七章 六

 しゃがみこんでいる逢子より、一メートルも二メートルも高い。涼風の頭があるのは、長屋の高い天井付近だった。露わになっている梁に頭部が触れて、わずかな風圧を受けたホコリが落ちてきた。同じように、しかし桁違いの流麗さを持つ黒髪が揺れている。


 ふわらんふわらん

 ふわらんふわらん


 共鳴する、首からぶらさがる、彼女の体を構成する基盤や部品の数々。赤や白や紫や緑や黒のコードは、食道よりもずっと細いが、髪の毛よりはずいぶん太い。人の肉とは無縁の、鈍く輝く武骨な部品も揺れている。


 ふわらんふわらん

 ふわらんふわらん


 はたから見れば、それは、頭だけで空を飛ぶ女。


 頭だけで飛ぶ女。


 きちんと目を開いて、逢子は、真正面に顔を向けた。

 頭部を失ったまま、逢子に愛撫を続ける機械の体がある。左手で乳房を揉み、右手で膣に指の挿入を繰り返している。その体に首から上はない。


 快楽は消し炭となった。

 機械人形に愛撫されているのに、その頭は今、自分を見おろしている。


 美しい女の顔が、おりてくる。

 本来あるはずの位置に、戻ってきた。

 いつものように、またいつものように、涼風が逢子にするように、唇を重ねてくる。舌を絡ませて、唾液をにじませて、キスをする。

 いつもと違うのは、首に涼風の髪が巻きついたこと。


 ――頭だけで飛ぶ女が目撃されると、

 ――頭が引っこ抜かれた女の死体が発見される。


 ああ、これか、と。


 考えついたとき、自分の頭がどんどん上昇していくのが分かった。体は、機械の首から下がつかんで離さない。すでに愛撫はやんでいるが、宝物を抱きしめる幼子のように、その体は逢子の体をひっしと抱きすくめていた。


 頭は逢子の唇にむさぼりつき、髪の毛が逢子の首を絞めつけて引っ張る。引き抜く、というよりは引きちぎろうという動きだなと、一瞬だけ得られた冷静さが考えた。


「いっ……ぐっう、ううっ、ふうううんっ、ぐぅえっ……」


 生きよう、という気力が逢子に湧かなかったわけではない。首を絞める髪の毛をむしり取ろうと、自分の首に何度も爪をたてた。逢子が知らない誰か女性の髪のDNAデータを複製して作成された人毛は、皮膚の内部、肉の合間にも入りこんでいた。細くしなやかな一本一本を、快楽と呼吸困難の果てまで追いつめられた頭でつまみ取ろうというのはとても難しい。自分の首をがりがりとひっかくしかない。痛みなんてもうない。爪のすき間にたまった自分の肉がそぼろ状になって手のひらを伝っていくかゆみがあってもとめられない。


 生きるためなら、逢子はどんな抵抗でもした。


 犠牲の村に生まれた自分。あの村は、様々な神事の生贄となる娘を生み出す村だ。人様のために生まれ、人様のために死ぬ村。人はみんな、死ぬために生まれてくると口にする。ならばその死に、人々のための死と最期の飾りつけをしてくれるだけ、自分たちの村の女たちはしあわせだったに決まっている。名誉ある死だ。悔恨は何も残らない。


 けれど、けれども。

 人々のためなんかじゃない。死んだ一季と人ではない涼風のために死ぬ未来は望んでいない。ここには人々なんて存在しない。心ある人が一人もいない。彼らのために死ぬなんて嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!


 私はもう、自分のために生きたい。あの人と生きてみたい。


 死にたくない!


「ぎえっ……がっ、あっがああっ……ばっ、あがあっ」


 ぶちぶちっ


 引きちぎれる音。髪の毛のように細い何かが断たれる音。首の拘束は少しもゆるまない。だからこれは、体の中から響いてきた、首の筋肉繊維が切られた音だ。

 いつもなら、腐敗によってとろけていくからこんな音はしない。はじめて聞いた。変な音。自分の体が死に向かっていく、抵抗の悲鳴か。

 誰かのための死なら、甘美な菓子を味わうようだと教わっていた。

 これがもし本当に、一季と涼風のための死だとしても、まったくの別物だ。こんな死、少しも欲しくない。


「死んで、逢子!」


 涼風が叫ぶ。あるいは恋する乙女の悲嘆。


「お願い、わたしのために」


 失いかけていた聴覚に飛びこんでくる絶叫以外、何も聞こえない。

 これはもはや、機械人形の声ではなかった。女の声だった。

 逢子だって、返せるものなら返したかった。彼女の耳元で、高らかに叫んでいた。


 生かせて、姉様。お願い。

 私、あの人と一緒にいたいの!

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