三章 ニ

「昨日、誰か来なかったか」

「あ、えさま……と、きゃ、なんにん」

「そうか。本当に毎日のように来ているんだな」

「じぶ、だ、て、じゃない」

「そうしたかったんだ。毎日のようにじゃなく毎日来ようと思っていたのに、自分でも連続記録が八日でとまるとは思わなかった。くやしいよ。約束を破るような男だと思われそうで、恥ずかしいくらいだ」


「え……?」


「涼風に来てみろって言われていてな。言われなくても毎日来るつもりだったのが、あいにくまた頭の引き抜かれた女の死体が見つかって、それどころじゃなくなった。約束が果たせなくて、涼風にも悪いなと思っていたんだ」

「ぎの、ぎえ、ない? ぎの、あえさあ、いる、どい、ぎあの、ちがう?」

「ああ、それは今電話した拝み屋だ。こないだの男の呪いを引き受けた呪われ屋に興味があるってんで、見に行くって言っていたからな。さっき話したら、来たことには来たが会えてないと言っていたから、たぶんそいつじゃないか」


 じゃあ、あれは、あの人影は……この男ではなかったのか。別人に涼風との痴態を見られてしまった羞恥心もあるが、同時に胸中に広がっていく安堵が大きい。


「拝み屋は俺のむかしなじみだから、俺が頼めば、まあ文句はあるだろうがお祓いをしてくれるはずだ。それまで何かしてほしいことはないか。食事は大丈夫か。水くらい飲めないか。買ってこようか。それとも薬を塗るとか止血するとか、俺に出来ることはないか。なんでもするから」

「いい」

「遠慮しなくていいのに」


 遠慮ではない。もう体の表面がここまで爛れているということは、内臓はもっと悲惨な状態になっている。胃などてきめんだ。何かを口にしようものなら、胃液と血を吐き散らして床をのたうちまわるのが関の山だ。普段ならばこれは月の障りまで三日以内、というときの状態だ。こうなったらもう、絶食して栄養失調で気絶、その果ての眠りで、月の障りまでの時間を過ごす。

 室内を飛びまわるハエを追い払う、風を切る音がした。鼓膜を揺らす原因はそれくらいで、魁人が話しかけてくることはなかった。会話も億劫そうだというのに気づいているのかもしれない。そんな優しさも見せてくれなくてよかった。もっとひどい男でいてほしかった。


「また来ることになるなんて思わなかった」


 時間感覚も狂った頭では、拝み屋が来るまでどれくらいかかったのか分からない。五分なのか一時間なのか。


「悪いな」

「悪い」不機嫌な声は、舌打ちとため息のおまけつき。「お前の頼みじゃなかったら来なかった」


 座敷に腰かけている魁人のとなりにその男も座ったようだ。畳に布がこすれる音だけが判断材料となる。


「しかし臭い、だいぶ腐ってるな。夏場の死体十日目って具合だな。これで死んでないっていうんなら、化け物かこいつは。昨日だってこの家の手前まで来たが、とんでもない悪臭だったんだ。今日はその比じゃない。鼻が折れ曲がりそうだ。本当は死んでるんじゃないんだろうな。さてはお前、死んだ女に恋い焦がれてるのか? 頭大丈夫か」

「生きてるよ、さっきまで会話もしていたけど、口を開くのもつらそうなんだ」

「だろうよ。これでぺらぺらしゃべるんじゃ、仮病のやり口が高等過ぎる。お前が相当嫌われてるってことにもなるな、ウケる」

「勝手に想像した他人の不幸でウケるな」


 おい。不愛想な声が降ってきた。臭いと言いながら、思いのほか近くにいたらしい。


「こいつから超のつく美人って聞いたぞ。そこまで戻してやるからさっさと顔を出せ。嫌ならこっちから布団をひっぺがす。男に裸を見せる不安があるならこう言ってやろう。おれは金髪碧眼、Eカップ以上の胸と蜂みたいなくびれとケツがある女じゃないと興奮しない性癖の持ち主なんだ。さっさと出ろ」

「金髪碧眼じゃないけどな、胸とくびれと尻は逢子そのものだぞ」

「おれがお前の女に惚れていいのか、バカ。とにかく出ろ。おれの手をわずらわせるな。一秒数える内に出て来い、ほらいーち」


 拒否権を与えない口ぶりには狼狽するしかない。この手は逆らうほうが面倒くさいというのも、元娼館で働いていた身分としては知っている。しぶしぶ動いて、頭からかぶっていた布団を外した。ひっぺがされるよりは自分で動くほうがマシだ。


 ずるり


 頭から何かがすべり落ちていった。布団に体が貼りつかないように布を何枚も体にまとわせていたこともあったが、結局は腐った体のぬめりでずれてしまうのであきらめた。だから頭に布を乗せていた記憶はないのだけれど、なんだろうか。濁った目では薄ぼけた景色しか見えない。男二人のだいたいの位置関係すら計れない。戸口から射す光の強弱すらあいまいだった。


 男二人が、息を呑んだのは耳に届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る