第29話 もう一人

その後、午前中の打ち合わせは普通に進んだ。仕事の話になると、鹿追はいたって真面目な様子になり、自ら作った計画を熱心に説明してくれた。その説明はわかりやすく、随分と手慣れた印象を受けた。鹿追の経歴は知らないが、ただの変人ではないようだ。昼になり、御鍵が三人を車に乗せて昼食に連れて行った。

 昼食後、鹿追達三人は〈ミカギテクノロジー〉の実験用プールを見学することになっていた。御鍵は別件の会議で抜けてしまったので、案内は私の役目だった。私が三人を伴って室内に入ると、いつものように紺と蒼が水面から顔を出したが、プールサイドには寄って来ずに、少し距離を取って私達を見つめた。


「ここが私達の実験用プールです。今は二頭の――」

「ああ! 紺様! 蒼様!」


 鹿追は突然叫び出したかと思うと、プールサイドに膝を突き、両手を大きく広げて紺達に呼びかけた。


「最初に人類に呼びかけた大天使である紺様のお姿を、まさかこの目で拝見できる日が来るとは! ああ、ありがたい! 死なないでよかった!」

「ちょっと鹿追さん、困りますよ」


 戸惑う私の横で、二人の幹部はほんの一瞬うんざりした顔を見せた。どうやら代表と幹部の間にはかなり温度差があるようだ。曽理音が鹿追に歩み寄る。


「代表。落ち着いてください」

「これが落ち着いていられるか! だって、こんなにも……かわいいんだぞ!」


 紺は横になってピクピクと頭を動かしながらギリリリリリ……と音を出し、蒼は怯えるようにプールの底に潜ってしまった。だが鹿追は構わずに恍惚とした表情を浮かべ、喋り続けた。


「いやあ、かあいいですよね。イルカって、なんでこんなにかわいいんですかね。特にあの口! 口角が上がって笑っているように見えて……あれが本当は、ただそういう骨格だってことくらい、私も知っていますよ。イルカは笑っているように見えるだけです。顔がコミュニケーションツールなのは一部の動物だけですからね。でも! 私はイルカが大好きなんです。子供の頃から。本当は、水族館に就職しようとしたのですがね。親に大反対されまして。仕方なく証券会社に就職したんですよ。私にはつまらない仕事でした。そのうちに水族館からは本物のイルカはいなくなってしまいました。まあ、それは仕方のないことかも知れません。でも! そんな時、宇宙イルカが現れたのです。私は歓喜しました。なぜ、イルカの姿なのかと! なぜ、あのかわいい、かわいいイルカの姿なのですか、と! これには意味がある。そして私は気がつきました。私達と対話するためだったのです。だってそうでしょう? もし宇宙サメや、宇宙イカだったら、きっとすぐに退治していますよ。そうは思いませんか? 旭さん!」

「ええ……!? なんだこの人?!」


 突然話を振られ、私は思わず大袈裟にのけぞってしまった。その時、実験用プールのスピーカー越しに蒼の声がした。二頭とも脳の半球はフルダイブさせていた。


「なんか、こわい。みりに、なに? このおおきなひと。うるさくて、おいしくない」


 焦る私の横で鹿追は何やら感激して不思議な声を出している。続いて紺が言った。


「お客さんだよ、あおい。こんにちは、変な人。私はこん、宇宙イルカです。みんなの名前を教えて?」

「う、うわあ……私に、私に話しかけているのですか? 紺様! 私は鹿追マイケルと申します!」


 鹿追は立ち上がり、紺に向かって深々とおじきをした。その後、後ろに立っている幹部二人をキッと睨みつけた。


「何ぼうっとしているんですか?! 名前を聞かれたでしょう? 早く答えなさい」

「……曽理音です」

「佐藤です」

「わあ、よろしくね」


 私はプールサイドの立体ディスプレイをオフにしていたことに気がつき、起動させた。少女の姿の紺と蒼の姿が映し出される。ちょうどその時、鹿島さんがプールに入ってきて私に駆け寄り、耳打ちした。


「紺ちゃん達の姿見せたらもっと面倒になりそうだから切ってたのに。何でオンにするの」

「ええ、そうだったの。ごめん」

「……いや、言ってなかった私も悪かったよ。とにかく、早く帰ってもらいましょう」

「そうですね」


 見ると、鹿追はまるで仏像を拝む熱心な教徒のように、立体ディスプレイの前で感激の涙を流していた。紺はいつの間にか覚えた苦笑いの表情を浮かべ、蒼は怖がって紺の後ろに隠れている。プールの方のイルカの蒼も、さっきから息継ぎをしてはすぐに底に潜ってしまう有様だ。私は軽い怒りを覚えた。ついに鹿追は両手を広げ、何やら祈り始めた。


「ああ……紺様、蒼様! 私めに、お導きをお与えくださあい」

「ちょっと、鹿追さん。いい加減にしてください。二人が怖がって――」

「ああ、貴方も宇宙イルカを『一人、二人』と数えるのですね。わかっていらっしゃる。そうです。それが正しいのです!」

 その時、鹿島さんが鹿追を指差して言った。

「あなたね! さっきから気持ち悪いのよ! 人の話を聞け!」

「!……」


 ぽかんとする鹿追。その顔を見て紺が笑った。


「うふふ、怒られたね。賑やかなおじさん。おいしくないね」


 鹿追は涙をこぼし、泣き出してしまった。鹿追以外の全ての人間――と宇宙イルカ――はすっかり呆れてしまい、もう何も言えなかった。やがて鹿追は真面目な顔になり、私達に向かって深々と頭を下げた。


「大変申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしてしまいました。二度とこのようなことは致しません」

「はあ……」


 幹部二人は顔を見合わせ、肩をすくめている。こういうことは一度や二度ではないのだろう。鹿島さんが、決まりが悪そうに言った。


「えっと……私もつい失礼なことを言って……すみませんでした」

「いえ。私が全面的に悪いのです。どうか、どうか許してください」


 鹿追は再び私達に向かって深々と頭を下げた。


「鹿追さん、頭を上げてください。わかっていただければ良いのです」

「ええ、もうわかりましたから。私の方こそ、本当に失礼しました」


 私と鹿島さんが言うと、鹿追は頭を上げ、満面の笑みを浮かべて言った。


「ありがとうございます。次はぜひ、私達の〈東京神殿〉にお越しください。お詫びにどこでもご案内いたします」


 〈宇宙イルカ天使の会〉が東京湾の人工島に作った施設は、〈東京神殿〉という大層な名前がついているのだ。私は精一杯の作り笑いで応える。


「え、ええ、ありがとうございます。午前中に話したように、どのみち交流会では私達が紺か蒼を連れてお伺いすることになると思いますので、その計画を立てるためにも一度は伺おうとは思っています」

「ぜえひとも! さて、本当は仮想世界の紺様と蒼様にもお会いしたいところでしたが……もうそんな迷惑なことは申しません。これだけで十分すぎる素晴らしい経験でした。今日は、これにて失礼させて頂こうと思います」

「そうですか……」


 私と鹿島さんはホッと肩を撫で下ろした。プールから顔を出した紺がピュウピュウと鳴くと、鹿追は穏やかな笑みを浮かべた。


「いやあ、やっぱり個体ごとに鳴音が全然違うのですね。顔付きも全然違う。紺様は丸いお顔で、蒼様は何というか、シュッとしていますね」


 紺がピュッと鳴き、その後ろで恐る恐る蒼が顔を出してキュウキュウ……と鳴く。鹿追が手を振ると、紺と蒼はヒレを振り返した。立体映像の二人も手を振っている。鹿追の幸せそうな顔を見て、私は少しだけ彼に対する印象が変わった。「厄介な変人」から「イルカのことはどうやら本当に好きだけど厄介な変人」に変わっただけだったが。


 厄介な客が帰り、私と鹿島さんは開発室のデスクでぐったりとしていた。そんな私達を見て、宇田賀が楽しそうに声をかけてくる。


「いやあ、面白い見せ物だったぜ。あの代表、芸人になればよかったんじゃないか?」

「宇田賀さん、失礼ですよ。はあ、疲れた……」


 宇田賀はこういう時に客に応対することはまずしない。立ち回りが上手いというか、ずるいというか、そういう人だ。鹿島さんが言った。


「まあ、変な人だけと、あの鹿追って人、根は悪い人じゃないかも。イルカは本当に好きみたいだしね」

「それは同感ですね」


 宇田賀がニヤニヤした顔で私の肩をポンと叩いた。


「ま、とにかくお疲れさん。今度、〈東京神殿〉に行くんだろ? 頑張れよ」

「ああ……やっぱりそれも私達なんですかね」

「そりゃそうだろ。二人ともあの代表に随分と気に入られたみたいだしな」


 私と鹿島さんは同時にため息をついた。結局、曽理音とは二人で話す時間がなかった。仕事が終わったら連絡してみよう。考えれば、最近は〈ミカギテクノロジー〉の仕事に夢中になっていて曽理音とはずっと会っていない。いつの間に、〈宇宙イルカ天使の会〉に、しかもその幹部なんて。一言言ってくれても良いのに……

 その時、実験用プールにいたはずの本原が開発室に入ってきた。


「旭さん、鹿島さん。お疲れ様です。ちょっといいですか?」

「ええー、今度は何よ?」

「それが、紺ちゃんが話したいことがあるって」


 私と鹿島さん、宇田賀は互いに顔を見合わせた。


「何だろ? 愚痴かな?」

「初めてですね、こんなこと」


 私は何だかソワソワした。


「鹿島さん、とりあえず私が聞いてきますよ」

「あ、お願い。あとで私も行く」


 早速、私が実験用プールに向かうと、紺が顔を出してプールサイドに寄ってきて何やら賑やかに鳴き出した。立体ディスプレイの紺は少し興奮した様子で腕をブンブン振り回している。スマートグラスのスピーカーから仮想世界の紺の声がした。


「みりに、さっきの人、このみの中にいたよ!」


 木之実ちゃんの名前が出た瞬間、私はごくりと唾を飲む。


「紺。どういうこと?」

「前にこのみを起こしに行った時のね、車の事故の時にいた人だったよ。今日の人。そりね、って人」


 私の頭を混乱が支配する。曽理音? 私は確認するようにゆっくりと尋ねた。


「紺。それはつまり、あの事件の犯人ってことかい? 犯人はもう死んじゃったんだよ」

「知ってる。でもそれは一人目」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、紺。一人目だって?」

「あのね。あそこにやって来たのは二人いたんだよ。一人は棒でこのみのお母さんを叩いた人。もう一人は後ろにいた」

「はあ!? いや、あの時、事故を起こした車に近づいてきたのは一人だった……二人目なんて見えなかった。紺、そうだよね?」


 紺は頷いた。


「二人目は見えないよ。でも聞こえた。足音でわかるもん。今日、同じ足音の人がいた。そりね、って人だよ」

「足音……」


 イルカは音でコミュニケーションをする動物だ。跳ね返ってくる音波を使って物の位置を把握するエコローケーションの能力があることも広く知られている。宇宙イルカもそれは同じで、音には敏感だった。それに、紺は以前、間違って鹿島さんのアバターに入った私をすぐに私だと見破ったではないか。いや、「聴き破った」と言った方が正しいのかもしれない。私は青い顔で言った。


「つまりそれは、木之実ちゃんを巻き込んだあの事件の犯人は実は二人いて、一人は生きていてまだ捕まっていなくて、しかも……しかも、それが曽理音だって言うのか?」

「うん。そうだよ!」


 イルカの紺がピヤッ! と元気に鳴く。私は言葉を失い、頭を抱えた。

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