第32話 大樹の仮想世界

 目を開けると、私は薄暗い空間の中にいた。空気は軽く湿り、夏の森の中のような匂いに混じって、うっすらと海の匂いがした。ふと隣を見ると巫女服の女性が立っていた。


「もしかして、鹿島さんですか?」

「美理仁君? 何その格好? ねえ、なんか服がひらひらするんだけど……え、何これ?」


 自分達のフルダイブ用アバターはここには無いので、共用アバターというのを使わせてもらったのだが、まさか女性用は本当に巫女のデザインとは。ところで私はどんな格好なんだろう? 見回すと、壁際にぼんやりとした明かりが見え、その下に姿見があった。近づいて見ると光っていたのは壁に生えたキノコだった。メルヘンチックなデザインの仮想世界だなと思いながら、私は自分の姿を姿見に映してみる。そこには青いローブを纏った男性の姿が写っていた。


「な、なるほど、神官か……代表の趣味なのかな、どうせなら和風で統一すれば良いのに」

「ええ、何これ、恥ずかしいんだけど!」


 アバターの顔はAIが無数の人の顔を混ぜて作ったような、どこにでもいそうでどこにもいない印象の無難なものだった。


「いやあ、すみませんね。次までに始祖の神官と巫女にふさわしいアバターを用意しておきますよ。そうだ、後光が指すエフェクトを仕込みましょう」


 後ろから話しかけられて驚いて振り返ると、そこには白いローブを纏った鹿追が立っていた。鹿島さんが言う。


「あ、鹿追さん。ありがとうございます……でも今度は自分のやつを持ってきますから」

「そうですか? 巫女服、お似合いだと思いますよ。そうだ、頭の上に天使の輪も浮かせましょう」

「本当に節操がないですね……結構です」


 私はちょっとだけそんな姿の鹿島さんを見てみたいと思ったが、口には出すのは止めておいた。周りを見回し、鹿追に尋ねる。


「ここはなんですか? イルカ達はどこに?」

「まあ、焦らないでください。あそこが幹の出口です」

「幹?」


 鹿追は薄暗い空間にぽっかりと空いた穴を指差した。白い光が差し込んでおり、どうやら出入り口のようだ。私達が鹿追に続いてその光に向かって歩いていくと、徐々に波の音が大きくなってきた。


「外は海ですか?」

「ええ。驚くと思いますよ」


 やがて外に出た私の目に飛び込んできたのは、空の青、雲の白、葉っぱの緑、樹木の茶色がそれぞれ強烈に主張してくるハイコントラストな空間だった。私達は、巨大な樹の枝の上に立っていた。枝から下を覗き込むと雲が見え、そのさらに遙か下には美しいエメラルドブルーの海が見えた。この巨木は海に浮かぶ孤島に聳え立っているのだ。さらさらと優しい潮風が頬を撫でていった。


「うわあ、綺麗……」


 鹿島さんがうっとりと呟く。鹿追は満足そうに頷いた。


「すごいでしょう? 支援者にVR空間デザイナーがいるのです。AI生成ではこうはなりませんよ。フルダイブ用の仮想世界をデザインできる機会はそうないですから、喜んでいました」


 私は〈ミカギテクノロジー〉の仮想世界とのあまりの違いに圧倒される。


「これは……この規模のフルダイブ対応仮想世界を動かすのには相当高性能なコンピューターがいるのではないですか?」

「ええ。そうですね。確か国内にはまだ二台しかないものだったと思います」

「はあ……」

「さて行きましょう。この幹を中心に放射状に伸びたそれぞれの枝の先に教室があります。そこに宇宙イルカ達がいるのです」


 私達は幹に空いた穴から、一本の枝――と言ってもその太さは自動車がすれ違えるほどあったが――を歩き、その先端に乗っている円形の部屋へと向かった。歩きながら鹿島さんを見てみると、楽しそうに周りを見たり深呼吸をしたりしていた。


「高いところが怖いんじゃないんですか?」

「へ? ここまで高いと大丈夫かな。仮想世界だしね。ああ……あと、別に高いところ怖くなんてないよ? 何言ってるのかなあ?」

「ああ、はい、そうですか……」


 枝の先の小部屋に入ると、そこには一人の巫女服姿の女性と白いワンピースを着た少女がいた。驚いたことに、その少女の背中には白い羽が生えていた。鹿追の姿を見ると、その少女は嬉しそうに言った。


「あ、だいひょう、だ!」

「やあ、インドラ。元気かい? お客さんだよ」


 インドラと呼ばれた少女は駆け寄ってきて、私と鹿島さんを不思議そうに見つめた。すでにちゃんと走れるようだ。表情筋の使い方も自然。だが、走り方がバタバタと忙しない。紺や蒼の方が綺麗だ。私と鹿島さんはインドラに自己紹介をした。


「初めまして。私は旭美理仁だよ」

「こんにちは。インドラちゃん。私は鹿島裕子。裕子って呼んでね」

「お客さん! おいしいね! みりに、と、ゆうこ」


 インドラは頷き、背中の羽をパタパタと動かした。宇宙イルカがポジティブな感情の時に「おいしい」というのは共通なのだろうか。興味深い。

 鹿島さんが笑って言った。


「よく考えたら私達、今は姿も声も現実とは違うから、自己紹介しても無駄だったかな」

「ああ、そう言われてみればそうですね」


 すると、鹿追が首を横に振って言った。


「いえ、宇宙イルカ達は耳が良いですから、足音とか、動作の時の物音で個人を識別しますよ」

「……! そうですよね! やっぱり、そうなんだ!」


 私はつい大きな声を出してしまった。鹿島さんが鹿追に尋ねる。


「へえ、見えなくても、足音でわかっちゃうんですか?」

「ええ、そうですよ。以前、試しに私が巫女の女性アバターに入って会ってみたことがあるのですが、宇宙イルカ達はみんなすぐに見抜きましたよ」

「すごい! 賢いですね! ところで、イルカ達の背中のこの羽。可愛いですね!」

「そうでしょう! せっかく仮想世界のアバターなんだから、天使にしてあげたいじゃないですか? そうでしょう?」

「ええ、まあ、わからなくはないです」

「さすが、『始祖の巫女』! 趣味が合いますね」

「あはは……」


 鹿島さんは苦笑いを浮かべる。私は周囲を見回してから尋ねた。


「ところで、曽理音さんは? 幹部の人達もフルダイブされているんですよね?」

「曽理音君は今、ブラフマーと一緒にいるはずですね」


 私は宇宙イルカの名前に首を傾げる。


「ブラフマー? もしかしてアグニとかチャンドラもいるのですか?」

「ええ、そうです! 仏教の十二天ですね。オリュンポス十二神と迷ったんですよ」

「はあ……節操が無いですね……」


 鹿島さんが言った。


「私、曽理音さんが……じゃなくて、〈宇宙イルカ天使の会〉さんがどんなことをイルカ達に教えているか気になるんです。もっと見せてもらっても良いですか?」

「おや、そうですか! はい、大丈夫ですよ。佐藤君が第三枝、曽理音君は第五枝です。こちらです」


 私は巫女の女性とインドラに手を振ってその場を後にした。枝は十二本あり、時計回りに番号が振ってあるようで、インドラがいた枝が第一枝だった。私達は一旦幹まで戻ってから三番目の枝を進み、まずは佐藤がいるという部屋へと向かった。部屋に近づくと、白い羽を生やした金髪の少女が暇そうに扉の前に座り込んでいた。鹿追が首を傾げて言う。


「チャンドラ? どうしたのですか? 君は第四枝にいるはずですよね。担当の田代さんはどこに行ったのです?」


 チャンドラと呼ばれた少女は、部屋の扉を指差して言った。


「なかにいる。ふたり。なかよし。おいしそう」

「二人? 仲良し?」


 再び首を傾げる鹿追。私は尋ねた。


「どうしたのですか?」

「わかりません。とりあえず中にいるようですので、入って――」


 鹿追は扉を開けて中に入ろうとしたが、扉はびくともしなかった。


「ロックされていますね」

「ロック? そんな機能を付けたんですか?」

「ええ、確か佐藤君が改造して……佐藤君、田代さん、大丈夫ですか?」


 鹿追は扉をドンドンと叩いて呼びかけた。見たところ材質は木製のようだから、見た目と違う物理パラメーターが設定されていなければこちらの声は聞こえているはずだ。何度か鹿追が呼びかけると、扉が開いて佐藤が顔を出した。現実とは違い、アバターの佐藤はスラリとしてスタイルが良く、長い髪の毛がさらりと揺れていた。


「代表、なんですか?」

「ああ、佐藤君。どうしたのです? ロックなどして。チャンドラも外にいますし。田代さんを知りませんか?」

「なんでもありませんよ。あ、ちょっと! ミカギの人達を連れてきたんですか?」


 佐藤は不機嫌そうに私と鹿島さんの方を睨んだ。すると、鹿島さんが素早く前に出て扉を掴み、強引に部屋の中に入ろうとした。


「何を隠しているの! 見せなさい! あなた、なんか怪しいと思ってたのよ!」

「あ、何するんだ!」


 部屋の入り口で争う鹿島さんと佐藤。すると、「一体何?」と声がして扉から巫女服姿の女性が顔を出した。鹿追がその女性の顔を見て言う。


「おや、田代さん。何をしていたのですか?」

「代表……これは、その……少し会議をしておりまして」

「おや、そうでしたか」


 田代という女性の顔は少し赤くなっていた。顔を見合わせる私と鹿島さん。密室で男女が二人……仮想世界だし、色々と都合が良いのかもしれない。五感が再現されるフルダイブのVRなのだから、こういう使い方をしたくなるのも自然だなと、私は内心納得してしまった。きっと部屋の中の記録も残らないようにしているのだろう。見ると鹿島さんの顔も少し赤くなっている。

 だが、鹿追はよほど純粋なのか、部下達を信じているのかわからないが、全く疑う素振りを見せず、ニッコリと笑みを浮かべて言った。


「会議は結構ですが、チャンドラを一人にしては可哀想ですよ。そういう時は他の巫女か神官に任せるようにしてください」

「……はい」


 佐藤は決まりが悪そうにそう答えたが、チラリと鹿追のことを睨みつけたのを私は見逃さなかった。この組織は大丈夫なのだろうか? 曽理音は、こんなところで一体何をしているんだ?

 鹿島さんはむすっとした顔をして黙ってしまった。私は鹿追に言った。


「ここはもう良いです。曽理音さんの方を見せてもらえますか」

「ええ、分かりました。では第五枝に移動しましょう」


 私達は幹に戻り、第五枝へと移動した。すると、またしても部屋の前に羽の生えた金髪の少女が座り込んでいた。それを見て、鹿島さんが鹿追を睨みつける。


「ちょっと、どうなってるんですか? もう、私がイルカ達を全員見ます! 美理仁君、私、〈宇宙イルカ天使の会〉に移籍する!」

「ええ! ちょっと鹿島さん、落ち着いてくださいよ」


 鹿追は本当に申し訳なさそうに頭を掻いた。


「すみません。『始祖の巫女』と『始祖の神官』のお二人にお見苦しいところをお見せしてしまいました。ブラフマー、こんなところで何をしているのですか?」


 鹿追が尋ねると、少女は座り込んだまま私達を見上げて言った。


「ゆかに、すわってる」

「おや! ふふ、そうですね。なぜ、訓練をしていないのですか? 曽理音君はどこに行ったのです?」

「なかにいる。でんわ、してる。だいじな、でんわ」

「電話? ああ、そうなんですね。お二人とも、少しお待ちください」

「なんだ。曽理音さんはまともだったみたいね。良かった」


 どうやら、曽理音は部屋の中で誰かと連絡を取っているようだ。仮想世界の中から現実のスマートフォンなどの機器に直接アクセスする機能は標準で用意されているものだ。

 私は腰をかがめて、床に座っているブラフマーという宇宙イルカに尋ねた。


「曽理音とは、普段どんなことをしているの?」


 ブラフマーは口をパクパクさせてから言った。


「えっと、きぎょうひみつ、だよ!」


 私と鹿島さんは顔を見合わせた。鹿追が言う。


「ブラフマー、この人達は仲間なんだよ」

「でも、そりねが、おこる」

「ははは、曽理音君は厳しいなあ」


 鹿追はまるで娘を見るような優しい笑顔を浮かべて言った。ふと思いついた私はもう一度ブラフマーに尋ねてみた。


「ねえ、ブラフマー。最近『おいしかったこと』は何?」

 ブラフマーは嬉しそうににっこり笑って言った。

「どろーん、だよ。どろーんの、そうじゅう。おいしかった!」

「ドローン?」

「おやおや……」


 少し驚いた顔を浮かべた鹿追は、申し訳なさそうに私達に向かって言った。


「旭さん、鹿追さん。今のことは内密に。曽理音君が極秘で進めているプロジェクトなのです」

「ドローンで何をするのですか?」


 私は鹿追に詰め寄るように尋ねた。勢いにたじろぐ鹿追。


「え、ええと、私も実はよく知らなくて……」

「ええ?」

「代表、どうしたのですか?」


 その時、扉が開いて曽理音が顔を出した。曽理音は現実世界の自らの容姿と同じアバターを纏っていた。元が良ければ着飾る必要もないのだろう。


「ああ、曽理音君。鹿島さんと旭さんが見学をしたいということでして」

「そうでしたか。すみません、ちょっと連絡しなければならないところがあって」


 曽理音は笑みを浮かべて手で電話のジェスチャーをしてみせた。私は曽理音の名を呼んだ。


「曽理音! ……さん」

「何でしょうか? 旭さん」


 宇宙イルカにドローンを操縦させて何をしようとしているんだ? その問いが喉元まで出かかった。だが……


「ええと、何でもありません」

「? そうですか」


 訊けなかった。無言で気まずい視線を交わす私と曽理音。やがて曽理音が丁寧な口調で言った。


「では、仕事を再開しますので。すみませんが、こちらの内容はお見せできないのです。ご了承ください」

「ええ、大丈夫です。お邪魔しました。色々と参考になりました」


 表面的なやり取りをしながらも、私の頭の中ではいくつかの単語が繋がっていく。

 ――ILF、ドローン、テロ、宇宙イルカ、操縦、紺は飛行機のゲームが上手かった、もし曽理音がILFの構成員だとしたら――


「美理仁君、どうしたの?」


 鹿島さんの声で私は顔を上げる。気が付けば、私の視界には自分のバイタルデータの異常を示す警告が表示されていた。心拍数異常。


「すみません、少し体調が悪いようです」

「なんと! きっと、自分の体ではない汎用アバターですから、ズレが生じて気分が悪くなったのでしょう。たまにあることです。すぐに現実に戻った方が良いですよ」


 鹿追が大袈裟に両手を広げて言う。曽理音が私の顔を心配そうに覗き込んだ。


「おい、美理仁、大丈夫か? あ……」

「大丈夫だよ、曽理音。ありがとう」


 曽理音も私も、一瞬うっかり仕事を忘れたようだ。


「すみません、お言葉に甘えて、少し休みませていただきます」


 そう言って、私は逃げるように仮想世界から出た。


 その後、私は現実世界の医務室でしばらく休ませてもらった。仮想世界の見学を終えた鹿島さん達と合流して軽く今後の予定についての打ち合わせをし、夕方には来た時を同じように船に乗って〈東京神殿〉を後にした。船から降りた私達は、船が十分に離れてから二人同時に大きく息を吐いた。


「はあー、疲れた……」

「終わったあ。なんか感情がジェットコースターだよ」


 近くにあったベンチに腰をかけ、私達はしばらく無言でぐったりしていた。やがて、鹿島さんが口を開いた。


「でも、結構楽しかったかも。代表さんはちょっと疲れるけど、根はいい人そうだし。曽理音さんも紳士だね。佐藤は早くクビにすればいいのに」

「ちょっと……もう、いつの間にか鹿島さんまで〈宇宙イルカ天使の会〉に入らないでくださいよ」

「うーん、そこまではしないけど、ちょっとあそこのイルカ達が心配かも。あ、食堂良かったよね。宇宙イルカカルボナーラは美味しかったなあ」


 鹿島さんはうっとりとした表情を浮かべる。気楽なものだ。もっとも、私が勝手に抱え込んで悩んでいるのだから、一緒に悩めというのもおかしな話なのだけれど。


「私が食べた宇宙イルカステーキも意味がわからないくらい美味しかったですよ。名前は変えた方が良いと思いますけど」

「それは賛成。さて、帰ろうか。直帰で良いよね?」

「ええ。私の方から宇田賀さんには軽くメッセージで報告しておきます」

「ありがとう。ああ、食べ物の話をしてたらお腹空いちゃったね」

「ええ……」


 私は鹿島さんと途中まで一緒に帰った。せっかく鹿島さんと二人で話せる機会だったのだが、私の頭は考え事に支配され、気が付けば帰りはほとんど何も話さないまま別れてしまった。もしかして夕飯を一緒に食べるべきだったのかと気がついたのは、寝る前に今日の会話を振り返っていた時だった。

 その日の夜の私の夢には、あの仮想世界の大樹が出てきた。ただ、背中に羽の生えた鹿追代表がずっと笑顔で笑いかけてくるという、あまり嬉しくない内容だったが。

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