第43話 部位X
2037年7月6日。
特に進展が無いまま、深層心理の仮想世界を使った実験を開始してから一ヶ月が経とうとしていた。朝、私が開発室の自分のデスクに座って目を閉じて考え事をしていると、誰かが私の前にやってきた。宇田賀……いや、フワリと良い香りがする。
「鹿島さん?」
目を瞑ったまま尋ねると、相手は答える。
「正解。お疲れ。コーヒー飲む?」
私は目を開けて、鹿島さんが差し出した缶コーヒーを受け取る。無糖でも微糖でもない、容赦無く砂糖の入った甘いやつだ。鹿島さんにもらったのだから、飲まないわけにはいかない。私は缶を開け、甘い缶コーヒーを口に含む。甘かった。
「はあ……」
「美理仁君。ため息を付くと幸せが逃げるよ」
「紺にも言われましたよ」
「あ、多分私が教えた。すごいね、ちゃんと覚えてるんだ。意味もちゃんとわかって使ってるんだよ。賢くなったよね。もったいないなあ。宇宙の秘密なんてどうでも良いよ。紺ちゃん達の研究、続けられないのかな。バーチャルタレントやってるだけなら、別にいいじゃない。ね?」
私は甘いコーヒーをさらに一口飲み、答える。
「世間はそうは思わないんですよ。もっと早く、曽理音や佐藤を止められたら、こうはならなかったのかな」
「うーん、もしかしてまた自分のせいとか考えてる? 違うよ。誰かが気がついたよ」
「そうですかね……」
「もう起こったことは仕方がないよ。今日、他の人達は?」
鹿島さんは波の音のよく聞こえる静かな開発室を見回した。
「宇田賀さんは、社長と一緒に防衛庁。本原は国会図書館で調べ物。英さんは腰痛が悪化して休み。新人二人は有休。多分、転職活動です」
「あら、そうなんだ。しょうがないか。……防衛庁?」
「用件はわかりません。きっと、宇宙イルカの軍事利用に関わることでしょうね」
「ふーん。ねえ、これ何?」
鹿島さんは私の机の上に広げられた紙の束を見て、イルカの脳のイラストが描かれているページを指差して尋ねた。
「これは、普通のバンドウイルカの脳活動のデータです。一昔前の生物学者が書いた論文。紺達のデータと比較しているんです」
「ふーん。なんで?」
「紺達は脳の片側だけで人のアバターにフルダイブして、残りの半分はイルカの体を動かしてますよね」
「そうしないと、溺れちゃうんでしょ」
「ええ。それで、実は曽理音が言っていたんですが、全球、つまり脳全部でフルダイブすると、宇宙イルカは死んでしまうらしいんです」
鹿島さんは顔を顰めた。
「え、怖いね。それ本当?」
「もちろん試したことはないです。でも、もし本当だとすると、半球と全球の違いはなんなのか。フルダイブすることで、何かが変わる……脳の何かが。それが体の崩壊に関係している。宇宙イルカ特有の、何かです」
「なるほど。それで?」
鹿島さんは空いていた宇田賀の椅子に座り、グッと私の方に近づいた。私は少し戸惑って身を引く。
「……興味あるんですか?」
「あるよ。私だって力になりたいもの」
「そ、そうですか。えっと、それで、普通のバンドウイルカと宇宙イルカの脳の活動を比べると、ほとんど同じなんですが、一箇所だけ、宇宙イルカ特有の脳活動をしている部位があるんです。普通のバンドウイルカでは使われていない、脳のある部位が活動している」
「へえー、知らなかった」
「仮にそこを『部位X』とします。私は、この部位Xが、宇宙イルカ特有の『何か』の器官か機能を制御していて、フルダイブすることにより『何か』の理由で働かなくなり、それが『何か』の理由で体の崩壊に繋がると考えました。半球のみのフルダイブなら、片方の部位Xが生きているから、崩壊しない。全球でフルダイブしてしまうと、部位Xが完全に働かなくなり、崩壊してしまう。死んでしまった時も、脳の活動が停止するから、体が崩壊する」
「うーん、何か、ばっかりだねえ」
「だってわからないのですから、とりあえず何か、にするしかないんですよ。それで、この部位Xが、フルダイブ時に実際に働かなくなっているなら仮説が成り立つ。ですが……紺と蒼の脳活動を見ると、人のアバターを動かしている時も反応しているんですよ。部位Xが」
鹿島さんは肩をすくめた。
「なーんだ。じゃあ関係ないんだね」
「うーん。反応の仕方がちょっと変わることは変わるんです。イルカの体だと常に緩やかに反応しているんですが、人のアバターにフルダイブしている時は、断続的になるんです。でも、わからない。一体何をしている部位なのか」
「なんか惜しい感じはするけどねえ」
「そうなんですよ……はあ」
またしてもため息をついてしまう私。鹿島さんは立ち上がって言った。
「気分転換が必要だね。今夜、食事に行こうか」
「食事?」
「そう、二人で」
「二人で、ですか?」
鹿島さんは恥ずかしそうに顔を逸らした。
「えっと、宇宙イルカのトレーナー同士、たまには語り合おうよ。もしかしたら……もうそんな時間もなくなっちゃうのかも知れないし。ね?」
私は数秒間固まってしまった。我に返って、チャンスを逃がさないように慌てて答える。
「い、いいですよ……行きましょう。ぜひ。ぜひ行きましょう!」
「やった。楽しみ。どこにする?」
なんだろう。私は自分の脳活動を計測したい思いに駆られた。今、嬉しいことが起こっている気がする。でも、喜んでいる場合なのかという気持ち。素直に舞い上がれない私の気持ちは、行き場を失った結果、妙に落ち着いていた。
私はスマートグラスの地図アプリを起動する。
「えっと、おすすめの店を検索しましょうか。好みや最近行った店、予算のデータを連携させると、最適な場所がリストアップされます」
「はあ? 何それ? つまんなそう」
「え?」
鹿島さんは私の顔に人差し指を突きつけて言った。
「私は、美理仁君のおすすめの店に行きたい。そんなAIの考える最適なお店なんて、行きたくない」
「ええ……? 困ったな」
「もしかして、おしゃれなお店に行こうとしているでしょ? そんなとこ行きたくないよ」
「そうですか……じゃあ、ここは?」
私は自分のお気に入りの中華料理店のデータを鹿島さんに送付した。それを見た鹿島さんは満足そうに頷いた。
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