終章 一
体は痛まなかった。
娼婦たちの手は、この世に未練を残した無念の塊。集合して怨念と化し、呪詛となっていてもおかしくない念が集まっていた。にもかかわらず、逢子の体に腐敗をもたらしはしなかった。
まだ人としての形状を保っていた逢子だからこそ、彼はその体を受けとめられた。
「もう大丈夫だ」
逢子の後を追いかけ、鉄柵のあいだから身を乗り出し、片目を失ったまま動いているその男こそ、果たして人なのだろうかと。逢子は、わが身を省みても思ってしまった。
「魁人さん……」
「俺が来たからには安心してくれ」
魁人が生きている――死んでいなかった? どっちだろう。それとも、まさか死ねない?
答えなんてどれでもよかった。彼の命がまだこの世での活動を続けてくれている。この事実があるだけで、逢子は先ほどまで胸に抱いていた死への渇望を振り払うことができた。
五メートルはあろうかという溝へと落下するあいだに、魁人は逢子の体勢を変えさせた。飛び立とうとしていた逢子の体を小さく丸め、腕に収まるようにして、ちらりと目にした脚の怪我にだけは眉をひそめて、強く抱きしめてくれた。それ以上を追及しない魁人の優しさを、逢子は改めて思い知らされた。
――バカな人。優しすぎて損をする。
逢子の脚の傷に響かぬようにと、溝の水際への着地も魁人は気をつかった。膝のばねを利用して、衝撃を己の体内で相殺して、逢子には届かないように。魁人のあふれんばかりの優しさに、逢子は彼の胸に顔を埋めて、自由の利く腕で抱きしめ返した。
「二度と来ないでって言っただけで、死んじゃえなんて言ってないんだから」
長屋で顔を合わせていたときのように……すなおになれない。逢子は、そんな自分が嫌いではなかったけれども、今はすごく嫌いだった。
「こっちの目だったら危なかったな」
こっち。顔をあげた逢子は、魁人が指す、彼の右目をまじまじと見つめる。目尻に指を添え、今はっきりと、焦点を合わせる。星月夜の瞳は、透明な膜に包まれた眼球だ。まごうことなく人の目である。
反して、左目。空き部屋となった眼窩には細かな破片が無数に散乱しており、透明な破片もあれば基盤もあった。骨と呼べるものや眼球の残りかすといったものはなく、かつてはめられていた眼球は人工物だったことを物語っていた。
「あなたは」
言葉を続けようとする逢子に笑みをかけていた魁人だったが、瞬時に顔色が変わる。
がりっ、がりっ
何かを削る音に魁人が視線を向ける。逢子も見上げた。
飛んでは斜面に着地し、足の裏を削って速度をゆるめる。数回繰り返したところで、高く飛び跳ねた機械人形は、魁人と逢子の数メートル先に着地した。
「逢子を返せ」
「返す理由が見つからないな」
「ぼくの恋人だぞ」
「恋人ってのは両想いであれば許される表現だ。逢子に聞いてみるか?」
逢子は魁人の首にまわしていた腕に力をこめて、彼の首元に顔を隠した。うっすら漂う鉄のにおいは誰だろう。自分か、魁人か。それとも涼風? 忘れさせてくれるのは、人が流す汗と皮脂が混じった、個人の体臭。機械人形には持ちえない。
ああ、この人は人だ。生きている人間だ。
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