三章 四

「ああ……見える」


 目の前にいる、魁人ではない男。眼鏡をかけている人間なんてめずらしい。視力矯正は網膜に直接レンズをはめこむ手術が主流で、眼鏡はおしゃれとして使用する人間がわずかに生き残っているくらいだ。あれほど口の悪い人間がしゃれを気にするとは思えないが、そういう男なのか。偏屈な態度に似つかわしくない、赤茶けた髪も染めているのだとすれば、意外と見た目に気をつかうタイプなのかもしれない。魁人と同じ蘇芳色の羽織を着用し、組んだ脚の先には同じごつめのブーツを履いていた。


「目の焦点が合ってきたな」目の前で手を振りながら、逢子の焦点を確かめてくる。「よう、昨日はいいタイミングで訪ねて悪かったよ。それとも飛び入り参加は歓迎だったか?」


 これも魁人と同じ、人を笑わせてくる。やや悪意があるけれども。


「本当に、よくしゃべる人ね」

「ああ、看板に偽りありと最初に言ってきたのはこいつだった」


 親指で示された幼なじみは当然だろうという顔をして、美静に肘でわき腹を突かれていた。魁人が連れてくるだけあって悪い男ではなさそうだった。


「今、こいつがお前の体にある呪いを肩代わりしてくれている」


 その辺の雑草を集めて人をかたどった藁人形よろしく、雑草人形である。腐臭の合間に、むしりたての草の青臭さが漂ってきた。嗅覚が利くまで回復している、とも気づかせてくれた。口の悪さと雑草人形に辟易しなくてよかった。

 逢子の体がよみがえっていくに従い、美静が指でつまんでいる雑草人形はぐずぐずに溶けていく。沸騰したお湯で葉物を延々と茹で続けて、細胞のひとつひとつにまで細かく分解されていく過程を見せつけられているようだ。


「こんなので効くのかって思ってただろ。呪いごときがおれに逆らおうなんて甘いんだよ。人間サマを舐めるんじゃない」


 えらく自信にあふれている。身をもって教えられているので、こればかりは拝み屋の看板に偽りがなかった。

 呪いが引いていく一方、取り戻される感覚は五官だけではなかった。痛みも戻ってくる。全身を襲う激痛に顔をしかめるまもなくうずくまってしまう。魁人が慰めのためになでてくれる指先ですら痛くて振り払ってしまい、謝ろうにも痛みで口が動かせない。違うの、嫌なわけじゃないの。伝えたい気持ちはあっても、過剰な刺激に意思が負ける。

 再生していく内臓は、口から不要なものを出してきた。膿と腐汁まみれの布団に、とろけた臓器の内壁や血の塊を吐く。治まった、と思うと食道が焼く痛みが迫ってくる。まだ終わらないのか。二度、三度と、火をとおさずに食した肉のような塊を吐き出す。ふと背中に触れてきた人の手が、痛くなかった。生理的に流した涙を浮かべた目に魁人を映す。声に出すのはつらかったから、口を動かすだけでもしたかった。ありがとう、くらいは伝えたかった。


「終わりだ」


 雑草人形が、燃え尽きた灰が風に乗って消えていく。美静の指先から失われた。


「お前の呪いを肩代わりしたんだが、相当強かったようだな。憑代よりしろが壊れるなんて」

「助けてくれて、ありがとう、本当に……」

「まだだ。完全に消えてから言え」

「まだ、まだ残ってるの……?」

「あいにくな。安心しろ。おれは人間が出来てるから、二体目の追加料金は取らないでおいてやる」


 予備のもう一体に、美静が逢子の腕に乗っていた血を拭って名前をつづった。残っていた疼痛を、また雑草人形が奪っていってくれた。節々の痛みも薄まり、呼吸もうんと楽になる。

 皮膚を取り戻した逢子の肌には、青あざがミミズのようにのたくっている。皮一枚の下に這い進んでいる。嫌悪感がすさまじい。肌と肉の境目にならどこにでもいるようだ。内臓にさえ巣食っているのか、体内から押される圧迫感に吐き気がまたも襲ってくる。


「その腕を貸せ」


 逢子が今一度うずくまろうかというとき、美静が強引に腕を引っ張った。

 ミミズが、その一瞬、びたりと動きをとめた。美静に見られている、と分かったかのようだった。すぐに皮膚の奥、肉のあいだを分け入って姿を消した。別なところに表出したのか、新たな不快感がもたらされる。

 眉をひそめ、美静は逢子を解放した。雑な手つきだったので半ば突き飛ばされた格好だったが、魁人が支えてくれたので転ぶことなく済んだ。


「美静、どうかしたのか」

「うるさい黙れ話しかけるな」

「こうなったらもう誰の声も耳に入らないぞ」


 ひそひそと口にした魁人があきらめたので、逢子も謝罪の言葉をもらうのはあきらめた。助けてもらっただけで恩に着る相手である。

 美静は持参してきたタブレット端末を起動し、一人黙々と文字を打ちこんでいる。逢子と魁人が顔を見合わせても口を開けないほどの緊迫感が醸し出されていた。


「今、お前の女の腕にミミズが出たな」緊張を破る瞬間も身勝手だった。「そいつが今、おれに恐れをなして正体を見せてきた」

「どういうことだ。あとまだ俺の女じゃない」

「硬直した瞬間、ミミズが呪詛の文字列を表した。その言葉を解読して分かった。なぜ呪いが短期間で、通常よりもはやく悪化したのか。原因につながるであろう言葉だな――知りたいか」


 美静は、有無を言わせない強引な口調を封じ、問いかけてきた。

 どうしても何も、原因があるのなら知りたいと思う。ふつうのことじゃない? だが、先ほどまでの傲慢な態度から一変した美静の様子には、おびえてしまう。どんな原因があるというのか。自分が悪いのか、それとも世間に漂っていた呪いにタチの悪いモノがあったのか、あの男がまずかったのか……。


 怖かった。でも、知らないままはもっと怖い。


「知ったら知ったで、お前はショックで倒れるかもしれない。立ち直れないかもしれない。お前がどうなろうと、正直おれはどうだっていい。困るのはこっちってだけだ」


 美静のあごが魁人を差す。幼なじみとして気づかっているらしい。


「俺だって、困りはしない。ただ逢子が、傷つくかもしれない事実なら少し言葉を」

「聞かせて。今なら大丈夫だから」


 いつも一人で耐え抜いてきた呪詛の傷も、今回ばかりは耐えられなかった。死ぬかもしれなかった。でも死ななかったのは、助けてくれた人がいたからだ。

 寄り添ってくれている魁人の羽織をつかんで、逢子は見上げ、うなずいた。魁人は言葉の代わりに、背中に手を当ててくれる。相変わらず、体温がない冷たい手だった。


「覚悟して聞け。こんな呪いの言葉、おれは聞いたことがない。けれど確実に、この言葉は呪いだ。ありえない量の呪詛が含まれている。おれが言うんだから間違いない」

「なんて浮き出ていたんだ」

「うるさい黙れ、おれのペースで言わせろ」


 しばしの沈黙とおれのペースが、呪いの言葉の内容からして彼には必要だったのだと逢子が気づくのは、聞いたあとだった。


 わざとらしくせきをしてから、美静が口にした。

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