第44話 二人で
その日も、紺と蒼の実験には特に進展はなかった。紺と蒼にご飯をあげて片付けを済ませた後、私は自転車、鹿島さんは車でそれぞれ中華料理店に向かった。
私のお気に入りの中華料理店は、近くの駅がある通りから二本ほど奥に入った場所でひっそりと営業している。見た目には普通の民家のようで、入り口の前に立っている立て看板がなければ飲食店だとは思わないだろう。
「へえ、こんな店、よく知ってたね」
「英さんが前に教えてくれたんですよ」
店の内装は和風だった。畳の小上がり席もあり、前は別の蕎麦屋か何かだったのかも知れない。テーブル席に座った私達は、それぞれの食事を注文する。私は麻婆豆腐定食、鹿島さんはよだれ鶏定食だ。
「はあ……」
またしてもため息をついた私に、鹿島さんが頬を膨らませる。
「もう、もっと楽しそうにしてよ。幸せが逃げる」
「す、すみません……」
とはいえ、どうしても話は紺と蒼のことになってしまう。そもそも、私は鹿島さんの趣味も何も知らないのだ。
「あ、そういえば。宇田賀さんから連絡があって、防衛庁の用件、わかりましたよ」
「へえ、なんだったの? スカウト?」
「うーん、当たらずも遠からずというか……紺と蒼を、譲ってくれって内容らしいです」
鹿島さんが目を見開く。
「どういうこと?」
「結局、兵器利用ですよ。紺と蒼はすでにある程度人の精神が育っています。しかも、紺にはドローンとの実戦経験もある。良いサンプルってわけです」
「そんな……! ダメだよ。紺ちゃんと蒼ちゃんには、もうあんなことさせちゃ。それで?」
「もちろん断ったそうです」
「ああ、良かった! 当然だよね」
私は俯き、意味もなくメニュー表を見つめる。
「でも……〈宇宙イルカ規制法〉が可決されたら、そうも言ってられないかも知れません。今みたく拒否する権利もなく、没収される可能性が高いかも。銃を無許可で持っている人がいたら、無理やりにでも取り上げるでしょう?」
「宇宙イルカは武器じゃないのに。ダンスだって踊れるし、可愛いのに……ねえ、美理仁君はそれで良いの?」
鹿島さんは泣きそうな顔になっていた。
「仕方ない……ですよ」
「そう……そっか」
私は、机の下で拳を握りしめる。違う。そんな大人の最適解なんか。ここでこの人にそんな話をするのは違うと思った。口を開く。
「本当は嫌です。嫌に決まっているじゃないですか。防衛庁? 武器利用? ふざけるなって感じです」
「美理仁君……」
「私は、実は、ギリギリまで実験して、法案が可決されたら、こっそり紺と蒼は海に逃すつもりです」
鹿島さんは驚きの表情を浮かべる。私は続ける。
「だって、二人は人の言葉がわかるんです。海に逃して、後からどこか、外国で落ちあえばいい。だって、二人は泳いでいけるのですから。そこで規制されるなら、また別の場所に行けばいい。そうでしょ! 誰にも利用なんてさせない!」
つい声が大きくなってしまった。鹿島さんが店内を見回す。私達以外に、店内には二組の客がいた。
「あ、すみません。つい……」
「ねえ、美理仁君、知ってる?」
鹿島さんが、私に顔を近づけて小さな声で囁いた。
「私達、公安警察の監視対象なんだって」
「え?!」
私は驚いて、店内の客達に目を向ける。一組は会社の付き合いらしい男性二人。もう一組は普通の夫婦に見えた。鹿島さんが手をひらひらと振りながら、小さな声で言う。
「いやいや、宇田賀さんが言ってただけだから、本当かどうかはわからないよ。でも私達、危ない人達だって思われてるかも。だから、あんまりさっきみたいなことは外で言わないほうがいいかも」
私はごくりと唾を飲む。
「お待たせしました!」
その時、元気な声とともに料理が運ばれてきて、私はギョッとして少し飛び上がってしまった。店員は怪訝な顔で私を見つめる。
「どうかいたしましたか?」
「いえ……なんでもありません」
店員はテーブルに料理を並べて去っていった。あたりに香辛料の良い香りが漂う。鹿島さんがにっこり笑って言う。
「あら、美味しそうね。ごめんね、変なこと言って。気のせいだよ。さあ、食べよう」
私達は食事を始めた。私のお気に入りの麻婆豆腐。辛すぎず、複数の香辛料が絶妙なバランスを保つ。私もそこまでグルメな方ではないが、ここの麻婆豆腐は初めて食べた時からお気に入りだ。見ると、鹿島さんも夢中でよだれ鶏を口に運んでいる。
「美味しい! なんか、美味しい! 特に後味がなんかこう、美味しい」
「美味しいしか言ってないですよ、鹿島さん。まるで紺みたいです」
「だって、うまく表現できなくて。グルメレポーターってすごいよね。香りが良いよ。ここの料理」
「ええ、そうでしょう。気に入ってもらえて良かったです」
鹿島さんは口を手で隠して言う。
「ね。やっぱり美理仁君のおすすめにして大正解。香りが、こう、いいよね」
私は思わず吹き出してしまう。
「ふふ。鹿島さん、確かに味や香りの言語化は難しいですけど、もっと何かないんですか?」
「ええ? そうだな、こう、柔らかさの中に刺激が包まれていて、ハーモニー? みたいな?」
「ふふふ、とにかく。気に入ってもらえて良かったです。鹿島さんにも苦手なことがあるんですね」
鹿島さんは頬を膨らませる。
「もう。でも本当に美味しいね。紺ちゃんと蒼ちゃんにも食べさせてあげたいな」
「さすがに難しいでしょうね。体はイルカですから」
「食べるのは無理でも、香りだけでも楽しませてあげたいなあ」
鹿島さんはうっとりした顔で、手で空気を仰ぎ、匂いを吸い込む動作をした。
「鹿島さん。イルカは耳はいいけど、嗅覚は退化しているんですよ」
「あ、そうだったね。でも、仮想世界では二人とも匂い、嗅いでるよね。花の香りとか、私の匂いとか。クンクンってしてる。じゃあ、人のアバターにフルダイブして初めて匂い嗅いだんだね」
「そうですね。ん?」
私の中に何か引っかかるものがあった。
「フルダイブして初めて……イルカの状態では使われない……普段は処理されない感覚が入ってきたら、どうする?」
「美理仁君?」
私は急いで残りの麻婆豆腐定食を平らげた。味わうのは次の機会でも良い。確かめたいことがあった。鹿島さんが呆れた顔で言う。
「何か気になることがあるんだね。会社に戻るんでしょ?」
「あ、鹿島さん……すみません」
鹿島さんは肩をすくめて笑う。
「いいよ。キミらしくて良いじゃない。ウジウジ悩んでいるより、良いよ」
「すみません」
「落ち着いたら、また来ようね」
私は自分の分のお金を置いて、自転車を漕いで会社へと向かった。
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