終章 ニ
「そういうことなんだ、悪いな」
「うるさい!」
一季がベレッタを構え直した。
魁人が舌打ちをはなつ。遮るものも隠れる場所もない溝のだだっ広い空間では、逃れようがなかった。魁人がやむなく背を向ける。逢子はいやだと、蘇芳色の羽織をぎゅっと握りしめた。
死にたくない。でも死なせたくもない。
遠くからの銃声が鼓膜をつんざいた。
「いやあっ」
魁人の背の面積に比べたら微々たる小さな手でも、せめて自分に命中してほしいと、逢子は強くしがみついていた。
ぼちゃん
溝が何かを飲みこんだ。
逢子の耳元で、魁人が息を吐いた。人が持つ体温のこもった吐息はぬるく、相手が相手でもあり、状況も状況のせいで、逢子は鳥肌をたてた。滴をこぼさぬようにためこんでいた目を開き、恐る恐る魁人を見上げる。柔和な笑みを浮かべていた魁人は、逢子を見ていなかった。
「女にうつつを抜かして死にたいのか、バカ。親友の死因が女なんて恥ずかしくて吹聴できやしない。残されたやつに生き恥をかかすな。それならいっそおれが殺してやる。動くなよ。逢子に命中するぞ」
傾斜に腰かけていた美静が、とても不満げな表情でこちらを見おろしていた。
「いや、あと一歩で君に殺されそうだったじゃないか。遅いぞ」
「これでも急いだっていうのに、おれに指図するな。それとも本気で死にたかったのか?」
あごで差す美静に促され、魁人が体勢を変える。
一季は立っていた。魁人に視界を隠される前と、今の姿はほとんど変わらない。間違い探しのようでもあった。直立不動の機械人形と、代わり映えしない溝と。
強いてあげるとするならば、機械人形にはありえない憎悪の表情に変わっていること。
手にしていたベレッタを失っていること。
自ら捨てるわけはない。
美静は斜面に腰かけながら、肩にSIG―P226を立てかけていた。口にくわえている煙草からは煙が飛んで流れていくが、もう少し前にはあの細い銃口から硝煙もあげていたのだろう。一季の手を狙撃し、拳銃を奪ってくれたのだ。
どうしてあれほど口が悪くて、穏やかな魁人と親友でいられるのか。逢子はようやく、彼らの仲の一端を垣間見たような気がした。
いろんなことを考えているうちに、美静との距離がわずかに遠ざかった。視線が落ちる。魁人に地面におろされたせいだった。
「ほらよ。おれからの結婚祝いだ、喜びすぎてむせび泣きわめけ」
「結婚してから使うことにならなきゃいいけどな」
頭上高い位置にいる美静が、破壊された警備用機械人形が魁人のために持ってきてくれていた筒をほうり投げた。逢子をおろして両手に自由を得た魁人の手が、みるみるうちに落ちてくる筒をつかみ取る。
筒の上部を捨てた魁人が中から引き出すものには、またもや幾重にも布が巻かれていた。長い棒状のものが取り出される。筒は逢子が受け取った。
ふわらん
「え?」
どうして。溝が流れるときに巻き起こす風なんてかすかで、髪が揺れることはなかった。それとも今、どこからか風がおりてきているのか?
魁人の髪や羽織、灰墨色の着流し、逢子が身にまとっているぼろきれ。一季である機械人形の短髪でさえ、風の影響を著しく受けている。軽いものはみな、ふわらんふわらんと浮き出している。
風ではないと逢子が知ったのは、溝から浮きあがってきた水中警備艇だった。息絶えた魚類のように腹部を上向きにして、内部に納めているカメラで上空を撮影していた。
死んでいた。いや、機械は死なない。壊れていた。機械を壊す方法に、強い電気を流すやり方がある。雷にも等しい電流を浴びれば、人でさえ命に危機が訪れるのだから。
「君は恩を仇で返すつもりか、ああ!」
「恩? さて、なんのことかな」
憤怒に煮えたぎる一季の歯ぎしりが聞こえてくるようだった。
魁人は布をほどきながら右手に巻きつけていく。筒をくるんでいた厚手の銀製の布とは異なり、どこにでもあるような、洗濯し過ぎて黄ばみが残ってしまった綿製の帯だった。支度を整えた右手が、棒を引き抜く。棒のその部位を柄と呼べば、そうか棒ではなく二つでひとつなのだと、ようやく理解した。
二尺二分三厘の長さを持ち、揺らめく乱刃は輝くたびに姿を変える――本当に、波紋は燃え盛る炎のように、一時として同じ姿を保たない。まばたきをすれば直前まで描かれていた文様を変えてしまい、まぶたを閉じた一瞬にも極上を誇るさざめきを見せていたのかと思うと、目をそらす刹那さえ惜しい。
超高圧電流が生み出す波紋。
刀から発される電流は彼の素肌を駆け抜けると、黒いブーツからおりて地面に逃げる。逢子のもとには弱々しい静電気としてやってくるが、金属が刺さっている脚には相応の痛みが走った。
体から電気を逃さなければ、人は死んでしまう。
魁人が、そうはならない理由は、では。
「こっちは君たちの命の恩人だぞ、分かっているのか」
「俺をこんなふうにしてくれなんて頼んだ覚えはない。君たちが勝手にやっただけだ。俺たちは頼まれたとおりに終わらせたんだ。それだけでよかったんじゃないのか」
「開発者に逆らうつもりか」
「あいにく、俺は機械人形じゃない。人だ。覚えていないだろうが、君も人だったんだ」
地面におりた電気は逢子だけではなく、斜面を伝いあがって美静の髪や衣服も揺らしていた。人ならば、影響はその程度だった。
機械人形ともなれば、麻痺したかのごとく動けなくなっていた。
「死に直せ、一季」
動けなくなった一季を、魁人は容赦なく切りつけた。
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