九章 四

「おうこ」


 一季ではない。涼風の声だった。


「姉様っ」


 逢子も呼んだ。涼風の聴覚たる集音装置が、逢子の居所を視覚に教えた。黒目が動いても、視界に逢子が映らない。では首を動かそうにも、四肢の動きを封じられた涼風は微動さえ許されない。短くうめく涼風に、人である魁人は同情した。顔の向きを変えてやった。逢子はゆっくりと涼風に近づき、満月の瞳と、いつぶりか対面を果たすことが叶った。

 逢子を殺そうとしていたまなざしではない。妹分の逢子に、悲しみと別れを告げさせるために抱擁してくれた、あの姉御分の涼風に違いなかった。


「逢子、あなたの首、とっても痛いわね」

「はい」

「わたしが痛くさせたの。引き抜いて、わたし、あなたの体が欲しかったの」

「ええ」

「でも、無理なのね……人と機械が、体を共存させるなんて……ごめんなさい、逢子」

「いいんです」


 殺されかけた事実と涼風の謝罪を天秤にかければ、偏りは明白だ。逢子の悲しみが涼風には分からないように、涼風の煩悶も逢子には分からない。どちらも理解が及ばない自分自身のことで躍起になっていただけ。

 許そう。そう思えた。


「わたしは今、一季さんとひとつなの。これで満足すべきだったわ」

「満たされ足りていますか」

「ええ、とっても」偽りのない笑顔を涼風が浮かべた。「だから、あなたならできるのでしょう」


 機械人形の廃棄処分。

 口にする涼風に、魁人はうなずいた。


「望みどおり、二度と復活しないくらい粉々にしよう」

「どうして」


 涼風は正気に戻ってくれた。もう逢子を殺そうなんてしない。二度と。だから、壊すだなんて言わないでほしい。逢子は魁人にすり寄った。涼風も見つめた。どちらかが引きさがり、断れば、すぐに話は終わる。


「ダメよ、逢子」二人に切願する逢子を、いさめるのは姉御分。「わたしはあなたを傷つけた。それにわたしは、どうやら心を得てしまったようね。またいつ、あなたに危害をくわえようとするか、自分でも分からない」

「そんなこと言ったら、人はみんな間違いを犯した瞬間に殺されてしまいます」

「それをやり直せる心も、人は生まれたときからあたためて育てているんでしょう。でもわたしの心は生まれて間もないから、分からない。理解するまでに何度も間違いを犯す。機械の体で繰り返し続けたら、どれだけの人命を失わせてしまうか……」


 たった一人で、人形大戦の再来を予感させてはいけないの。涼風は語る。


「お願いよ、逢子。わたしにあなたを傷つけた罪を償わせて」

「嫌ですそんなの。そんなの、そんな、それじゃあまるで、私また、大事な人を殺してしまうみたいじゃないですか」


 もう嫌だ。誰も殺したくない。誰かが自ら命を絶つ行動さえ加害者が自分だと思いこむのはエゴかもしれない。周りの不幸を一身に背負いこむ、重度の自己犠牲精神。崇拝されたいがための行いか? 違う。あの村に生まれたからだ。そう思うようにしつけられ、ある種洗脳されて育ったせいだ。

 過去から解放された今だとしても、自分の周りで命や心が消えていく瞬間はもう見たくない。


「あら逢子、誤解しないでほしいわ」

「誤解?」

「わたしのデータはちゃんと電脳空間で保存されているの。一季さんに体を差し出してからの暴走の記録を開発者たちが削除して、火種となるプログラムを組み直せばいいだけよ。体は新しいものを造るでしょうから、少し時間がかかるけれどね」


「私のこと、忘れてしまわないですか」

「あなたとの記憶は、一季さんを受け入れるために電脳空間に預けてあるの。直近の記憶は失ってしまうけれど、あなたと娼館で過ごした日々はちゃんと残っているし、あなたに抱いた感覚もすべて記録されているわ。何も恐れないで、逢子。わたしはあなたに永遠の別れは絶対告げないから」


 くすりと笑む涼風は、もしも人ならば虫の息だったのかもしれない。


「大丈夫、修理してもらったらすぐにあなたを呼ぶからね。わたしはあなたを絶対に見捨てない唯一の家族よ。ねえ、だからそんなわたしに、あなた、自分を殺そうとしたこと覚えてる? なんて聞いちゃいけないからね。その過去を経験していないわたしなんだから」

「人はダメな過去も忘れられないし、それも含めてその人なのに……姉様は、簡単に忘れられるんですね」

「そうよ。そうした記憶がない少しだけ幼いわたしと、あなたはまた会うの」


 涼風が目を伏せる。逢子は慌てて呼びかけるが、開かれたまぶたの瞳の矛先は逢子ではなかった。


「逢子を犯そうとする一季さんのデータは、わたしが体内で抑えているわ。この人もろとも、わたしを壊して。部隊長様、あなたならできると、わたしは考えるわ」

「ああ、任せてくれ」

「わたし、あの方と一緒なの。だからあなたがわたしを壊してくれたら、今のこのわたしは、恋しいあの方と心中するも同然ね」

「俺が殺したら、ね」


 どうやら自分たちは、今生では結ばれないらしい。では、約束しよう。来世では共に生き抜こうと。命を賭した契り。どちらも、持ち得ないいものを賭ける。はたまた、一方的に道連れに。二人のデータが消去した瞬間に、涼風の心中死が叶う。一季に恋をしたデータの涼風が、どうか来世は人となれるようにと祈ることが、自分になら許されると、逢子は両手を合わせた。


「君は一季と、君ではない君は逢子と、次の世でしあわせになれるといいな」

「データの更新を来世とおっしゃるの? つくづく変わった人ね」


 魁人が立つと、警備用機械人形がやってきた。一メートル以上はある長方形の細長い筒を持ってきた個体と別な個体の二体。何で織られているのか分からない筒を巻く銀色の固い布を、逢子は興味本位で注視していた。様々な織物を送られてきた身だったが、衣服に使うにはあまりにもしなやかさが足りない。変わった布。筒と同じように細長い帯状の布を、魁人がくるくると解いていく。筒を持ってきた機械人形が、地面に布を落とさぬよう受け取っていた。

 もう一体はというと、涼風が一季にふたたび取りこまれて暴走する可能性を懸念してか、腰のホルスターから拳銃を引き抜いていた。ベレッタM92F。安全装置を外して、銃口やトリガーの調子を確かめながら、手のひらに握らせた。


 動くものが視界の隅にあった。逢子は、涼風に目を向けた。四肢の動きをとめられていても、また、もしかしてまた一季が、涼風を――? 魁人を頼ろうと、動いて。


「ダメよお!」


 機械人形が叫ぶ。人ならばかすれるほどの声量を、ノイズという形で絶妙に表現して。


 至近距離からの発砲。ベレッタの銃口が照準を定めた先は、頭、それも左目。

 近くで見つめてみたいと思っていた、星を宿した瞳が、被弾した。

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