四章 四
一季は、この世の終わりを目の当たりにしたような表情を浮かべていた。まさか私のことが嫌いだったの? 真っ先によぎった疑念だった。本当は、私のことを少しも好きではなかったの?
違う。そんなことはない。私はこの人を好きだし、この人も私を好きでいてくれた。確信があった。彼が注いでくれた愛情に、疑う要素は何もなかった。
なら、ならば――ああこれか、と。これが、恐れていた事態なのだと、ようやく逢子は理解した。
「一季さんは胸の皮膚を、短い爪で裂いていたの。心臓が苦しかったのか、呼吸ができなかったからなのか、分からない」
一季は体を起こしていられなくなった。床をのたうちまわりながら、天井に向けていた顔からは舌が垂直に伸びていた。めいっぱい開かれたまぶたからは、眼球がぽんと素っ頓狂な音をたてて飛び出してしまいそうだった。
実際にそうなってしまう前から、腰を抜かしていた逢子は動けずにいた。飛びあがって顔にぶつかってきた一季の眼球が、胸の谷間に落ちてきた。血管が浮かぶ眼球の尾ひれのような視覚神経は濡れていて、逢子の玉のような肌をてらてらと輝かせた。うっすらと緑みがかった瞳が、まるで意思を持って逢子を見つめてきたような気がしたとき、やっと悲鳴をあげられた。
駆けつけてきた楼主や警備用機械人形の前で、一季は踊り狂った。
「どうやったら、あんなにすべて出せるのか、本当に不思議だった」
一季は己の口から、体内の臓器という臓器をすべて吐き出してから、やっと息絶えた。
「人が体から何かを出すのは、それが不要になったからだ。尿もそうだし便もそう。その男は、体の中から臓器が不要だと御加護に判断されてひねり出されたんだろうよ。そしてその体には命さえ不要だと、御加護によって追い出された。そんな抜け殻の体で、あんたを抱けるものなら抱いてみなって、御加護ってよりかは挑発だな。ははっ」
「君はこの話のどこで笑えるんだ」
「人間がぞうきん絞りに遭ったみたいなところだな」
美静の表現を聞いて、逢子も「ふふっ」とつられた。まさにそのとおりだった。
一季の体は、まるで御加護の巨大な手によって絞られてしまったかのようだった。
はじめて愛した男の最期は、あまりにも壮絶過ぎた。
「私の御加護はみんな知ってた。でも楼主もみんなも冗談だろうと思っていたの。田舎の秘境から見つけてきた私を、女衒が高く売るための方便だと思っていたのね」
初夜を迎えるその日、部屋にカメラを設置させてほしい。御加護がどのようにして相手を殺すのかは分からない。意識がない状態でこの体が勝手に動いて、相手を殺すのかもしれない。もしもそうなら、自分も死ぬべきだ。逢子は一季に熱弁した。御加護なんてありえないと話す彼だったが、記念撮影くらいの気持ちで録画には応じてくれた。
おかげ、とでもいうべきか。録画されていた映像を見て、楼主や当時の自警団員が、逢子が殺したわけではないと理解してくれた。逢子は罪に問われることはなかった。
「でも、あれは私が殺したに違いないの」
御加護さえなければ、一季は死なずに済んだ。自分を選ばなければ、彼は生きていただろう。今日だって、今この瞬間だって。自分ではない女性をとなりにおいて、しあわせに過ごしていたかもしれない。自らの想像上にしか存在しない女を妬んで苦しんだこともあった。彼がしあわせならそれでいい、そう思いこもうとして、けれど彼のとなりにいるのが自分ではないと考えるだけでつらかった。
時の流れが苦痛を薄めてくれるなんて、信じていなかったし、信じなかった。薄められるほど彼に抱いた愛情は安くない。でも薄められてくれないと苦しい。そんなわがままも、月日を経るうちに、遠ざかっていくものだと知ってしまった。
「そのあと、二人も私の初夜を買ってくれた。でも、同じ末路をたどっておしまい」
二度目以降の男たちの死は見ていない。一季を失った心の痛みを再来させたら、きっと死んでしまう。そう判断した自らの体が、彼らが死ぬ前に意識を失うという形で自分を守ってくれたようだった。
「あの村で、たくさんの人を救うために私は生まれてきたって教えられたのに。私のせいでたくさんの人が死ぬなんて、耐えられなかった。だから娼館をやめたの」
どうやって生きていこうか考えたとき、一季を殺した自分の御加護を逆手に取ろうと考えた。神のためにある体は呪詛や幽鬼に好かれやすい。他人から呪いをかすめ取って、肩代わりすると触れまわった。肩代わりした呪いで体は腐敗するが、月の障りに至ると血の穢れである経血とともに落ちていく。ひどくつらくて、生きるにはあまりにも苦しいが、死ぬことはない。
自分のせいで死ぬ人間を増やさないためには、一人で生きていくしかない。仮に呪いを背負いすぎて死ぬのだとしても、人々を救って死んだと同義だ。死後の世界にいるはずの、母や身内たちもきっと理解してくれるだろう。だったら、この生き方は本望だ。
愛した男を殺した罪滅ぼしになってくれるとは、思っていないけれど。
こうして、呪われ屋の逢子が誕生した。
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