一章 四
「何するの!」
男は、逢子がかぶっていた布団をつかむと一気にめくった。もう体は腐っていないから、布団に体の一部も持っていかれない。
おそらく、楼主たちから今なら拝み倒せば顔を見せてもらえるかもしれないと教えられたか。だからこそという、この暴挙を、逢子は信じられなかった。今まで頼んでくる男はいても、力任せに布団をめくってくる男はいなかった。
逢子がもともと勤めていた娼館は、人形屋敷街でも名だたる
特別に景色がいい最上階で、逢子は姉貴分と日々を過ごした。逢子の機嫌を損ねるということは、大店の楼主も、まだそこに勤めている逢子の姉貴分の機嫌もかしがせることになる。今後の身の振り方を少しでも考える頭があれば、逢子に狼藉を働くような者はいなかった。
いなかったのだ。今日のこの日までは。
はがされた布団を奪い返そうとすれば、手首がぎっちりとつかまれる。先日までは布団の繊維のすき間にさえ染みこんでいた体液も、月の障りの今日では体のあるべき部位に戻っている。だが膿や腐汁といった、悪臭をはなつ液体はぬめりを伴った布団に残っている。
男はそんな布団に触れることも厭わず、ためらいなく膝をつき、逢子を押し倒してきた。腕をつかまれてしまっては顔も隠せない。
なんてことをしてくれたのだろう。こんな女を見るなんて、どうかしている。
「おどろいた」
「それはこっちが言うことだから」
自警団勤めが女を押し倒すなんて考えてもみなかった。お気に入りの娼館が高級だろうと格安で通える恩恵を受けている連中が、どうしてこんな長屋住まいの女を力づくで手籠めにしようとするのか。まさか、絶対にさせるわけにはいかないが、しかし一体全体何を考えているのかまったく分からない。
だから、逢子は男の眼前に素顔をさらけ出してしまった。
同時に、男の――魁人の顔も見てしまった。
鴉の濡れ羽色。摩天楼の娼館の最上階に飛んできた鳥を思い出す、美しい黒を想起させられる髪と、同じ色の美しい瞳。決して揺らがないまなざしが、胸を深く深く突いてくる。痛いほどに。気のせい? それならよかった。端正な顔立ちは、逢子の体が女というだけで十分魅力的に映る。あれだけの軽薄で失礼千万な態度も、帳消しにしてやってもいいと思えるほどの美形だった。
膿と腐汁の悪習に顔をしかめることもない。凛とした面持ちのまま、その目はしばらく逢子を見やっていた。逢子も瞳を外せなくなっていた。
ぎこちなく動き出す魁人の視線が、逢子の頭の先から足先まで旅を終えると、再び顔に戻ってきた。
「楼主から聞いた」
人形屋敷街屈指の娼館「女郎や」の売れっ子娼婦
姉に勝るとも劣らない美貌と勝気を備えた娘を、誰が少女から女にするのかと。
逢子に水揚げの年齢が迫ってくると、街の話題は逢子一色となった。金を持つ男たちは彼女の初夜の権利を楼主からどうやって買おうか思案し、金のない男たちはそんないさかいに羨望と妬みの入り混じった侮蔑を飛ばしていた。
しかし、逢子はまだ
「まだということは、そうなのか」
かつて娼館に勤めておきながら、まだ女ではない。
意味を悟った男の表情は、憐憫に染まり、そしてまた新たな感情の色味が上塗りされていく……。
ああダメ。私はこの男を殺したくない!
「ぐおっ」
くぐもった悲鳴をあげて、魁人が逢子の脇にくずおれていく。彼女の手首を拘束していた手は、魁人が逢子に痛めつけられた場所――いわゆる男の急所に伸ばされる。
膝蹴りは、痛みに悶える男を見るにつけ、他人事だとやり過ぎだよと思いつつ嘲笑して終わる。だが女にしてみれば、わが身かわいさを思えばたいした痛みじゃないに決まっていると思うほかない。そうと強く決めておく。じゃないと女は自分を守れなくなる。
「手加減してくれたのか……」
「まあね」
「ありがとう……」
「バカなの」
「よく言われる……」
蹴ってきた相手に礼を告げるくらいでは、相当のお人好しかバカだ。
乱れた衣服を直しつつ、ふうと一息つく。危なかった。これ以上はダメだ。私以上に、この男がダメだ。危ない、危険過ぎる。これ以上はもう、同じことを繰り返したくない。そう、だからそう、落ちつけ。この男だって本気ではない。娼館にかよえる自警団の男なのだから、遊ぶような軽い気持ちに決まっている。こんなことに命を懸ける男なんていない。
だから、そう。違う。こんな激しい動悸は間違いだ。男に襲われるかもしれなかった、恐怖がもたらした生理現象だ。別な理由じゃない。大丈夫、平気、平気だから。
「もう、いいでしょう。出て行ってくれる? ここまでしたんだから、言うこときいてくれるでしょう」
「なぜ……」
「何よ」
乾燥した膿が黄ばんだ模様を残す布団に顔を突っこんだまま、魁人はしばらく悶えていた。多少の罪悪感が湧かないでもないのだが、悪いのは誰かと己の心に問い直せば間違いでしたと消えていった。
「想像をはるかに上回る、美人だった……なのに……なぜ、顔を見せない」
「美人だと顔を見せないといけない決まりがこの世にあったなんて知らなかった」
「ちやほやしてもらえるだろうに……」
「だからそういうおせっかいがいらないから顔を隠して生活しているの。分かったなら今すぐ出て行って、二度と来ないで」
「分かった、が……あと少しだけ、頼む……動けん」
まだ痛むようだ。知ったことではないが、さっさと出ていってほしかった。それでも、わずかばかりに顔をのぞかせる良心がいるので、天井に向かって突き出されている腰が落ちつくまで待った。この体勢で何人の女を抱いてきたのだろうか。数と回数を無感情に適当に悪意を込めて数えていると、布団に体が突っ伏されるようになった。
今一度帰れと責めたてようとしたタイミングで、戸が開いた。
新たな来客だった。
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