二章 三
ごりっ
むかし、まだ村にいたころ。山道を歩いていて、ぬめりの奥にある硬い何かを踏み折ってしまったときに感じた音が再現された。あれはイノシシに襲われたタヌキの死骸だったか。
子どもだった逢子とは何もかもが違う。容赦も情けもない大人の男の蹴りが、よだれを垂らす男の顔に直撃した。蹴り飛ばされた男は反転し、畳の上をすべって壁に激突した。鼻から口から血を垂らしている。おえっおえっと嗚咽をあげるのは、男ではなく子どもの声に近い。恐怖を抱きながらも情を寄せてしまいそうになるときだけ、女に生まれたことを後悔する。
「逢子、大丈夫か」
手を差し伸べて、助けてくれる男の知り合いなど、今の逢子には一人しかいない。まっすぐに逢子を見つめてくる視線に含まれる感情は、心配だった。心を配る。魁人の心配を、胸は求めていた。
けれど自分は、受け取ってはいけない。受け取ったら最後だ。頼りたいと思ってしまったら、彼を殺す未来にもつながりかねない。
「平気、大丈夫」だから、厚い胸板を押し返す。「それより、自警団の拝み屋さんは親友なんでしょう。こいつを連れて行ってあげてほしいんだけど」
「身勝手に娼婦を傷つけてばかりいる男だ。生かしておいたって価値はない」
同じ女がひどく傷つけられているというのに、まさか自分が許すとでも思っているのだろうかこの男は。勝手な身の上話を聞かされているだけでもはらわたが煮えくり返ったというのに。誰がどんな目から見ても罪まみれの男の行為だ。償うことすら拒まれるような所業を、許せるやつがいるか。
それでも、誰も死なせたくない。誰も。こんな、娼婦を傷つけ、わが子から呪われるような男でさえも。助けたいと思ってしまう。優しさではなくて、生まれついた人の性がそうしたいと思ってしまうから。
「あ……」
「どうした」
吐息が漏れたのは無意識だった。ほとばしる痛みが声帯を震わせる。下半身から突きあげてくる圧力が胃を揉んだ。口を手で押さえてもこらえきれなかった。顔を汚すだけになる。せきとめていた手を外せば、先ほど食べた食事が吐しゃ物に姿を変えて戻ってきた。湯の多いかゆは主食。細切れになった鶏肉、ふやけたきゅうり、見分けがつかなくなったレタスとワカメ、噛みつぶし損ねたコーンはそのまま出てきた。
「どうした、逢子、大丈夫か、どうしてやったらいい、背中、さすっても、だめか、触られるのも嫌か、どうすればいい、どうして欲しい、逢子、逢子しっかりしてくれ」
うろたえる魁人には、腹立たしいが説明をしてやらないといけない。じゃないと、この男はいよいよ帰らなくなるだろう。
それに、待ちわびていたじゃない。このザマを、見せてやりたかったのは誰だ。
「月経が、終わっただけだから」
体がまたいつものように、周囲に存在する呪いをかすめ取るようになっただけ。もっとも身近にあった呪いとして、職人の男の呪いを奪い取ってわが身にためこんだ。男への女の憎悪、胎児の怨念。呪怨を体にためる逢子を内側から蝕み、四肢の末端から腐敗させる。
内臓への負担がいつもよりはやいな。ぐらつく頭で思った。まずは外傷から異常をきたすのだけど、今回は内臓からやられるなんて、地獄の一ヶ月のはじまりか。それだけ、この男に対する女と胎児の恨みが強いということか。
「いつものことだから、大丈夫……」
「これがいつもだなんて」
「仕方ないじゃない……もういいから、今日は。もう、こいつを連れて行って」
伸ばされる手を封じる、一言も告げなければ。
「もう、二度と来ないで」
めまいが激しい。視界がちらちら、陰翳の抑揚が著しい。白と黒のコントラストで彩られる世界になる。どちゃり、頬がぶつかる。吐いたかゆの上に頭が落ちた。平衡感覚が消えていた。びちゃりと跳ね返った胃汁と消化物が顔にはじいてくっついた。米粒の破片が、とろりと頬を伝う。消化途中の米は甘いにおいがした。胎児のような。それらを溶かすべく、分泌されていた胃液のにおいが鼻をつく。仲間の胃液を呼ぶように、おう吐感をもよおさせる。
もう、慣れたけど。やっぱり、今回はきついかも。
だからどうか、慣れていない人間は近づかないでほしい。もう二度と、こっちに来ないで。
おねがいだから。
「また来る」
魁人は土足のまま座敷にあがり、男を肩に担いだ。その前に彼が口にした言葉は幻聴だと、誰かに教えてほしい。聞き間違えただけだって。
「また来るからな、逢子」
なんのことはないたった一言を、念を押すように魁人はもう一度、言い残して去っていった。
言うほうはいいわ、言えばおしまいだから。けれど、言われる身にもなってみろ。どんなに女の心を苦しめるか知らないから、男はそんなもの、何ひとつ分からないんでしょう。だから勝手に、こちらの気をひとつも知らないで、そんなこと、好き勝手に言って……。
「うげっ、おえっ……うえっ」
逆流してきた胃液を鼻からも流しながら、逢子は悶えた。口から鼻から白みがかった黄色の胃汁を垂らし、せきこみ、酸素を求める。
胃汁とはまったく別の、透明な滴を目から流しながら目の焦点を合わせた。ぎらりと強烈な赤い破片が目につく。魁人からもらった花がちりぢりになっていた。職人の男があがってきたとき、踏みつぶしてしまったに違いない。男がくれたものはみんな、台無しにしてしまう。いつもそう。情けない自分。顔から液体という液体をだらだらこぼしながら、逢子は腕を伸ばして薔薇をかき集めた。
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