第1話 夢の始まり
「・・・はあぁぁー・・・」
10月1日火曜日、午前6時22分。津堂はベッドの上で目を覚ますなり、天井に向けてげんなりとした顔で深く溜め息を吐いた。夢見がすこぶる悪かったのだ。
その夢というのは、誰かが飛び降りる夢。真っ黒なシルエットで性別も年齢も分からなかったが、どこかの建物の屋上に「誰か」が立っていて、津堂が目を凝らしていると「誰か」の体が前のめりになる。まるでスローモーションのように「誰か」は真っ逆さまに落ちていき、それから間もなくして「ドンッ!!」という衝撃音が響いて、そこでハッと目を覚ましたという訳だ。
「・・・とりあえず起きよ」
ベッドからのっそりと上半身を起こすと、津堂は自分の部屋を出てゆっくりと階段を降りた。
「あら、おはよう
「んー・・・」
母親に返事をしながら、津堂が食卓の椅子を引いて腰掛けようとする。そこへ隣のリビングのテレビから気になるニュースが聞こえてきて、津堂は原稿を読み上げる女子アナウンサーの声に耳を傾けた。
『昨夜未明、東京都内のマンションの屋上から男2人が侵入し、このマンションの10階に住む〇〇さんの部屋に強盗に入って現金20万円を奪い逃走しました』
ニュースの内容を聞いて、津堂はホッと安堵した。自分が見た夢があまりにリアルで、まさか正夢なのではと思ったのだ。その後いくつか流れたニュースは交通事故や政治関連の物で、やがてエンタメコーナーに切り替わった所でようやく津堂は椅子に腰掛けた。
「灯、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
真向かいに座る父親が、読んでいる新聞から息子へと視線を移して問い掛ける。心配を掛けまいと「大丈夫」と返す津堂だが、正直まだ気分は良くない。夢の中で最後に聞いた「あの音」が鮮明に耳に残っていて、とても気持ちが悪い。
あまり食欲もなく、今日は朝食を抜こうかと思っていたそこへ、母親が津堂の前にマグカップを置いた。カップの中身はホットココアで、津堂は取っ手に指を掛けてカップを持ち上げココアを口に含んだ。口いっぱいに広がる甘いカカオの味にホッと胸が温かくなり、次第に気持ちが悪いのも治まってきた。
「どう?少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう母さん」
「いーえ。はい、これ灯の分ね」
半熟の目玉焼きとウインナー、それにキャベツの千切りが乗った皿を母親が津堂の前に置いた。明かりが灯ったトースターの中では食パンが小麦色に色付き、チンッ♪と音が鳴ったそこから父親が食パンの端っこを火傷しないよう人差し指と親指で摘んで皿に乗せ、さっき置いた目玉焼きの皿の横に並べる。
「これ父さんのでしょ?」
「あぁ。でもまだ新聞読んでる途中だから、灯が先に食べていいぞ」
「いや、でも・・・あっ」
「ぐぅ〜」と胃が動く音が腹から聞こえ、津堂が顔を赤らめる。ココアの効能と、朝食の良い匂いで食欲がわいたようだ。
「うわ、めっちゃ恥ずかしい!」
「いいじゃない。お腹が減るのは元気な証拠よ」 「そうだぞ。まだ暑いからしっかり食っとけ」
「うん、いただきます」
朝食を食べ終わる頃には、津堂の顔色はすっかり良くなっていた。制服に着替えて昨日準備しておいたカバンを肩から掛けて、いつもの時間に「行ってきます」と元気よく家を出た。
学校に着く頃には、朝見た夢の影響はすっかりなくなっていた。下駄箱で上靴に履き替えた津堂は、階段を上って3階にある教室を目指す。長い階段を上りきって右に曲がると、見慣れたショートカットの女子の姿が目に留まり、津堂は後ろから声を掛けた。
「おはよう
「!・・・おはよ」
振り向きざまに無表情で挨拶を返すと、蒔苗はスタスタと廊下を歩いて教室に入っていった。 彼女、
ちなみに蒔苗は機嫌が悪かった訳ではなく、さっきの廊下での反応が彼女の通常運転。津堂が知る限りいつも誰に対しても今のように素っ気ない態度で、休み時間はスマホを見たり、昼休みは教室に姿がない。いわゆる一匹狼というやつだ。
「おはよう津堂」
「おーおはよう」
津堂も教室に入り、仲の良い男子に挨拶しながら自分の席に鞄を置く。今日はもう蒔苗に挨拶をしたから、鞄の中の教科書を机の中に移す。
「おはよう津堂君!」
「おはよう夢宮」
ちょうど教科書を移し終えた津堂に、右隣の席の
「蒔苗さんもおはよう!」
「・・・おはよ」
スマホの画面を見ながら、蒔苗が素っ気なく挨拶を返す。それに対し夢宮は、嬉しそうに口角を上げて「よし!」と胸の前で両手を握り締めた。
「おーい、さちー!」
「ん!今行くー!」
友達から愛称で呼ばれ、夢宮が席を離れていく。 入学したばかりの4月、夢宮は自己紹介でクラス全員と仲良くなる事を目標に掲げていた。その宣言通り、10月現在夢宮はクラスメイトのほとんどと仲良くなって男女共に好かれている。
けれども蒔苗はあまり夢宮の事をよく思っていないと津堂は認識している。夢宮も津堂と同様、席が近くなったのをきっかけに蒔苗に挨拶するようになったのだが、津堂が知る限り蒔苗が夢宮を見て挨拶を返すのを一度も見た事がない。
「(俺の時は振り向いてくれるのに)」
理由が気になるが、直接本人に聞く勇気はなく。今日も後ろから蒔苗の背中をジッと見つめる。
「ねぇ、いい加減ウザいんだけど」
「うぇっ!?」
すると突然、蒔苗が不機嫌そうな顔で後ろを振り返ってきて津堂の肩がビクリと跳ねた。ウザいと言われてショックを受ける津堂だが、何の事だか分からず首を傾げる。
「えっと、何が?」
「あんたの視線がウザいっつってんの」
「えっマジで?」
背中越しでも気付かれる程見てしまっていたのかと津堂は内心反省しつつ、これはチャンスだと思いきって聞いてみることにした。
「あのさ、蒔苗は夢宮の、その・・・どこが気に入らないの?」
「八方美人なとこ」
スパッと即答されて、津堂は目を丸くして固まった。
「誰にでも良い顔してさ。あたしあーいうの嫌いなんだよね」
「そ、そっか・・・」
津堂は夢宮に明るくて親しみやすいという印象を抱いていて、それが彼女の良い所だと思っている。だから蒔苗のように捉える人間がいる事に驚く中で、ふとある矛盾に気付く。
「じゃあ、何で挨拶は返すの?」
「・・・だって、無視は良くないじゃん」
ふいっと顔を背けて答える蒔苗に、津堂は口元を緩めて「そっか」と返した。
それから間もなくして予鈴が鳴り、友達と喋っていた生徒が自分の席へと戻っていく。全員着席した所でガラリとドアから開き、いつものように担任の男性教師が入って来る。
その途端、クラス全体からどよめきが起こった。どよめきの原因は男性教師ではなく、その後に続いて入って来た女生徒だ。
「おはようございます。えー、4月から入院していた篠山さんが今日から戻ってきます」
「えっ・・・」
担任の言葉を聞いて、思わず津堂は小さく声を漏らした。1つ目の理由は、昨日「元気にしているだろうか」と気にしたばかりだったから。2つ目は、前に立っている女生徒が篠山だと分からなかったから。答え合わせの結果、やはり津堂の記憶の中に篠山は残っておらず、他の生徒達と同様に初対面のような感覚でじっと篠山を見つめる。
「篠山さん、何か一言あれば」
「
まるで転校生のように挨拶した篠山に、どこからかパチパチと小さい拍手が上がる。拍手はだんだん大きくなっていき、その音に交じって「え、痩せすぎじゃない?」や「何の病気なんだろ」といった声がヒソヒソ聞こえてくる。誰かは分からないその声に、津堂は強く共感した。濃灰のセーラー服の半袖口と、膝丈のスカートからスラリと伸びる篠山の腕と足の細さ。加えて青白い顔を見るととても元気になったとは思えない。学校どころか、本当に退院して良かったのかと疑うレベルだ。
「じゃあ篠山さん、自分の席に着いて」
「はい」
クラス全体が一抹の不安を抱える中、担任に促された篠山が2つある空席の内の1つに視線をやる。そこへすかさず夢宮が右手を上げた。
「篠山さんの席、私の前だよ!」
夢宮に教えられ、篠山が鞄を持って素早く移動する。津堂の右斜め前の席の椅子を引いて篠山が着席すると、夢宮が後ろからトントンと篠山の右肩を叩く。
「私、夢宮幸穂です。何か困ったり体調悪かったりしたら言ってね」
「ありがとう」
今の夢宮の言動を、津堂は純粋に「良いやつだな」と感じた。その傍ら、蒔苗は夢宮のこういう所が好きじゃないのだろうかとひっそり思った。
「じゃあ出席を取ります。石井君」
「はい」
「江南さん」
「はい」
担任に名前を呼ばれた生徒が出席番号順に返事をしていく。20名いる生徒の半分が呼ばれ、後半に差し掛かった時だった。
「氷上君・・・は今日も休みか」
「今日も?」
担任の言葉を聞いた篠山が反応を示し、クルリと夢宮の方を振り向く。
「ねぇ、氷上君って昨日休んでたの?」
「え?うん、そうだよ」
実は津堂が書いた学級日誌の欠席者の欄には、篠山ともう1人の名前があった。
「何かあんの?」
左横から話し掛けられ、篠山が声の方に顔を向ける。
「あ、あたし蒔苗夏希」
「蒔苗さんね。で、何かって?」
「いや、何か気になる事でもあんのかなって」 「・・・いいえ、別に」
無表情で言い切る篠山に蒔苗は「あっそ」と言って、そこで2人の会話は終わった。
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