他の人も巻き込んだの?」
「同じように苦しんでいる人を救いたかったからだよ。」
真面目な目で返されて僕は身じろぎする。筋は通っているのかもしれない。でも納得しきれないのは彼のせいで多くの人が魂を奪われてこの世から消え去ったからだ。
「救いたかった?あなたのせいで沢山の人が犠牲になりました。魂を渡した人も、邪物に巻き込まれた人も。」
「そうだね。でも彼らが僕に魂を渡すと言ったんだよ。」
「でも。」
「自業自得って考え方だってできる。」
アオイは押し黙ってしまった。以前エイも同じことを言っていた。そう言う考え方だってできる。でも、元凶は君なんじゃないの?
「お母さんの邪物は鳥かごに入れていたね。どうして他の人の邪物は同じように管理しなかったの?」
「いちいち管理なんてしていられないよ。苦しみから救ってあげたんだ。それだけで感謝してほしい。」
ああ、やっぱり彼の言っていることは理解できるようで出来ない。根が、曲がっている。
「根が腐ってるって言いたいんだろ。そう思うよ。でも止まれなかった。母さんを苦しめるこの世界が大嫌いだったから。僕以上に皆苦しめばいいと思った。」
「お母さんが大好きだったんだね。」
「この歳でそう言われると、ただの変な奴だね。」
僕は何も言えなかった。彼だって間違ったことをしていたと分かっている。幼少期の環境のせいで彼は道を間違えたのだろう。
「お母さんは魂が戻ったはずだよ。会いに行ったら?」
「そうだね。」
ネンは大きくため息をついた。
「暴走した僕のことを母は呆れるだろうね。」
「親子水入らずで話したいかもしれないけど、僕たちも同行するよ。お母さんに会ったら僕たちと一緒に政府の元へ行こう。僕らは邪物討伐パーティーだ。君のことを政府へ受け渡す。」
ここで抵抗されたら力ずくで連れていくつもりだった。しかしネンは素直に頷いた。
「大人しく従うよ。自己中心になった当然の結果だ。」
彼は自分が犯したことが間違っていると分かっている。そのことが少しの救いになればいいな。
「お母さんはどこ?」
「家の中にいる。移転魔法で呼ぶ。」
すぐに四十代くらいの女性が荒れ地に降り立った。
「ここは?あなたたちは?」
「母さん。」
十二年ぶりの再会だ。母親がネンのことを分からなくても仕方がない。
「ネン、ネンなの?そのおでこのほくろは、ネンよね?」
「そうだよ。母さん。」
「なんで、そんなに大きくなっているの?あなたは、十歳の男の子でしょ。」
「それはね。」
顔をしかめながらネンがことを話すと母親は血管の見える手でぱちんとネンの顔を叩いた。
「なんてことを……馬鹿!そんな恐ろしいことをして。」
叩かれた頬をさすりながら唇を噛みしめる息子を見て母親は痩せこけた顔で笑った。
「でも私のことを思ってのことだったのよね。ごめんね。そんな風に思わせて。」
「母さん。」
「でも、罪は償いなさい。母さんも一緒に償うから。」
「はい。母さん。」
平和な雰囲気に水を差すようにエイが咳払いをした。
「とにかく。もよりの政府の所に行くぞ。」
「お母さまは私たちがお預かりします。」
それから六人で短い旅をして、ネンを政府に渡した。政府は、まさか指圧攻のパーティーがネンを捕まえるとは思っていなかったらしく、とても動揺していた。初めはネンの替え玉なんじゃないかと疑われもしたが、ネンの様々な証言によって本物だと証明された。
「ネン、君は根っこから腐ってるわけじゃないと思うよ。」
政府に受け渡す別れ際、僕は彼に声を掛けた。
「環境が君をそうさせただけ。本当は大切な人のために尽くせる優しい人だと思う。」
「君は捻くれた僕に優しい言葉をかけてくれるんだね。母さんみたいだ。」
「だってそう思うからさ。」
「もし、面会が許されたら会いに来てほしい。」
「もちろんだよ。」
ネンは政府の元へいってしまった。僕たちが渡したわけだけど。
「傷心してんのか。」
「最後の方は仲良くなってましたからね。」
「感情移入し過ぎなのよ。あんたは。」
政府機関の近くにある宿の一室で横になっていたら、いつの間にか三人がやって来た。みんなの言う通りだ。
「罪人に感情移入するなんてばからしいかな。」
「でも、ユウさんらしいですよ。」
僕の横に座ってアオイは目を細めた。
「そうね。」
「同感だ。」
アオイが手に持っていたカバンの中から書類を取り出した。
「私達も政府に今回の件を詳しく話さなくてはいけないらしくて。アンケート用紙です。」
そう言って僕に書類を渡した時、アオイが一瞬顔をしかめた。
「どうしたの?」
「いえ。紙で手を切ってしまって。」
ほら、と見せてきた親指には真っ赤な血がぷっくりと浮き出ている。
「ヒイ。」
毎度のことながら情けない声を上げた僕を、みんなぽかんとみつめてから一斉に笑った。
指圧攻 優月ちさと @chisatoyuzuki
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