序章 ニ
長屋の路地を抜けて、大通りに向かって走る。赤やら青やらの布をまとった人間が、遠くにちらほら歩いている。同じ屋外に同じ生身の人間がいる、という事実が、安堵の種となり芽を出した安心感から、ふと気づいた。
懐から取り出した携帯端末でインカメを起動する。画面に表示されている自分の顔から、呪いで負っていた傷跡や爛れが、きれいに消え去っていた。
もしや。電源を落としても初期化させても消えなかったフレキシブルプレートに呪いの文字はなく、向こう側が透ける透明な板に戻っている。
呪いを引きとる。呪われ屋はそう言っていた。
つまりは今、自分の呪いはあの女が背負っているということか。あれだけの傷を負いながら、また新たな呪いを引き受けてよく生きているものだ。
恐ろしさのあまり飛び出してしまい、金を置いてくる頭がなかった。
まあ、ともかく今日は店に戻ろう。金ならあとで払ってくればいい。呪われ屋なんて仕事をするしかなくなった元娼婦とくれば、容姿は想像がつく。醜悪な見た目であんな生業に就いているのなら、見目麗しさで生きる自分が情を与えてしかるべきだ。
今日はうちの店に、人形屋敷街における自警団の幹部様がやってくるのだ。それも、お気に入りの人。第二部隊の部隊長様――ああ、考えるだけでそわそわしてしまう。どこが? なんて、そんなの、言えない。足が小刻みに動いて転びそうになってしまった。おっといけない、転んで傷を作ったって呪われ屋は引き受けてくれないだろう。
急いで戻らなければならなかった。化粧も衣装も完ぺきに整えて、かの御仁の隣席を陣取らなくては。誰かに先を越されたら困る。今日こそ自分を選んでもらうのだから。
大通りを素直に歩いて抜けるよりは、来た道を引き返して長屋の後ろに控えている裏路地を突き抜けていくほうが店は近い。溝の向こう側にはすぐ、自分も勤める高級娼館もそびえ立っている。摩天楼の建造物が、強化プラスチック障子越しの照明で街に明かりをにじませている。外灯も多いことだし、防犯面は気にならない。屋敷街の長屋の住人は、娼婦あがりの小道具屋をしている者が多い。つまり女ばかりだ。女が女を襲わないとは言い切れないが、不遜な男連中よりはだいぶマシだ。
娼婦をあがった女でも、屋敷街から外に出ていく者はそう多くない。
外界に出るほうが不幸だと口にする元娼婦もいる。
──体を売って得た金を、悪銭と真正面きってののしってくるのは、知っているかい? 女が多いんだよ。
一度は夫婦となって外界に出たものの、髪結いや化粧師として戻ってきた女がどれだけいることか。ここが薄暗い地獄なら、外はバカ明るい地獄だと、彼女たちは教えてくれた。
自分は、どうしようか。年季が明けたら、どこに行こう。どこで生きよう。外の世界を知ってみるのも悪くない。路地からのぞく家の中で、何を見ているのか知らないが、笑っている女の声も響いてくる。一人で生きていくのも悪くはないと思うけれど、今はまだ、誰かと結ばれる未来を夢見ていたい。
誰か、も……この胸が、一人を求めて訴えているけれど。
脚がとまる。
彼女の脚をとめるものがあった。
もの。
それを、なんと呼ぶべきか、彼女は知らなかったが。
噂は、知っていた。
頭だけで飛ぶ女。
そんなものは、見間違いだと。
初夏の気候だった。
だから、たとえば、手のひらほどに大きな蛾がいる。あれと見間違えたのだろうと、誰もが冗談だと笑った。あの蛾の色合いもまた、女が羨望の眼差しを向ける、手入れを怠らない白い肌によく似ていたし、あの翅の中央にある黒い点は、ほどよく人の目に見えるのだろう――と。
では、では、その脇で浮遊するあれはなんだ。
片方が、蛾だとしたら。正真正銘の、あの蛾だとしたら。
アレは、なんだ。
浮かれていた脚がすくむ。呪われ屋の家からはじかれるように飛び出してくれた脚が、今はうんともすんとも動いてくれない。
だって、あんなの、あんなの。
なぜ、
ふわらん、ふわらん
黒く長いつやのある髪が、揺れ動く。豪奢に着飾った売れっ子娼婦の垂らした髪が、男の視線を自らに縫いとめるように魅了する、洗練された動きに近い。
おかしい。いくら考えても、そこに娼婦がいるのはおかしい。
外灯の高さは、三メートルほどあるだろうか。
頭は、その照明のそばで浮いている。伸びた首の胴体が真下にあってもそれはそれで恐ろしいが、頭だけが浮いているという事態もまた恐ろしい。
頭だけで飛ぶ女。
噂の続きも聞いていた。教えてくれたのは誰だっただろう。ああ、それこそかの御仁だったかもしれない。あの人が笑いながら、まっすぐな視線で注意を促してくれたような気がする。まじめに聞いておけばよかった。だってあの人はいつも気まぐれで、好みなんてなくて、クジで選んだ子と一夜を共にするから。選ばれなかった自分はいつもむくれて、話なんて半分しか聞いていなかった。
くるり。
こちらを向いた顔は、予想どおり女ではあった。
裏切られたのは、
折りこまれた二重のまぶた、長いまつ毛が鈴のように大きな目を縁どっている。宵の天高いところに住まう満月が、そこにあるのかと錯覚する金色の瞳が、遠目でも見とれるほどの存在感を有している。つんと高い鼻に、月光に似て透きとおる白い肌は鱗粉をまとった蛾のごとし。
肌に生気は感じられないが、真っ赤な唇が印象的だった。
まるで、他人から奪った血を塗りたくったよう……
はっとした。
唇を彩るものが、本当に他人を傷つけた結果なのだとしたら……?
頭だけで飛ぶ女の噂には、続きがある。唇の色と、噂が直接関係しているのかどうかは知らないが、関連づけないわけにはいかなかった。
だって、だって。
逃げなくては。
そんなことよりも、今はただ、逃げなくてはいけない。
地面に足をこすらせないように、ああ動いてくれる自らの脚が愛おしい。今宵は御仁と脚を絡ませあって眠りたい。そのためにも今、自分は逃げなければならない。
脚をきちんと動かせているか、不安はあった。それでも、景色がめまぐるしく変わる。来た道を再度戻る。長屋のとおりを抜けて大通りに、出た? いや、まだだ。こんなに遠かっただろうか。大通り、そうじゃなくてもせめて、長屋が横に連なる元の道に戻るだけでもいい。裏道はもういやだ。人と遭遇できるだけでもいい。こうなったら遅れたってかまわない。
生きてさえいれば、あとはどうにでもなる。
呪われ屋の家があった長屋の通りに、人気はなかった。だがあの家には確実にあの女がいるはずだし、ほかの家からも、明かりや、家族での団らんの声が漏れてくる。酒盛りを繰り広げている女たちの騒ぎ声は盛況を迎えていた。
声だけでじゅうぶんだった。近くに人がいることで得られた安堵のおかげで、胸中に残っていた気概が息を吹き返した。おかげで、興味本位の指令を体に出してくれた。
振り向くように。
背後をのぞいた。
頭は、なかった。
先ほどまで彼女が突っ立っていた地面に、娼婦のようにばたばたと喘ぐ巨大な蛾が一匹のたうっているだけ。
ほかはもう、何もいない。
ああ、気のせいだった。よかった。ため息が出る。見間違いだ。そうだ、そうに決まっている。あの人があんなことを言うから、あの人の言うことだから真に受けて、信じてしまった。女を怖がらせてその気にさせておきながら、期待を裏切るような、でも悪い人じゃない。だって好きなんだもの。
ねじっていた体を元に戻した。
目が合った。
手が届くほどに近い、満月の双眸。
女の頭がそこにある。
ふわらんふわらん
浮いている。浮遊している。
首から下には、体内の部品であるだろうものをぶらさげている。赤や白やピンクや紫や青や緑や黒や、体を組成する糸状のそれらもぷらんぷらんと揺れている。
闇にまぎれるせいで、それらが何かは想像するしかないが、きっと自分も持っているもの。
息がとまる。
頭は、彼女の動向を察したのだろうか。呼吸がとまって、体内に酸素の供給が断たれて、気絶する一歩手前となってしまった彼女に。
かぷり
頭が口を噛んでくる。
彼女に、唇を重ね合わせる。
これではまるで、人工呼吸のよう。
彼女は悲鳴をあげるどころではなくなってしまった。
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