二章 二
「呪われ屋、大変なんだ、なんとかしてくれ!」
魁人ではない。ならば、顔を見せる理由は消えた。
とっさにかたわらの布団をつかみ、もぐりこむ。駆けこんできたのは職人風の男だった。この声は幾度となく聞いた覚えがある。病院と刑務所と呪われ屋に常連などいないほうがいいのだが、この声はいないほうがいい連中の一人だった。代金をあとになって支払いに来た声こそ聞いたことがなかったが、勝手に土間にあがっては体から呪いが取れていったのを感じて出ていく。
いわゆる「ツケ野郎」だ。
「そろそろあがりって聞いたぞ」
「今日はまだダメよ。私の体調に左右されるんだから、帰って」
「ふざけんなよ! こっちは死にそうなんだぞ」
男は勝手にわめきだした。彼が気に入っていた娼婦は特段に嫉妬深いらしい。彼が別な女によそ見をするだけで不機嫌になるし、会話をしている姿を目にされるだけで悲嘆にくれて泣き出す。それならとっとと縁を切ればいいだろう、元娼婦は小言のひとつも言いたくなるのだが、床上手で美しい女は切れなかったと言うから根性を見上げる。そんな魅力がある女が自分だけに惚れ抜いている優越感を、己が女に抱いている好意と勘違いしているだけではないか。バカらしい。
決定打は、その女の妹分が決めたようだ。彼女は姉の迷惑を彼に詫びた。頭を垂れた仕草の、前のめりになったときにのぞいた胸元の谷間に彼は目を奪われた。自らの姉の非礼を詫びる懐の広さもぐっと来た。迫る彼を遠ざけようと伸ばしてくる両腕と、その手の向こうにあった、困ったような笑みを形作るさがり眉と優しげなたれ目。彼の理性は本能に屈した。
当然、彼の娼婦に知れないわけもなかった。よりにもよって自分の妹分と寝たなんて! 彼女は彼を恨んだ。妹分は、恨もうと思いつつも、娼婦にとっての姉妹関係は血を分けた家族以上に心のつながりが濃い。恨みきれなかった。だから二人分の恨みを、彼女は彼一人に押しつけた。
三日三晩部屋から出なかった彼女は、怨念の塊を作りあげた。部屋から出た彼女は、いの一番に彼に何かを投げつけた。鉄臭い中に、どこかまろやかな乳臭さもある。赤い不思議な粘液を浴びた瞬間、彼は全身が焼かれる痛みを味わった。瞬時に呪いだ、と悟ったのは、ひとえに彼が呪われた経験が豊富だったからだった。
彼との子どもを堕ろした彼女は、彼と己の血を継いだ塊を使って呪物を作りあげたのだった。
「子どもを使った呪いだなんて!」男も男だが、女も女だ。想像するだけで胃が月の障り前日と同じくらい重くなる。「さっさと対処しないと死ぬよ。拝み屋にでも頼むのね」
「そんな金ねえよ!」
人形屋敷街には自警団専属の拝み屋もいる。専属となるくらいなので腕前は折り紙付きだが、呪われ屋にさえ金を払わない男が払える代金を請求することはまずない。今の拝み屋は性格が相当きつくて、特に男にはめっぽう厳しいと聞かされていた。娼婦を傷つけて受けた呪いならば、いっそそれで死んでくれたほうが娼婦たちのためにも平和的解決だ消えろ二度とおれの視界に入るな角膜を汚すなと突きはなす言葉があるだけ優しいらしい。体のいいゴミ掃除をされたくなければ、己がゴミではない証に金を払えと足蹴にしつつ代金の支払いを求めるというのだから、腕前しかない男なのかもしれない。
「とにかく、今の私じゃ呪いを引き受けてあげられない。悪いとは思ってあげるから、急いでそっちを頼ることね」
「あんな男にもう一回頼むなんて絶対にいやだ! 頼む、あんたしか頼めないんだよ」
こっちだって無理なものは無理だし、すでに一度頼んで断れている事実も知れた。おそらくゴミ扱いされたのだろうから、やはりこの男はその程度の人間なのだろう。……そうは思っても、逢子は気が強いと噂されつつも、人である以上、同情は避けられない。
なんとかしてやりたい。思いは募る。嘘ではない。この男がろくでなしであろうとも、助けられるものなら助けてやりたいと考えてしまう。だが月の障りが終わらなければ、どうやっても自分に助ける力は存在しない。
ずりっ
男が土間に尻もちをついたようだ。立っていられないほど、呪いがもたらす責め苦に耐えられないのだろう。
ずり……ずり……
這うことしかできなくなったのか。ここに駆けこんできたのが、最後の気力だったのだろう。
それでも、私は助けてやれない。
人を救うために生まれる村の、逢子は唯一の生き残りだった。人々のためなら命をなげうつことを、厭うどころか美徳ととらえ、村は続いてきた。自分以外の村人が全滅した今、生き残りは目の前で苦しんでいる人を救えない。
布団から座敷、土間、開きっぱなしの戸を見つめていた逢子の視界に、陰りが生まれる。
土間から、男の頭が伸びてきた。
目が開いていない。嬰児、よりも小さい。胎児だ。血を浴びて、母の股から生まれ……いや、安寧のゆりかごから蹴落とされた子どもだ。
「助けてくれよ、呪われ屋……おい、なあ、なあ、なああああああああああ」
座敷にのぼってくる動作は大人ではない、子どもが這いつくばる動きそのものだった。畳に両手両足をつけた四つん這いの格好で布団に突進してくる。逃げまどっているうちに、かぶっていた布団がはがされる。視界が一気に明るくなる。今までは腐った体を見ようとする者など皆無だった。それが過日、あの男のせいで破られた。一度破られた戒律は、たとえ破られた事実を知らなくとも、いともたやすく壊されてしまうのだろうか。
せめて顔だけでも隠そうと、布団をつかもうと試みる腕がつかまれた。
無理やり振り向かされたとき、互いに顔を見せあってしまう。
ああ、そのときの男の顔――これは胎児の顔ではない。
「なんだぁ、おまえ、こんなイイ女だったのかよ」
野卑な雄の顔だ。
「はなして!」
あの男と同じ目に遭わせるべく足を動かすが、自由が利かない。太ももに男の脚が乗っていた。抵抗の封じ方が手慣れている。
荒い鼻息とつばが落ちてくる。いやだ、汚い。それに、絶対にダメだ。
「どうせ、どうせ死んじまうんだろ、じゃあ、じゃあおまえ、一回くらいヤらせろよ」
「絶対だめっ」
どうせ死ぬ、ではない。たしかに男はこのままだと死ぬ。だが拝み屋にすがりさえすれば助かる道は残されている。
ここで私を抱けばもう後はない。助かる道を自らの手で壊し、絶対的な死につながる道しか選べなくなるのだ!
ぐるり
「あヴぇええええっ」
男の目玉が一回転したかのように、黒目を失う。口からはなたれるあぶくは、母乳を胃に送れなかった赤ん坊のおくびのようだ。
娼婦と男との子ども。堕胎された子どもの体の破片。これから形成されるはずだった骨や神経や臓器を粉々にして、呪いの贄に送られてしまった子どもがいる。そして体が形成されるよりはるか先に、この世に生まれていた子どもの心は今、ここにある。心の入れ物となるはずだった体をずたずたに壊されてしまった子どもは、何を思うのか。
父であるはずの男の体を借りて、子どもが口をぱくりと開く。
「ぼぉおおおぅうううおおおおうんれよおおほほほほほほおおおおおおお」
胎児が叫んでいる。望みを告げるために。胎児の願いはたったこれだけ。親となるはずだった男と女には届かなかった祈り。
だから胎児は強行する。父の体を操り、その体から放出される精と逢子の卵の結合を見守り、改めてそこに自分自身の入れ物を再生させようと。その入れ物から除けられる心の行き先すら、もはや考えもせずに。
「やめてっ、お願いやめてっ」
「ぼおおおおおおおおううううううううぅんれええええええええええええ」
もう一度、女の腹へ。戻りたい。帰りたい。孵りたい。無垢の腹を母胎として、もう一度産み直してくれと懇願してくる。胎児の願いはささやかでしかない。父と母に抱かれたかった。その一心でこの世を訪れたというのに、あまりにも残酷な産み落とされ方! 自分は愛されるために生まれてくるのではなかったのか!
胎児の声が聞こえてくるようだ。現に、逢子の耳には届いている。男の口を介して、空気の振動が伝わってくる。胎児の泣き叫ぶ声。助けてくれと必死な願い。抱きたい。この腕は求めている。慰めを欲する子に、愛情を少しでも分け与えたいと。
それでも、私にしようとする者に例外はない。
「いやあ!」
もう誰も、死なせたくないのに。
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