第30話 神殿訪問
2037年2月16日。
その日は、濃い霧が立ち込める湿っぽい朝だった。私は乗り慣れない電車に揺られ、千葉市内の駅へと向かっていた。この日、私と鹿島さんは〈宇宙イルカ天使の会〉の拠点である〈東京神殿〉を訪問することになっていた。窓の外を流れる霧に沈む見慣れない街の光景をぼんやりと眺めながら、私は先日の紺の言葉について考える。
曽理音が木之実ちゃんの事件の際に、犯人と一緒にいた可能性がある。紺はそう言った。あの事件の犯人だった久須田という男は、最近テロを起こしているILFという組織の構成員だった。もし紺が言うことが事実なら、それは曽理音がILFの構成員だということを示す。
そんなバカな。信じられない。曽理音はいつだって正しい選択をする男だ。そんな曽理音がテロ組織なんて。
では、紺が嘘を言っているのか? だが今の紺は成長し、きちんと自分の言っていることを理解しているはずだ。曽理音がILFだなんて嘘をつく理由はない。
幼馴染の曽理音と紺のどちらを信じるべきか。悩んだ私は、結論を先送りした。曽理音の件は自分の中だけで留めておき、紺にも他の人には話さないように言い聞かせたのだ。
あの後、私はすぐに曽理音に連絡を取った。曽理音は「黙っていて悪かったな。転職したんだ」とだけ言い、私も「そうか」とだけ答えて終わった。それ以上、踏み込んで訊く勇気がなかった。紺の話を裏付けるようなことを言われるのが怖かったのだ。
とはいえ、このまま見てみないふりをするのも落ち着かない。幸い、交流会に向けた仕事の中で〈宇宙イルカ天使の会〉とは接点がある。その中で、それとなく調べてみてから考える。そうするべきだ、それが最適解だと、今この瞬間も私は自分に言い聞かせていた。
〈東京神殿〉は東京湾の小さな人工島にある。ちなみに東京都ではなく千葉県だ。私と鹿島さんは最寄りの駅に現地集合し、指定された場所で〈宇宙イルカ天使の会〉の迎えの人と合流し、船に乗って上陸する予定になっていた。
駅の改札を出た私は、スマートグラスをかけて怪訝そうな顔をしている鹿島さんを見つけた。
「おはようございます。スマートグラスにしたのですか?」
「あ、おはよう、美理仁君。そうなの。いつまでもスマートフォンじゃだめかなって。でも地図出そうとしたのに、思考制御のスクロール? ってのが上手くできなくて……」
「意外ですね。仮想世界のアバターはあんなに動かせるのに」
「ね。ほんと! まあいいか。海に向かえば何とかなるよね。潮の匂いのする方にいきましょう」
「ええ……? そんな、動物じゃないのですから……僕がナビゲーションセットしますよ」
「そう? じゃあ、お願い。着いていくね」
私は自分のスマートグラスでナビゲーションをセットし、〈宇宙イルカ天使の会〉との待ち合わせ場所に向かって鹿島さんと一緒に歩き始めた。霧の立ち込める見知らぬ街。ナビゲーションに従って、無駄のない正解のルートを進めば間違いなく目的地には辿り着く。でも、もしかしたら途中にある素晴らしいものを見逃しているのかもしれない。果たしてどちらが正解なのだろう。
その時、鹿島さんが言った。
「ねえ、あの幼馴染の人とは話したの?」
「え……ああ、曽理音のことですね。少しだけ話しました。私が知らないうちに転職していたみたいです」
「ふーん。それで?」
隣を歩く鹿島さんが私を覗き込んだ。霧の中にいるせいで、世界に二人だけになったように錯覚してしまいそうだ。私は目を逸らし、たまたま目線の先にあった見知らぬ歯科医院の看板を見つめながら答える。
「それだけです。向こうも忙しそうだったので」
「えー? 本当にそれだけ? なんかあるでしょ? だって〈宇宙イルカ天使の会〉だよ。何であんな団体に! 敵だよ、敵! 悪の組織!」
「いや……鹿島さん、彼らは別に違法なことはしてないですよ、多分」
「だとしてもさ、気分良くないよね。何であんな団体が流行るんだろ。私達が最初に紺ちゃんと話したのに。後から真似して大きくなって!」
鹿島さんは頬を膨らませて言った。この人はこんなに子供っぽかったっけかな、と思いながら私は言う。
「きっと、みんな答えが欲しいんですよ。AIに従いたくない人が、今度は神とか宇宙イルカが答えを教えてくれると思っているのでしょう」
「あー、なるほど。最初の頃の美理仁君みたいな人達のことだね」
「え?」
「何々するべき、とかばっかり言って自分の意思が無い人。ああ、そっか、だから私あの団体が気に食わないんだ。納得」
「ははは……これからそんな嫌いな場所に向かうにしては、元気ですね」
私の問いに、少し顔を赤くした鹿島さんが言った。
「だって曽理音さんに会えるし……ねえ、あの人ウチの会社に引き抜こうよ。あんな詐欺団体にいるべきじゃないって。美理仁君から誘ってみてよ」
言葉に詰まってしまった私に、鹿島さんは「なんてね」とニコリと笑った。その表情に私が感じた感情は実に複雑でうまく言語化できなかったが、主成分が嫉妬であることだけは自分でもわかってしまった。
『目的地周辺に到着しました。ナビゲーションを終了します』
スマートグラスの合成音声がそう告げ、私達は立ち止まった。ほぼ同時に、見覚えのある顔のスーツ姿の男性がこちらに近づいてきた。男は先日東京ラボに来た幹部の一人、曽理音じゃない方の幹部だ。名前は確か、佐藤次郎衛門。私は軽く右手をあげて挨拶をした。
「ええと、佐藤さん、でしたよね。今日はよろしくお願いします」
「……〈ミカギテクノロジー〉の方ですね。ここからはあれに乗ります。来てください」
佐藤はぶっきらぼうに桟橋の横に停泊する小さなボートを指さすと、早足で歩き出した。私達はその後を追った。
〈東京神殿〉は東京湾沿岸の小さな人工島に造られている。小さいと言っても郊外のアウトレットくらいの広さがあった。以前は何か他の事業に使われていたそうだが、持ち主が破産して放置されていたのを〈宇宙イルカ天使の会〉が買い取った。陸地からは一キロメートルと離れていないが、橋はかかっておらず、上陸には小さなボートを使う必要がある。随分と不便なところに作ったものだと思うが、神秘性のようなものを演出するには好都合なのかも知れない。
ボートには佐藤以外にもう一人の男性が乗って待っていた。私達が乗り込むと、ボートはその男性の操縦で動き出した。近づくにつれて、霧の中から〈東京神殿〉がその姿を現す。最初に私の目に飛び込んできたのは、パルテノン神殿だった。ギリシャのアテネにある、あの有名な遺跡、そのミニチュア版のような建物が日本の東京湾の人工島に建てられていたのだ。三角形の屋根を支える何本もの大理石の柱。いや、大理石風の質感の最新の建築資材なのだろうけど。霧の中から姿を現す古代の建築は幻想的で美しかったが、ここが東京湾であることを考えるとそのミスマッチさが滑稽に思えてくる。そもそも、自分達なりの美しい神殿を建てるのではなく、借物の姿を堂々と晒すその神経に、私は嫌悪感を抱いた。それは鹿島さんも一緒だったようだ。思ったことを口にしてしまう鹿島さんは、はっきりと言った。
「うわっ、悪趣味! 典型的な成金って感じ」
一緒にボートに乗っている佐藤がチラリと私達の方を見たが、特に怒り出すということもなく、そのまま無言で進行方向へと顔を戻した。一方、鹿島さんは口を押さえ、決まりが悪そうにモジモジしている。そのまま、ボートは〈東京神殿〉の建つ人工島の桟橋へと横付けした。
「到着です。こちらへ」
私達は下船し、佐藤に連れられて偽パルテノン神殿の正面へと歩いて行った。人工島内にはいくつか建物があり、私達の船が着いた桟橋に面した場所に堂々と立っている偽パルテノン神殿が本部、その後ろにチラリと見えるガラスのピラミッドのような建物が、宇宙イルカ達のプールがある場所だという。本部を近くで見ると、ガラスとコンクリートの近代的な建物を偽パルテノン神殿が包み込んでいるような構造になっていた。大きな柱の間をくぐり、ガラス製の扉から中に入ると、現代的なセキュリティゲートが私達を迎えた。室内はモダンなオフィスといった雰囲気だったが、よく見れば扉のノブや、照明の形状、カーペットの柄など、所々にイルカをモチーフにした意匠が見られた。内装のデザイナーはそれなりに趣味が良いなと、私は一丁前な感想を抱く。
室内に人の気配はほとんどなかった。AIやロボットを導入する新しい施設には珍しいことではない。私達が応接室に向かう途中にすれ違ったのは、夫婦と見られる一組だけだった。その夫婦は薄い青色をしたローブのような物を見に纏い、静かに私達の横を通り過ぎた。きっと、あれが宇宙イルカの導きを得ようとやってきた支援者なのだろう。〈宇宙イルカ天使の会〉は現時点では宗教団体とは認められていないので、信者とは呼ばないそうだ。
応接室の前にたどり着くと、佐藤はイルカの形をしたドアノブを引いて美しい本木目の扉を開き、私達を中へと案内した。
「少々お待ちください。すぐに代表が参ります」
そう言って、佐藤は私達を残して去っていった。応接室のソファは二十世紀の有名な建築家がデザインしたモダンな物だった。きっと、安いレプリカではないのだろう。私と鹿島さんはそれぞれソファに腰掛け、ほとんど同じタイミングでふう、と息を吐いた。
「ああー、なんか立派すぎて緊張するね。お金って、あるところにはあるんだね」
「それにしたって無駄な使い方ですよね」
「あはは。無駄な使い方っていうなら、最初の頃の〈ミカギテクノロジー〉も負けてないでしょ」
「そうですか? 必要な投資しかして無かったと思いますよ。開発室なんてプレハブ小屋でしたからね」
「ああ、確かに。私、あそこに入ったらなんかされそうだなって思って、ずっとプールにいたんだよね」
「ええ……一体、僕らを何だと思ってたんですか?」
「うーん、それは、秘密」
その時、応接室の扉が開いて代表の鹿追と曽理音が入ってきた。姿勢を正す私と鹿島さん。鹿追はニッコリと笑い、両手をパッと大きく広げて言った。
「ようこそ! お待ちしておりました。どうですか? 〈東京神殿〉は?」
私と鹿島さんはチラリとお互いの顔を見た。ここは、余計なことを言わない人が応えるべきだと無言のメッセージを交わし合い、私は口を開く。
「ええ、今日は霧が出ていましたから、とても幻想的な雰囲気でした。東京湾にあのような建物があるとは。驚きました」
嘘は言わず、絶妙に褒めているようで褒めていない回答だ。どうしてか私はこういう場でそれっぽい最適解を言うのは苦手ではないのだ。鹿追は満足そうに首を大きく縦に振った。
「そうでしょう、そうでしょう。私が強く希望したのです。きっと、この建物であれば神である異星人にもわかるはずです。懐かしい、とね。昔、地球にいた頃に見た事があるかも知れませんから、見たら懐かしいと思いますよ。宇宙イルカ達も喜んでいます」
「はあ……そうですか」
私達と鹿追が会話している間、曽理音は口を開かなかった。その時、応接室の扉がノックされ、若い女性がお茶を載せたトレイを持って現れ、鹿追が自慢げな顔で言った。
「さ、どうぞ。『宇宙イルカ茶』です。お飲みください」
「……」
テーブルの上に置かれた湯呑みを前に、私と鹿島さんはまたしても顔を見合わせる。鹿島さんの右目の上がピクピクと引き攣っていた。鹿追が思い出したように言う。
「これは宇宙イルカのプールの前に一日置いた茶葉を使っています。宇宙イルカの何かが入っていたりはしませんから、ご心配なく。そんな恐れ多いことしませんよ」
「あ、ああ、そうですよね、ははは……」
「ありがとうございます。いただきます」
『宇宙イルカ茶』はとても美味しい普通のお茶だった。私達がそれぞれ一口お茶を飲んだのを見届けると、鹿追はいきなり真顔になって仕事の話を始めた。
「では、時間もありませんので来月の交流会についての打ち合わせを始めましょう。私の方で、先日いただいた質問事項についての回答資料を作っています。ご説明いたします」
私は急いで頭を仕事に切り替えた。
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