三章 三
「ひ、どい、でしょ、お」自分でも苦笑いしてしまう。「も、かえ、たら」
「ああ、ひどい」拝み屋はありのままに告げて。「だからおれは帰らない」
べちゃ
粘着質な音が自分の近くで鳴った。手がじんと熱を持ったように思い、これは痛みだと遅ればせながら理解した。とろい動作で振り払おうと腕を振るう。骨からウジ虫を乗せたとろけた肉が飛んでいったことだろう。
「触るなこのバカ。傷口に塩を塗られたらぶん殴るだろ。お前は今それとおんなじことをやってるんだ。分かったら動くな黙れおれの邪魔をするないいか」
「ああ、悪かった逢子。ごめんな。大丈夫か。まだ耳は聞こえるか」
不機嫌な拝み屋を意に介さず訊ねてくる魁人の勇気に意を表し、うなずいて応答した。
「こいつが拝み屋なんだ。俺の幼なじみで、口は悪いし不愛想だし、それでもお祓いの腕前は上等だ。俺が保証する、信じて大丈夫だ。名前もな、少し信じられないかもしれないけど」
「おれにふさわしい名前だろう。聞いておどろけよ」
「
「ふさわしいよ。おれはこの名前を授けてくれた親を誇りに思うね。今ごろ二人は草葉の陰で泣いているに違いない。出来た息子だってな」
「幼なじみをいじめるなとも言っているだろう」
「うるさい黙れ。おれの親の声がお前に聞こえるわけないだろ。おれだって聞いたことがないのに」
相当なへそ曲がりと見た。見えないが。
「ところであんた、昨日はお盛んだったな」
下卑た笑いを鼻で飛ばし、静かとはかけ離れた話題を持ち出してくる。
「あんたのオンナか。美人同士が絡まり合ってるところを見るのは好きだからのぞこうとも思ったんだがやめた。昨日の時点でもだいぶどろどろだっただろうし、臭かったし、さすがに溶けた女の情事は好みじゃない。女がヤッてるところを見ても混ぜてもらえそうにないなら気分も盛りあがらない。まあそもそもはあのクソ野郎の呪いを引き受けたあんたに興味があったからな、そっちとこっちの興味は別だし」
「あ、の……とこ、は」
「野郎は屋敷街からの永久追放だ」
人形屋敷街から永久追放を宣告されると、次回から近くを立ち寄っただけで所持している携帯端末に警告が表示される。屋敷街に至る大門の警備員も警告を察知し、警戒態勢を敷く。もし警備員を振り払ってでも侵入しようものなら、即座に自警団に取り囲まれて追い出される。
「女が好きか。お前の入る余地はなかったな、ざまあみろ」
「君は幼なじみをいじめて楽しいか、なあ」
「おれの顔を見れば分かるだろう。何年の付き合いだ」
「すごく嬉々としているな。そんなに口角があがった君は見たことがない。二十年以上付き合ってはじめて見た気がする」
「お前が邪魔しなければあと十秒ははやく完成した」
「人に話しかけておいて邪魔扱いできる根性は尊敬するよ。なんだそれは」
「ぞくにいう、呪いの藁人形だ。ちなみにこれは藁じゃなくて、さっきその辺でテキトーに集めてきた雑草だ」
拝み屋はもとい、魁人への信用も一気に地に落ちた。
「俺はときどき君が怖くてたまらない」
「安心しろ、おれが失敗した姿を見たことがあるか」
「その記念すべき最初の失敗が逢子だなんてやめてくれ」
「うるさい黙れ、おれが失敗するわけないだろ」
一喝した美静が、なんとなくこちらに向いただろうなと逢子には分かった。衣擦れの音が聞き分けられるようになったせいだ。
「今からお前の手をつかむ。めちゃくちゃ痛いが我慢しろ。それから俺が指図したとおりに紙に文字を書け。死にたいのなら断ってもいいがな」
有無を言わせる余地のない強引さだった。がくんと首を動かした仕草を、彼は肯定と受け取ってくれたらしい。先ほど魁人につかまれたような腕の痛みがほとばしる。とろけた肉と肉の合間に指が入りこみ、骨に触れられたような硬質な感覚がした。一瞬の衝撃のあと、その感覚が消え失せる。感覚神経もやられたのだろうか。これでは美静の指図を聞きたくても聞けない。
「おい、おい! 嘘だろ! 逢子、大丈夫か……ああ、なんてことしてくれたんだ」
「ちょうどいい、どうせ本人の手だから俺が書いてやる。お前が片想いする女の名前はなんだ」
「逢子だ。あと個人情報をベラベラしゃべるな」
「字が分からん」
「分かった教えるから」
男二人が言い合っているあいだに、逢子はわが身に起きた事態をようやく理解した。左手に比べて右手が浮いている感覚がする。ふわっと軽い原因をやっと見出した。強いと思っていた靭帯も男の力には負けるのか。右手首を折られたようだった。美静は奪った手を都合よく使おうとしているし、なんという男だろうか。
「よし終わった、返そう。さもないと右手がないままもとどおりになりかねん。魁人、ついでに頭皮もくっつけてやれよ。惚れた女がハゲでも愛せるってなら話は別だがな」
「逢子がどんな姿でも俺の気持ちは変わらないが、逢子が傷つくのは避けたい」
「いい男ぶるなよ。野郎が女に惚れる根底の理由なんかヤりたいからに決まってる」
どうやら布団をはがした際に落ちたのは頭皮だったらしい。頭蓋骨をさらけ出したまま男二人と会話をしていたようだ。そんな女を目の前にして、よくこの二人は平然としていられたものだ。……この調子だと、月の障り前日の姿を見せても、魁人なら気持ち悪さよりも心配を優先していただろう。ああ、会ってしまった後悔が尽きない。
魁人が頭を押さえてくれている感触が……感触が、戻りつつある。人に触れられている圧力と、しだいに、体温が伝わってくる。人よりもだいぶ冷たい、無機質な触感。
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