二章 四

「少し、ひどいみたいね」


 涼やかな声を聞きながら、逢子は彼女の愛撫を受けていた。

 はじめのうちは、次の月の障りが来ないと治らない、焼け石に水の傷の手当てだった。やがて涼風の手つきにどこか淫靡さを見出してしまった逢子に、涼風が仕草をエスカレートしていった。


「魁人さんから聞いたの。ひどい男だったんですってね。それがあなたにこんな傷を与えるなんて、とても許せないことだわ」


 涼風の舌先が、逢子の乳房の先端を転がす。すでに固く仕上がっていた突起を涼風が楽しげになぶる。こらえきれなくなった逢子が淫らに漏らす声を、涼風はいつも心待ちにしているようだった。姉妹として慕っていた涼風だから、逢子には彼女の声色ひとつですべてが分かる。


「出血が激しいのね。血を拭わないと、軟膏だって塗ってあげられない」


 だから、涼風が、逢子の肌をねぶる。唾液のない乾燥した舌は、逢子の体から水気を奪うには最適だった。 


「それに魁人さん、あなたにずいぶんご執心みたいね。あちこちのお店の子が騒いでいるの。あの人が急に来てくれなくなったって、きっと本命ができたんだって、犯人探しみたいなことをしているわ」

「あっあんな人、もう、もうっ……来ないでって、昨日っ……言ったんですっ、うっ」

「わたしも説明したのよ。逢子は男性が苦手で、女性が好きだって。だからあなたにつきまとわれるのも、迷惑に思っているのよって。でも彼、信じてくれなかったの。そんなことはないって。あの方にあなたの何が分かるというのかしら」


 軟膏をまとった涼風の指の腹が、逢子の胸をくすぐった。たいして傷がついていないところ。けれど涼風の興味は薬ではないほうに向いていて、正そうにも、逢子は喘ぐばかりで言葉が紡げない。


「だからね、わたし、言ってあげたの」


 わたしがあの子をどんなに愛するか、あの子がわたしをどんなに愛するか。見にいらしたらどう? ってね。

 まさか。逢子はかくんと首を動かした。強化プラスチック張りの障子戸の向こうに、薄く揺らぐ人影がある。


 ああ、嘘だ。あの人にこんな、こんな姿を見せないといけないなんて。


「さあ、逢子。もう受け入れられるでしょう」


 胸だけの愛撫ですっかり支度は整っている。涼風の指が蜜の滴る入口を探り当てた。


「ああっ」

「ここは平気みたいね、軟膏もいらないわ。よかった」


 涼風もまとっていた浴衣を脱いだ。彼女の下半身にあるものは、本来女の体にあってしかるべきものではない。

 むかし、彼女の体にこんなものはついていなかった。彼女が頼みこんでつけてもらったのだ。

 誰に。それは、思い出したくない。逢子にとってのつらくて忘れ去りたい記憶であると同時に、いつまでも、死んでも埋められても胸に抱き続けたい思い出でもある。

 雲のすき間から射す陽光のように、彼の記憶に陰りをもたらす……新たな人を想って、逢子は目を開いた。戸の向こうに影はない。いない。帰ったか。よかった。でも……いいえ、これでよかったの。もうあの人は、これで来なくなる。きっと、二度と、絶対。来ない。それでいい。

 そうすれば、あの人は死なずに済む。


 涼風の豊満な乳房を見ながら、彼女の欲が沸騰した塊を体内に受け入れる。

 呪いによって傷つけられた体でも、涼風に激しく責められた。涼風を選んでおけば間違いはない。あの悲劇をもう繰り返さないためには、選べる相手は限られている。涼風は、唯一といってもいい。

 傷ついていた皮膚がこすれる痛みを緩和させるべく、涼風が逢子の体を操る。逢子が涼風を見おろす体位に変えられる。涼風が体を揺さぶり、快感を逢子の体にたぎらせていく。何度目か、逢子は体内を駆けのぼる快楽で昇天を果たした。涼風が吐き出した欲が、腹部の手の届かない奥深くに自分ではない熱をもたらしてくる。


「ああっ」


 四散してしまいそうな意識をかき集めながら、涼風の体の上で伏せた。彼女のやわらかな手が髪をすいてくれる。それだけで息も整い、眠りに誘われる。

 よく眠れなかった夜、こんなことをされた思い出がある。でもあれは涼風ではなかった。


「逢子、あなた恋をしたわね」


 魁人さんに。涼風の声は小さかった。それでいて、とても悩ましげだった。


 逢子が恋する意味を、涼風はよく知っている。


「わたしには分かるわ。あの人も、あなたを好いていること。見れば分かるもの。でもね、あなたはわたし以上に分かっているはずよ」


 悩ましげな響きは苦痛に支配されていく。涼風の声に伴わずとも、逢子の心も苦しめられた。八つ当たりさえしてしまいそうだった。

 そんなに苦しい悲鳴をあげないで姉様! 吐息なんて漏らさないで! 分かってる、だめだってことは分かっているの!


「あなたを抱く男はみんな死んでいるのよ」


 分かっているから言わないで!

 ああ、死んだ。みんな死んでしまった。涼風の妹分だった逢子が、はじめて客を取る。売れっ子娼婦、涼風の妹分である逢子の美しさを褒めたたえない者はいなかった。もっとも多く金を出した者だけが、少女を女にさせられる。

 そうして、勝ち取った男がいた。逢子のために、勝ち取ってくれた男がいた。

 死んでしまうかもしれない。逢子は警告した。彼は、少しも恐れなかった。


「平気さ、そんなの」


 笑って慰めてくれた。優しい人。逢子も彼に惚れていた。彼とならきっと、平気。

 そそのかしてきた己の心に悪魔が棲んでいると知ったあの日からもう、人生に色は消え失せた。黒い紙に赤や青は描けない。それらすら、濃度の異なる黒へと昇華させられてしまう。黒は黒でしかない。白ですら濁してしまう、凶悪な色よ。

 すべてを奪う色。そう思っていた黒が、最近、なぜだろう、美しさを見せてきた。逢子を魅了する黒があった。鴉の濡れ羽色。摩天楼の娼館の最上階で、雨の日、羽根を休めに来た鴉の羽根を今一度、手が届く距離で見てしまったあの日、なんて綺麗なのかと見とれてしまった。どうして今になって、あんなに美しい色だったなんて知ってしまったのか。


「いいこと、逢子」


 逢子の肩をつかみ、涼風が体を軽く離す。力の抜けた腕で布団を押し、体を持ちあげた。


「あなたは男性を好きになってはいけないの。それも生身の人間なんて選んでは、決していけないのよ」


 殺してしまうのだから。

 愛しているからこその行為で、相手を殺してしまう。因果な体を持って生まれてきた。この体があることで、人を救える。けれど、愛する人を最後までは愛しぬけない。


「はい……」


 指の背で目元を拭う。記憶と恋心からあの人を消すために。

 だから、涼風を好きになろう。安全な道を選んだ結果だった。逃避場所でもあった。ただ一人の家族。彼女さえいれば、あとはもう何もいらない。そう思っておけば、間違いはなかった。


「もう誰も、死なせたくないでしょう」


 そう、だから。だから、あの人ももう来ないでくれたらいい。そう決めて、冷たい言葉ばかり選んでいたじゃない。涼風に抱かれる自分を見て、私たちのあいだに入る余地はないのだと立場を考え直してくれたらいい。胸に抱いた薔薇の花びらも、結局は捨てざるを得なかった。

 もう、来ないで。

 理性が訴える。返答するのは彼ではなくて、逢子の感情。

 もう、来ないの?


「泣かないで、逢子。もっとしましょう。そうすれば少しは気が楽になるわ」

「あっ、姉様っ」


 そうだ、これでいい。涼風さえいれば、もう何もいらない。

 娼婦ですらない私に、自警団の庇護はいらないの。

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