三章 一
職人の男の呪いを受けてから、二日しか経っていない。だというのにもかかわらず、逢子の体を蝕む呪いによる傷跡は、通常の倍以上の速度で悪化の一途をたどっていた。
おかしい。客足はいつもどおりだ。家のどこかのお札がはがれたのか。一か所でも穴となる空間があいてしまえば、世間を漂っている呪いが勝手に入ってきてしまう。仮にそうだとしても、月の障りが終わってわずか二日で、障りの前日と同程度まで悪化するとは考えにくい。
視力はもうなかった。携帯端末を操作しようにも、本体がどこにあるのか分からない。手で探そうにも皮膚と肉と神経を失った白骨の右手では、何に触れているのか判別がつかなかった。もう片手は布団に貼りついて、ウジの家と化している。ハエがやってきて産みつけていった卵が孵化する様子も、成長する過程も、いつもなら眺めていられるのに。今回はそれすらできない。
毎日のように来ていたあの人も、昨日を最後に来なくなった。
ああ、違う違う。だから、彼はもう来なくていいの。嫌ってくれた。それを願っていたのは、誰でもないこの私だったじゃない。
でも。
……違う。でもとか、もしかしたらとか、そういうのいらないんだって。いらないの。女々しい自分がいやになる。未練とか、嫌いなのに。女だから当然か? そんなことはない。もう男とか女とか、このご時世にそんな性差は求められていない。
目がまわる。少し難しい考え事をするだけで、頭が破裂しそうなほどがんがん痛む。これこそ月の障り前日によくあることで、あと一日や二日という時限があるから耐えられた。まだ十日以上続くなんて考えたくない。痛みに慣れた体は、他人から受けた呪いがどんなにひどくても、十数日分をためないと痛覚が働かなくなっていた。痛覚すら、呪いによって傷つけられた神経でその数日後には失うから、実質痛みを感じる日はほとんどない。
それが、今回はなぜこうも違っているのか。
呼吸もままならない。膿で貼りついたままの唇を開こうとすれば、ぜい弱な皮膚がぴりっとちぎれる。わずかにぬるさを感じるのは血が流れたからだ。上下に分かれたすき間から空気を求めると、卵を産みつけに来たハエが飛びこんできた。のどに直接触れたハエの翅がくすぐったくてむせる。げほっ。翅がのどにくっついたのか、かきむしりたくなる。取ろうとしてせきこめば、吐き出されるのは唾液ではなくてさらりとした鮮血だった。血の海でハエは溺れてしまったか。舌に触れた塊は、ハエか、のどの破片か。
もうだめだ、横になろう。横向きで眠らないと、口から流れ出る血で呼吸困難になって死んでしまう。
ううん、大丈夫。まだ死なない。大丈夫。呪いで死ぬことはない。今まで死んだことないでしょう? 自分に問いかけて、笑ってみる。少しだけ楽になった。笑えるっていい。笑い合える人がいるっていうのは、よかった。もう来てくれないと分かっていても。笑わせてくれる人がいるっていうのは、本当に、よかった。
少し眠たくなってきた。まぶたが重い。ウジの重みだ。まばたきをすると、うねうねと横筋の入った白い生物が目に入ってくる。視力が健在なうちは観察していられた。涙の中をぴちゃぴちゃと泳いでまわる、ハエにとってのわが子たち。目を閉じたら、彼らの水浴びを邪魔してしまう。じゃあ、閉じないほうがいいかな。今はもう見えないけれど、この体のありとあらゆるところにウジがまとわりついている。だから、閉じない。どうせ、目はもう光も感知できない。
「逢子、ずいぶんひどそうだな」
うとうとする頭が聞いた。幻聴。目と違って閉じられない耳は、確実に周囲の音を拾っていた。
「あ、ん、で……」
「どうしたどうした、声もひどいな。二日三日でこれじゃあ、三週間なんてもたないんじゃないか」
まさか冗談と思ったが、水分の少ない耳に入りこもうとするウジはめったにいないと身をもって知っている。聴覚は最後までおかしくならないから、月の障り前日まで会話はかろうじて行えた。だからこの声は、間違いない。
「それとも、体は案外ふつうなのか」
土間を擦る足音が、座敷にあがったのだろう。音がやむ。その後の行動がいつかの再来を予知し、布団をありったけの力でつかんだ。骨をつなぐじん帯が腐ったことはない、どうやら強いらしい。助かった。まだちゃんと動いてくれる。
「ごなっでっ、みられっえっげええええっ」
こんな醜い声も聞かせたくない。こんな格好はもっと見られたくない。
見せつけるつもりだった。どんなにひどい有様か、その目に見せつけて、恐怖を刻みつけてやるつもりだった。二度と立ち入らないようにしてやろうと、私を思い出すだけで鳥肌を立てる姿を見せてやろうと思っていたのに!
女の恥じらいが、すべてをこきおろした。
「ああ、ああ、分かった。悪かった。見られたくなんかないよな。体の中も外もさらけだしたような姿じゃ、裸を見られるより恥ずかしいな。大丈夫だ、何もしない。信じてくれ」
軽薄さがいつもより少ない声だった。たぶん、聴覚がおかしくなっていなければ。
「しかし、それが通常営業なのか? そのまま三週間過ごすのか?」
「い、ど、い……」
「だよな、ひどいよな。よし分かった」
数秒黙った魁人が、いきなり誰かと会話をはじめた。誰か連れて来ていたのだろうか。足音はしなかった。耳を澄ませていると、携帯端末で会話をしているのが分かった。通話はすぐに終わった。
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