一章 三
「全員、股間が濡れていた」
なんだ。肩透かしを食らった気分だ。娼館に勤めていると、否応なく一度は首を吊った同業者を見たことがある。当人の意に反して連れてこられたとか、想い人に裏切られたとかで、この世に絶望した彼ら彼女らは高みを目指す。梁から垂らしたひものわっかに首をくぐらせて見る景色は、結局のところ上ではなく下しか見えていないではないかと、片付けを手伝わされた記憶からよみがえる。使い捨てられたこの世の体は生きる緊張感を失い、うつむいて、穴という穴からだらだらと体液を垂らしっぱなしにするのだ。
「そうじゃないんだ。排泄されるべき液体ではなかった」
「……興奮していたとでも?」
「恐怖で濡れることはないだろう」
男に襲われたとき、女は自己防衛のためにあそこを濡らすなんて馬鹿げた話を娼館にいたころに聞いたことはあった。実際がどうなのかは知らない。だが男は女のその様子に、なんだ本当は悦んでいるんじゃないかと、恐怖に震える女を見下してせせら笑う。女の防衛手段を知らぬ、女の何たるかを知らぬちんけな男はそうやって喜ぶ。
「死んだ女の体に、男に最後までされた形跡はなかった。だから男が殺したのなら、なぜ最後までやらなかった。女が殺したとするのなら、なぜそんなひと手間加えたのか」
「ひと手間」思わず鼻から笑いが漏れた。「おもしろい言い方するじゃない」
「実際にそうだろう。股間を濡らし、頭を引き抜く。ただ殺すわけじゃなく、そうした手間を加えた理由とは何か。殺すだけなら、人目につかぬように殺してさっさと逃げるほうが得策だ。辻斬りのようにな。しかしなぜか、手間がおおいに加わっているというわけだ」
つまり、本当に何も分かっていないらしい。不明なことだらけ。それらをひとつずつ解明するためにこの男が遣わされているのだとしても、こうも謎が多いとひも解くべき糸の先端すら見つからないだろう。
「昨晩死んだ女が直前に立ち寄った、呪われ屋。君の話を娼館の楼主から聞いた。その女は、他人の呪いを肩代わりする、奇妙な体質を持っているんだとね」
「それが何か」
「そこで俺は考えてみた。女たちは、その体を交換すべく殺されていったんじゃないかとね。なぜそんなことをする必要があるかといえば、通常の人間のような生活が困難な体を持っている奇妙な人間がいるから」
迂遠な言いまわしをする。今度はそいつを鼻で笑ってやった。
念も押してやろう。
「私じゃない、違う。そればっかりは違う」
「昨晩殺された女が働いていた娼館の楼主いわく、その娼婦の体は呪いのせいでひどく傷ついていたそうだ。それが発見された死体には呪いの痕跡ひとつなく、呪いがつづられていたプレートからもきれいさっぱり呪文が消えていた。それもすべて、昨晩君のところに彼女が訪れたからだろう」
「だって私、それくらいしか他人にしてあげられることがないのよ」
「そんな日々に嫌気が差してきた」
「そんなことない」
絶対に。ああそうだ、これだけは言える。絶対だ。体が溶けるほどに腐り果てようとも、この意志だけは決して曲げない。この体だけが、あの村唯一の生き残りである証明なのだ。
私はあの村で生まれ、この体を持って生まれたことを誇りに思っている。
「通常の生活ができないってのはそのとおりよ。でも、私はこれでいいの。仮に誰かが、この体を交換しましょうって言ってきても、体は譲れない。この体があるから私は私でいられるの」
「誰かにこんな重荷を背負わせるわけにはいかないって? 優しいな」
「どう曲解したらそういうふうに聞き取れるわけ?」
疲れた。
他人と会話をするなんてめったになくて、実は話し好きだった性分がにょっきり顔を出してしまったが、相手選びを間違えた。疲労に満ちた体をいたわるには、会話をする相手を選ぶ必要がある。ひとまずこの男は間違いだ。
「もういいでしょう。帰ってくれる?」
「そうだな。君は犯人じゃなさそうだ」
腐っていた体で人を殺すなんて不可能だし、腐っていた体のまま犯行に及んだとしても体の一部が死体に残っていないのも不自然。それ以前に呪われ屋は月の障り直前になると、体が布団に貼りついて動くことさえできない。娼館の楼主や、以前に呪いを肩代わりしてもらった娼婦男娼たちが口をそろえて証言していた。彼女は無実である。
男は今さら、笑いながら教えてくれた。
「知っていたなら最初っから疑うな。帰れ」
「帰るよ。でも、最後にひとつだけ」
ごそごそと音がする。敷き布団に頬をこすりつけて、布団のすき間から外をうかがった。男が座敷にあがってきたようだった。まさか自警団の一員ともあろう男が盗みを働きはしないだろうが、そうだとしても布団から出られない身では文句も言えない。しがみついて、持って行かないでと叫んだところで効果は知れている。
「君の顔が見たい」
布団がはがされた。
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