一章 一

 寝起きはすこぶる機嫌が悪い。

 むかしそう口にしたとき、あんたは寝起きじゃなくても不機嫌だと指摘された。寝起きの不機嫌は自覚があったが、寝起きじゃなくとも不機嫌だと教えられたときはそこそこショックだった。だから笑っていろとも指図されたが、おもしろいこともないのにヘラヘラ笑っていなければいけない理由が分からず従わなかった。おかげで、結局あんたはいつも仏頂面だとあきれられて終わった。今思えば、指摘はそのとおりだった。


 今日は違う。携帯端末のアラームは毎朝忌々しくてたまらないが、今日に限っては小鳥のさえずりのように愛らしさを感じ取れる。小鳥のさえずりに愛しさを感じたことなど、人生で一度たりともなかったけれど。


 月に一度の日だ。待ちわびていた日が来た。管理アプリの予測は的中。おかげで、うんと背伸びをしながら布団を出られた。

 ここ数日はもう、体液と腐汁と膿が糊となって布団に体を貼りつけていたせいで動けなかった。動いたら体の一部が布に奪われて、肩代わりした呪いによって感覚が麻痺していたとしても、遅れてやってくる痛みが繰り返し再来する。剥がれ落ちた肉片をしり目に、激痛を与えたわが身を強く恨んでなおのこと自らに痛みを増させる。


 けれども、そう。今日から一週間はしあわせだ。どんな呪いが来ようとも、今の時期だけは受けつけられないせいで。


 この身が汚れきっているから。


 女の穢れ、血の穢れ。


 今日は逢子おうこが待ちに待った、月の障りの初日だった。


 数日ぶりにまともな食事もできる。腐れきった体は内臓さえも、使い物にならなくさせる。消化のための胃液すら、身体にダメージをもたらすほどだ。かといって、栄養を取らないわけにもいかない。必要最低限の栄養ドリンクとサプリメントだけを飲んで過ごす日々とも、しばらくはおさらばだ。


 さて、何を食べようか。今回はまともに金を払っていってくれる客が多かったおかげで、いい額が貯まっている。そういえば昨晩の女はおどろいて逃げていったっけ。律儀に支払いに来てくれる女ならいいが、あの手はたぶん逃げておしまいだな。


 端末で近場のテイクアウト店舗のメニューを眺める。いまの人生でいちばん楽しみの時間だった。和食洋食中華料理、何がいいかな。少し贅沢に、いいお肉でも食べようか。足りない血と肉を補うにはやっぱり赤身の肉よね。


「おーい、いるかい。邪魔するよ」


 玄関戸が横滑りした。こちらがうんともすんとも返さぬうちに戸を開ける、こういう輩は嫌いだ。返答を待ったって人生は損をしないだろうに、生き急ぐなよ。


 しかも、声の主は男だ。急いで布団にもぐり直した。ぬめる布団の触感は気色悪いが、自分の体の一部だったのだから我慢するしかない。


「呪われ屋のお姉さんに話を聞きに来たんだ」


 軽快な、それでいて低く色気のある声だった。まだ若い。どんな顔をしているだろうか。興味はあったが、決して見ないと心に決めた過去がある。


 見ちゃいけない。私は決して、男を見てはいけないし、姿を見せてもいけない。


「失礼。まだ、体調が整わない日だったのかな。いや、月の障りが来て体調が整うっていうのも妙な話だと俺は思うんだけど、聞きたいことがあるんだ」


 口の減らない男。思わず舌打ちをはなってしまう。


「はは、舌打ちする元気はあるんだ。顔を見せてもらうことはできないかな?」

「無理」

「つれないな。まあいいや。顔かたちがどうであれ、元気そうでよかった。話をさせてもらいたいんだ」


 軽快じゃなかった、軽薄だった。どすんと音がしたのは、男が上がり框に腰をおろしたせいだ。すぐそば、目の前。布団の中から目に届く色は、蘇芳の羽織の裾だった。


 これは、人形屋敷街の自警団が着る衣装のはずだ。


「嘘をつくことなく、本当のことを教えてもらいたい」

「まるで私を疑う必要があるみたいに言うじゃない」

「もしもそうならば、嘘をつく必要が君にはあるからな」


 そう、とはなんのことだろう。心当たりは今のところ出てこない。


 男は再度「失礼」と断って、布団のすき間にフレキシブルプレートを差し入れてきた。何をされるのかと身構えたが、男の手は引っこんでいった。警戒心を抱いたまま、プレートに目を向ける。薄く持ち運びが便利なそれは、写真を表示させたり無線通信で受信した映像を流したり、はたまた呪いの文面をつづって憎い相手に呪いを送ったりと用途が幅広い。


「知らないか、この顔」と訊ねてこられても困る、知らない女の顔写真が表示されていた。

「あいにく」

「本当に?」

「ごらんのとおり、私、顔を見せないの。だから向こうだって私の顔を知らないし、私も向こうの顔なんて知らない」

「昨晩の九時ごろ、この女がここに来たのを見たと証言する人物がいる」


 そのころに女が来た覚えはあるが、この女かどうかは保証してやれない。月明りの逆光が、向こうの顔を見せてはくれなかった。代わりに、向こうはこちらの体のパーツを目の当たりにしただろう。金の要求をする前に逃げられてしまった。月の障りが近づくにつれて、この身に集めた呪いがもたらす体への影響は、生半可ではない。


 どろどろに溶けた手には皮も肉もなく、白い骨が露わとなる。骨と、とろけた肉の合間にはウジ虫が湧く。もぞもぞとうねる虫がもたらすくすぐったさも、すっかり慣れた。誰も近づいてきてくれない身の上を思えば、もう連中なんて友達と呼んでも一方的には差し支えがない。気が向けば成長過程も眺めていた。この身体で出来る暇つぶしなんてそれくらいだった。


 たとえ手だけだったとしても、はじめて来た人間にそんなものを見せてよかったとはとうてい思えない。そればかりは悔やんでいる。


「呪われ屋っていうのはそんなにすごいのか」

「どこから私の月経の情報を手に入れたか知らないけれど、前日あたりに来てみればいいわ。そこの溝で全身を洗ったまま眠ってる女を見るはめになるでしょうけど」

「男としては、ぜひとも今の状態の君を目にしたいところだな」

「断る」

「残念だ」


 さして残念でもなさそうに、男は笑った。

 ははっ、と。軽薄の塊。


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