第46話 イルカの世界

 午後一時頃、私と鹿島さんの紺の深層心理へのフルダイブが始まった。いつもの椅子に寝そべり、息を吐く。隣には鹿島さんが同じように椅子に寝そべっている。

 いつもと同じ。だた、今日は行き先がちょっと違うだけだ。今回は紺のフルダイブをしていない方、つまりイルカの体を動かしている側の深層心理を仮想世界化する。私はフルダイブVRルームのコンピューターの前に座る宇田賀に右手を上げて合図する。


「では、始めましょう」

「美理仁、本当に『何か』があると思うか?」

「さあ、わかりません。でも確証が得られるまで待っていたら、時間切れです」

「はははっ、それもそうだな」

「それに、何か予感のようなものがあります」

「そうか。じゃあ、始めるぞ」


 いつものように内側にピリピリとした感覚を感じ、私は落ちてゆく。ふわふわと浮いているような感覚が体を包んだ。私と鹿島さんは、イルカの紺の深層心理へとフルダイブした。

 フッっと重力の方向が背中から消えた。いつもなら足の裏に体重を感じるはずだが、今回はそれがなかった。不安になって目を開くと、私はなぜか水中にいた。


「ボゴッ……ゴボゴボ……!」


 人間のアバターである私は当然水中では話せない。酸素を吸っているのは現実世界の体だから溺れることはないはずだが、それでもこの状況は焦ってしまう。周りを見回すと、自分の右上の方、少し離れたところに鹿島さんが同じように浮いているのを見つけた。私は下手な平泳ぎで鹿島さんの方へと近づく。鹿島さんは両手両足で姿勢を制御しながら落ち着いた様子でキョロキョロと周りを見回していた。どこを見ても壁や床は見えなかったが、上からキラキラと光が差し込んでいるのに気がついた。水面があるのだ。

 私は鹿島さんの前になんとか辿り着くと、指で上を指差した。鹿島さんは頷くと、水面へ向かって泳ぎ始めた。私より遥かに綺麗な泳ぎだった。私は両手を必死に動かし、少ししてから足を動かすのを忘れていることに気が付く。やはり運動は苦手だ。水面までは十メートルくらいはありそうだった。当然、こんな深いところに潜った経験はない。溺れないとはいえ本能的に恐怖を感じてしまう。私よりだいぶ上を泳いでいた鹿島さんが、私に気がついて戻ってきて、私の右手を引いてくれた。情けない気持ちになりながら、私は両足と左手を動かす。ようやく、私は水面に顔を出すことができた。


「ぷはっ、はあ、はあ……」


 酸素は足りているはずなのに、反射的に息を大きく吸う。これはなかなか斬新な拷問だ。


「なんだ、ここ……はあ」


 立ち泳ぎをして顔を水上になんとか出しながら言った。隣の鹿島さんは落ち着いた様子で言う。


「海? それにしては波が無いよね。プールかな」

「陸は……ブハッ、地面は……」


 水上に出した頭を動かすが、陸やプールの壁のようなものは近くには見えなかった。どこまでも穏やかな水面が広がっている。よく見ると遠くの方に霞がかった巨大な物体が浮いていた。どこかで見覚えがあった。鹿島さんが言った。


「あれ、実験用プールにあるおもちゃのボールだよ!」

「大きい……とにかく、他に何も見えないし、あのボールの方に行って、……みますか。上陸できるかも……知れない……はあ」

「そうね」


 その時、頭の中に宇田賀の声が響いてきた。


「おーい、二人とも大丈夫か? 悪い、ちょっと音声通信の設定に手間取った」

「宇田賀さん……プハッ、見えてますか……」

「私達、水中に投げ出されちゃった。とりあえず地面のありそうなところを探します」

「ああ、見えているよ。イルカの方の紺ちゃんだからなのかな? 美理仁、そんなに頑張って息を吸わなくても、本当の体は溺れないぞ」

「わかってます……プハッ、でも、本能で吸っちゃうんですよ。難しいこと言わないでください、はあ……」

「仮想世界なんだから、ピュッと飛んでいけたりしないの?」

「深層心理の仮想世界は何があるかわからない。あまり現実世界と離れたことをこっちが起こすと、予測不能な事態になる可能性がある。とりあえず、死んだり怪我したりはしないから、落ち着いて探索してくれ」

「だってさ。さあ、美理仁君行くよ。泳ぎの練習しておかないからだよ」

「す、すみません……今度教えてください」

「はいはい。今度ね」


 私は鹿島さんと一緒に巨大なボールに向かって泳ぎ始めた。私は明らかに泳ぐのが遅く、鹿島さんが合わせてくれているのがよく分かって情けなくなる。少し進むと、何か小さなものがたくさん浮いているのを見つけた。


「なんだろう、これ?」

「これって……魚ですね。あ、バケツも浮いてる」


 それはいつも食事として紺達に与えている魚だった。私は少しでも楽になるかと思って浮いているバケツをつかんだ。すると、どこからともなくキュウキュウ……というイルカの鳴音が聞こえてきた。次の瞬間、水中から大量のイルカが現れた。


「うわっ! 紺?」

「これは……色からすると普通のバンドウイルカだと思う」


 グレーと白のイルカ達。普段青っぽい宇宙イルカを見慣れているせいで、かえって違和感すら覚える。バンドウイルカ達は私達の周りにある魚をパクパク食べると、私達を興味深そうに取り囲んでピュウピュウキィキィ……と鳴き出した。


「ええと……こんにちは」


 戸惑いながら鹿島さんが挨拶をすると、それに応えるように一頭のバンドウイルカがキュッ、と鳴いた。よく見ればバンドウイルカ達の体の形や大きさは全て紺と一緒だ。ただ、紺「本人」では無い。なぜかそれはわかった。私は、そのバンドウイルカ達に話しかけてみた。


「あそこの、ボールまで行きたいんだけど、連れて行ってくれない?」

 バンドウイルカはピュー、と高い音を発し、水中に潜って私達の下に入り込んだ。

「うわっ」


 そのまま一頭ずつが私と鹿島さんを乗せ、バンドウイルカの群れは巨大なボールに向かって泳ぎ始めた。結構なスピードだ。風が顔に当たり、風圧を感じた。私はいつの間にか笑っていた。


「ははは、すごい、すごいぞ」

「わあ、夢みたい!」


 イルカは本気を出すと時速五〇キロメートルほどで泳ぐことができるそうだ。少し余裕が出てきた私は、隣で別のイルカに乗って髪を風になびかせている鹿島さんに話しかけた。


「これは、もしかして紺が遊んでくれているんですかね」

「どうだろうね。不思議。いつもの深層心理と全然違うね……え、あれ、なに?」


 鹿島さんが指を指す方を見ると、大きなイカのような生き物がその足をくねらせて水面に姿を現していた。その近くにさらに大きなマッコウクジラが頭を出し、潮を吹く。私達が見ていると巨大イカの中から青く光るサメが飛び出して巨大マッコウクジラに噛みつき始めた。ポカンとしている私達の頭の中に宇田賀の声が響く。


「あれは『宇宙イルカ戦争2』のラストシーンだ! あのクジラからイルカ星人が現れるんだ」

「はあ……?」


 見ていると、宇田賀が言ったように巨大マッコウクジラの中からイルカ星人が飛び出した。筋肉質の人間の体にイルカの頭が付いた珍妙な姿だ。イルカ星人は青く光るサメに向かって火のついた拳を振るう。バチバチと火花のようなものが爆ぜ、気がつくとサメもイルカ星人も消えていた。目を丸くした鹿島さんが言う。


「なに、あれ? まさかあれが宇宙イルカを落とした異星人とか?」

「いえ、あれは紺が好きなB級宇宙イルカ映画のシーンですね。関係ないと思います」

「もう! 変なもの見せないでよ! 教育に悪い!」

「はははっ、いいな! 俺もフルダイブしたかったぜ」


 紺が私達との時間がもう長くないことを思って、楽しませようとしてくれているのだろうか? そう思うと、私はなんだか泣きたくなってしまった。


「え、美理仁君、なんで泣いてるの?」

「な、なんでもありません……」


 フルダイブをしていると感情がアバターに反映されてしまう。普段感情を表に出さない人ほど、意図せず反映されてしまうことがあるという。仕方ないじゃないか。私は嬉しかったのだ。

 私達は不思議な空間をイルカの背に乗って進み続けた。道中、紺に見せた映画などのシーンが再現された幻のようなものがいくつも現れ、私達を楽しませた。空を飛ぶサメの群れ、熱線を吐く恐竜のような怪獣、巨大メカクジラと艦隊戦を繰り広げるアメリカ海軍第七艦隊。いつの間にか私達の周りにはシロイルカやカマイルカ、オキゴンドウにイロワケイルカ、シャチ、イッカク、シロナガスクジラ、ザトウクジラなどの鯨類達が並んで泳いでいた。なぜか人間の水泳選手も並んで泳いでいるのには笑ってしまった。紺の考える、「泳ぐ仲間達」なのかも知れない。

 空にはクレーターがはっきり見えるほど大きな満月が浮かんでいた。私は天文学には詳しくないが、現実とはちょっと見え方が違うような気がした。


「そういえば、月に行きたいって言ってたな」


 やがて大きなボールが目前に迫ってくると、私達はその後ろに大きな壁のようなものがあることに気がついた。それは垂直にそそり立つ「水の壁」だった。世界を分けるように、その壁は遥か上空まで切れ目なく続いていた。


「ここが、この世界の果てでしょうか?」

「でもこの壁の向こう、何かが見えるよ。なんか見たことあるような……」

「あ、この向こうに見えるのって、私達の実験用プールですよ」


 水の壁の向こうには、〈ミカギテクノロジー〉の実験用プールとそっくりな空間が見えた。この壁は、プールの水面なのだ。気がつくと、私達の周りにいたイルカ達は姿を消し、さらにすぐ近くにあった巨大なボールは現実世界と同じくらいのサイズになっていた。私はなんとなくそのボールを手に取って、目の前で世界を分けている水面に向かって放った。ボールはパシャと音を立てて水面を突き破り、私達から見て「横方向に落ちて」目の前の壁に漂った。重力の方向がこの水の壁を境に変わっているようだ。


「行ってみよう」


 私と鹿島さんは、水の壁に顔を入れた。するとその途端、世界がくるりと九十度回転したような感覚があり、私達は実験用プールそっくりな場所の水面から顔を出していた。まるで現実世界でのイルカの紺達の目線だ。私達はプールサイドから床へと上がる。久しぶりに二本の足で立った気がした。


「ふう……やっぱりホモサピエンスとしては床に立った方が安心しますね」

「そうだね。でも私はあっちも楽しくて好きだったけど」


 私達はプールの水面を覗き込んだ。もう一度飛び込めばあちらの世界に行くのだろう。


「イルカの方の深層心理なんだよね? 人と混じってるのかな?」

「どうでしょう? ああ、わからないことが多すぎる」

「でも、何かありそうな気がする。早く先に行こう」


 私と鹿島さんはプールのそばにあった扉を開けた。現実世界には無い扉で、その先は細長い廊下になっていた。室内の意匠は、いつも私達が紺達と会っていた仮想世界の部屋と似ていた。その空間には小さな半透明の窓のようなものがたくさん浮いており、覗き込んでみると、そこには〈アクアリウム〉で配信をする紺の姿が映っていた。


「これは……バーチャルタレントをしている紺か」

「これ、裏から見ると文字がいっぱい映っているよ。配信中のコメントだね」

「へえ、面白いな」


 私が窓に触れると、音楽が流れ出した。〈ミカギテクノロジー〉の社歌だ。そういえば、紺に踊ってもらって動画にしたのだ。懐かしい。


「うわっ、水が……浸水しているのかな?」


 鹿島さんが足元を指差す。部屋の中にはうっすらと水が溜まっており、歩くとピチャピチャと音がした。

 廊下のような部屋をそのまま進むと、一際大きな半透明の窓が現れた。それは紺が初めて配信をした時の映像だった。確か二〇三五年の七月だから、まだ二年も経っていないのに随分と昔のような気がした。鹿島さんと私はしばらくその前で、まだ辿々しい喋り方の紺を見つめていた。鹿島さんが言う。


「紺ちゃんに会いたいな。ここにいるのかな」

「ええ……きっと」


 この光景を現実世界で見ている宇田賀達は何を思っているのだろう。私は宇田賀に話しかけた。


「宇田賀さん、見えてますか」

「……ん、ああ、見えてるよ」


 少し震えた声が返ってきた。私は自分の感情が引っ張られないように努めて事務的な声を出す。


「なぜ、こんな思い出みたいなものがあるのでしょうか。これはイルカの方の紺の深層心理のはず。混じっているのですかね」

「そうなのかもな。フルダイブしていない、イルカの方の紺ちゃんって言ったって、同じ脳だ。あと、今の紺ちゃんの心理状態も影響しているのかもしれない」

「紺の心理状態……」


 私達は紺のデビュー配信が映る窓をすり抜け、先へと進んだ。途中、なんだか禍々しい赤い光を放つ窓が浮いているのに気がつき、私は思わず足を止めた。その窓の中は雷鳴が轟き、モヤモヤとした人影がうごめいていた。さらに手を近づけると人の呻き声のようなものが聞こえた。これは木之実ちゃんの深層心理の世界で見たものだ。気がついて、私は急いで手を離す。紺の中にも、あの時の記憶はしっかり刻まれているのだ。私達はその窓から逃げるように早足で先に進んだ。さらに進むと、上空から朝日を反射する海を眺めた時の記憶もあった。ドローンから見た光景だ。

 パシャパシャと水に浸る廊下を進むと、やがて私達が紺達と過ごした仮想世界の部屋に出た。広さも内装の意匠も全く一緒だった。床には英さんがデザインしたイルカの絵が描かれたカーペットが敷いてあり、壁の一面が鏡になっている、いつもの部屋だ。

 そして、その鏡の前に少女の姿の紺が立っていた。


「紺、ここにいたのか」

「紺ちゃん!」


 私達が駆け寄ると、紺はにっこりと笑った。よく見れば、紺の背中には背びれのようなものがあり、顔も半分くらい青い色をしていた。紺は笑って言った。


「みりに、ゆうこ! 私、イルカ星人になっちゃった! えへへ」

「紺、喋れるのか?」

「うん。不思議な感じ。私も二人と話したいと思ってたの。それで、奥の方で繋がった? のかな? わからないや」


 目の前の紺はアバターではない。深層心理の仮想世界に現れた紺の意識、おそらくそのようなものだ。

 ふと、私は紺の後ろの鏡に人影が写っているのに気がついた。紺が言った。


「いるよ。見ているよ」


 私と鹿島さんは息を飲んだ。鏡に映っていたのは私達でも、紺でもなかった。鏡の中からはモヤモヤした何かの影がこちらを見ていた。それには顔も目も無かったが、確かにこちらを見ていると、直感的にわかった。


「誰だ……?!」


 現実世界の宇田賀達からも息を飲む音が聞こえた気がした。

 今、私達は追い求めた神秘の姿の一端をようやく掴んだのだ。

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