怪奇心中物語

篝 麦秋

序章 一

 あのクソ野郎、覚えてろ。ふざけがやって。今度会ったらちんこ噛みちぎってやる。


 怒りが募れば募るほど脚を動かす速度があがっていく。顔に羽虫がぶつかりそうになった。舌打ちとともに手で振り払う。くっついたらどうしてくれる、虫ごときが何様だ。ああ腹が立つ。さっさと用件を済ませたい気持ちも小さな虫への怒りも尽きないが、原因になった糞野郎への恨みにはとうてい及ばない。


 この顔のすり傷、爛れ。

 肌荒れとは違う。皮膚が溶けてしまった有り様は、まるで皮をむいたトマトだ。グジュグジュにとろけた頼りない繊維の合間から、黄緑の種のごとき膿が流れてくる。皮膚が溶けて感覚が鋭敏になっているせいか、垂れてくる膿がくすぐったくて仕方ない。


 こんな顔じゃいられない。

 特に、今夜来るお気に入りの客にはとても見せられない!


 呪いだった。なんてことはない。なじみの客が、自分とは別の男を好いていることを知って、腹立ちまぎれにこっちを呪ってきたせいだ。


 くだらない。当たり前だろう。誰が好き好んであんな気持ち悪い男とセックスするもんか。ただのブサイク、ただのデブ、ただのコミュ障。すべての要素をミックスされたらたまったもんじゃない。金銭をもらえるという等価交換がなかったら、笑顔で愛嬌を振りまいたり、くわえたり抱かれたりなんかしてやるか。

 娼婦にだって好みはある。今夜来る、その上等な客のような男が好みで何が悪い。


 長屋にある目的の家に「邪魔するよ」とあいさつをしたら、向こうの返事なんて待っていられなかった。勝手に入らせてもらう。明かりはなんてささやかな光だろう。LEDライトの光量がここまで絞れるのかと感心するほどだった。


 天井からぶらさがる照明の真下に、黒い塊があった。


 いた。


 小さな明かりで視認できたのはそれくらいだった。どんな生き物でどんな服をまとっているかなんて、ちっとも分からない。目が慣れてくると、ようやく、それは布団をかぶっている形ということに気がつける。女としか事前に知らされていない手前、同じ女である自分にとっては最低限の安全しか判断がつかない。


 いや、どちらかといえば危険に分類されるかもしれない。


 目に突き刺さる鋭利な悪臭、尋常ではなかった。己の顔に垂れる膿の、濃厚な厭味ったらしい臭気さえ恋しく思えてしまう。

 たとえるなら、そう――この周辺、人形屋敷街にんぎょうやしきがいを取り巻く新月溝しんげつどぶをさらったようなにおいだ。あそこは柵で囲われながら、道よりはるか五メートルも下にある溝で、つねに管理されているからにおいがあがってくることはほとんどない。

 あるとすれば、野良犬や野良猫といった、何かしらの・・・・・死骸が投げこまれたときだ。死骸が、自分を見つけてくれといわんばかりに醸し出すにおい。そういったものは屋敷街の自警団がさっさと処分してくれるが、目に見えない残り香はいつまで経っても色濃くあった。場所にも、こっちの記憶にも。


 自分がそこで死んだことを、いつまでも誰かに覚えていてもらいたい。


 自分がかつては生きていたということを、誰かに知っていてもらいたい。


 あそこから漂ってきたにおいには、そんな情念があった。このにおいは、あの新月溝で死んでいった者たちにそっくりだ。


 ああ、噂は本当だったのか。

 それとも、その噂も度が過ぎて……

 ここの住人は、息絶えているのでは……


「だれ」


 塊から、におい以外のものがはじめて発された。屋内を飛びかうハエの数がもっと多ければ、羽音に負けてこちらまで聞こえそうにない、しゃがれた細い声だ。

 噂では、二十代に入ったばかりと聞いていた。それでこの声はないだろうに、どんなのどの使い方をしたのか。娼婦街である人形屋敷街を鑑みれば、何を飲み続けた結果かはおのずと理解できる。自分ものどが焼けたような経験は少なくない。


「呪いの肩代わりをしてもらえるって聞いたんだけど」

「……そう」


 この家の住人は娼婦ではない。呪われ屋と呼ばれ、呪いの肩代わりを生業としている。人形屋敷街と名づけられたこの街では、人の愛憎が火花を散らすなど日常茶飯事だ。


 勝手にわたしの男を取った。おれの女を奪った。あたしの彼女を横取りした。おれの愛する男を寝取りやがって!

 嫉妬の数は行き交う人の数をはるかに凌駕する。日に日に募る妬みは恨みとなり、やがては呪いと化す。文字にして言葉にして、恨めしい相手に送ってしまえば相手は呪いの餌食となる。


 呪いは誰でもたやすく行える。恨み言がつづられた電子記録プレートを手にとるだけで、瞬く間に呪われてしまう時代だ。プレートを再起動しようと初期化しようと、言語を五官のいずれかにとおしてしまえば、骨身に染みた呪いは消えない。

 頼みの綱は拝み屋だ。連中は呪いを、呪ってきた本人に返したり別な容れ物に移したりすることで、呪われた人間を救う。しかし相応の金がとられる。


 金のない者がすがる藁は、呪いの人形ではなく、呪われ屋と呼ばれる女だった。


「もうかえっていいよ」


 塊がまた、声を発した。

 思わず眉をひそめてしまう。


「まだ何もしてないじゃない。ふざけてるの?」

「もういいの」


 この家に入った時点で、もういい。


 そう、女の声が続いた。まさか、布団にくるまった中身の塊からのぞく、呪われ屋の視線を浴びただけで……すべて、終わったとでも?


 そこに、眼窩にぴったりとおさまっているはずの目玉はあるのだろうか。


 男のイチモツを根元までくわえこめるような、ぽっかりとあいた穴があるだけではないのだろうか。その穴に、呪いをすべて封じこめるなんて馬鹿げたことを言うつもりか。


 呪われ屋は元娼婦。そういう噂も聞いていた。娼婦からなぜ呪われ屋なんて職にまで身を落としたのか知らないが、その原因が、男に全身を捧げた末の穴だらけの女になったこと……なんて、まさか……


 ぬろ


 膿が、頬から下顎骨に触れた。怖気が寒気も教えてくる。初夏の冷えが足下から這いあがってきたから、ではない。


 背後の玄関戸はあけっぱなしだった。後光は月光。自らの影の両脇から差しこむ、冷たくもやわらかな月の光が、布団の内部を見せてくれた。


 どろどろに溶けた、手。皮膚は影も形もない。皮の名残が頬に張りついている自分がどれだけかわいいことか。手入れを怠ればすぐに脂ぎる面倒くさい皮一枚だが、ないのは困る。皮膚の下に隠れている肉も、化粧水で水気をたっぷり含ませている新鮮な桃色ではない。焼け爛れた皮膚をはいだら、きっとこんな色をしているのだろう。鮮度の落ちた褐色は、しわくちゃのばばあの皮をめくったって見られるものではない。


 ぴく


 血管か、神経が、けいれんしている。


 ぴくっ


 ――別だ。あれは違う。


 ぬるっ


 そんな俊敏な動作ではない。


 うぬうぬ

 うねうね


 身をよじる。ウジ虫だ。ああ、うなじに髪が触るだけでウジの錯覚がする。あんなのに感覚神経をじかに触れられて、痛くもないのか。ねっとりととろけた手の肉はもう、布団に染みこんで同化さえしているのではないか。朝起きるのがつらいとき、布団と一緒になってしまいたいと思うことはあっても、いくらなんでもこれは願い下げだ。


「呪いは引き取った。もう、出て行ってちょうだい」


 声をつかさどる器官も、ついに溶けて固まって、裂けてしまったのか。ふいごのような声が、男声にも女声にも聞こえた。

 声の数だけ、実は呪いを引き受けたフリをして……人を食ったとか、布団の中に引きずりこんだとか……いろいろ考えてしまったが最後、脚を動かしていた。


 家から逃げ出していた。

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